影の通路
天井は低く、壁はざらついていた。鉄筋コンクリートの継ぎ目に沿って、水がゆっくりと染み出している。打音はほとんどなく、通気口の向こうから湿った空気が生温かく流れてくる。足元には、ケーブルを収めた細いダクトが並行して走っていた。ところどころに金属の補強板が貼られ、配線のひび割れを防いでいる。天井には小さな赤い灯が一定間隔で点り、その光がトンネル内の埃をちらちらと照らし出していた。
人ひとりがようやく屈んで通れる幅。高圧線の本線でも、通信幹線でもない。あくまで中央制御室に出入りするための、メンテナンス用の補助ルート。現場対応チームの人間でも、図面を持たない限りは辿り着けない経路だ。逆に言えば、こういうルートを使って制御室に近づける人間は、ごく限られている。
白石颯太は、背中に貼りついた汗を気にしながら、息を吐いた。喉の奥で音が鳴らないよう、吐く息を細く長く調整する。靴のソールが床の溝に引っかからないよう、歩幅は狭く、つま先から静かに置く。もう何時間も、そうやって歩いていた。ずっと耳を澄ませていたせいで、世界がやけに静かに感じる。どこかで聞いたような通気のうなりや、ダクトのきしみが、かえって不安を煽った。
防衛省の接触チームが、上からこのルートを見守ってくれている。分岐に差しかかるたび、スマホに短いテキストが届いた。
「分岐A-4、敵影なし」「右側ルート、温度変化なし」
──それだけだ。バッテリーを節約するため、音声通話は切ってある。孤独ではない。だけど、静かすぎた。
そんな中で、一つだけ、毎回のように混ざる無駄話があった。
「この気配、ノイズフロア高めっすね」「この共同溝、体感S/N比マイナス8dBっすよ」
春日部の、どうでもいいエンジニアジョーク。さっきは「この構造、LANケーブルだったら即却下レベル」だった。くだらない。でも、ありがたかった。誰かが自分を見てくれているという感覚が、いまは何よりの支えだった。
角の先が、開けている。そこが──中央制御室前の広場だ。
広場へ続く分岐の手前で、颯太は立ち止まった。バックポケットからスマホを取り出し、マイク部分を壁の角にそっと近づける。壁越しに、微細な音の振動を拾うための位置。音声は即時に接触チームへ転送され、向こうのAIと人力が併用でノイズ除去と解析を行う。過去の分岐では、すべて「敵影なし」。だが今回は、スマホの画面に表示されたテキストが違った。
「敵気配を探知。詳細は音声からでは不明。確認できますか?慎重に、ご安全に」
思わず、息を詰めた。背中に冷たいものが流れ落ちていく。やっぱり、いた。
当たり前のはずだった。重要拠点だ。警備がいないわけがない。それなのに、どこかで「無人だったら」と願っていた。その甘さを、冷や水のような文字列が打ち砕いた。
角を覗き込むべきか、躊躇した。目視確認は最も確実だが、相手がこちらに気づくリスクも大きい。もしその一瞬で見つかれば、逃げ場はない。この補助トンネルは、もともと“一方通行”だ。この狭さ。バックステップでは逃げ切れない。光が漏れれば、声が漏れれば、それだけで詰む。
スマホに、新しいメッセージが届いた。
──「せめて敵の通信手段が分かれば、クラックチーム動かせるのに」
送信者は春日部だろう。軽い文面の裏に、的確な視点と焦りがにじむ。
通信……?
ふと、疑問が浮かぶ。この地下で、敵はどうやって通信しているんだ?地上との距離はあるし、構造体は鉄筋コンクリートに囲まれている。軍用中継器であっても、安定した通信は難しいはずだ。
颯太は社用スマホの専用アプリを起動した。Wi-Fiスキャナと通信ログビューアが一体化した、調査用のプロツールだ。画面に、見覚えのあるSSIDが浮かび上がる。「_GSW_UtilityNet」「_TokyoInfra-Net_G」──どれも、共同溝内に設置されている作業員向けの公衆APだ。普段は電力会社やガス、水道の点検員が使うもの。都市インフラの“裏側”に詳しい颯太には、すぐに見覚えがあった。
そのAPに、アクティブ接続中の端末が5台あった。4台はBluetooth連携型、通信間隔が均一。おそらくヘッドセットだ。残る1台はタッチ操作のあるタブレット。
「……4人分か」
敵は、都市の公衆インフラを借りて通信している。つまり、自前の軍用中継器すら使わず、都市機能に寄生する形で作戦を進めているということだ。自分たちの足元で、こっそり他人のネットを盗みながら。
気配を感じ取った瞬間、颯太はそっと後退した。
角を曲がるのはまだ早い。息を整え、足音を立てないよう注意しながら、数十メートルほど引き返す。途中にあった、小さな分電盤の横の作業員用スペース──三方をコンクリート壁に囲まれた点検小部屋に身を隠した。
ここなら、声を抑えれば通話もできる。
スマホを取り出し、バックライトを最低に落としてから通信アプリを起動する。音声通話をリクエスト。数秒のラグの後、ノイズ混じりの返答が返ってきた。
「こちら柿沼です。白石さん、状況はいかがですか」
低くて落ち着いていて、それでいて、妙に優しい。先程「戦闘を避けるように」と注意をしてくれた自衛隊の柿沼だ。
「白石です。敵、いました。……4人。無線装備で、共同溝の公衆APを使って通信してます」
「了解しました。なるほど、公衆APですか……春日部さんから、だから敵はお台場のネットワークを隔離したのかもしれないと言われましたがいかがです?」
「あり得ると思います」
確かに、お台場一帯のネットワークを物理的に隔離してしまえば、使い放題だ。
「白石さん。どうします? 中央制御室へのアクセスが難しいようであれば、こちらでも代替案を検討しますが……」
それが優しさからの提案だというのは分かっていた。だが、颯太はかぶりを振った。
「いえ、排除します」
「……排除?」
「何か、罠みたいので……静かに、順番に。一対四で正面からは無理ですから」
「……わかりました」
少しだけ間をおいて、柿沼の声が変わった。人間としての声から、軍人としての声へ。
「白石さん。ありがとうございます。ご自身にしかできない判断です。……では、私たちがトラップ構成を考えますので、そのために、今いらっしゃる場所の状況を教えていただけますか」
「了解です」
「例えば、可動する配管、未使用の工具、ヒューズや分電盤のアクセス状況など、些細なことでも構いません」
「了解。……今、確認します」
颯太はスマホを手に、ゆっくりと立ち上がった。足元のコード巻き、壁のフック、上部の吊り配管。目に映るものすべてが、いまは武器になるかもしれない。
柿沼からトラップの手順をレクチャーされた颯太は、指示に従って静かに準備を整え、完了後に再び柿沼と確認を交わした。
「白石さん。……本当に、やるんですね?」
通話の向こうで、柿沼の声がわずかに低くなった。それは命令ではなく、確認だった。最後のブレーキ。逃げ道を残すための一言。
「……やります」
間を置かずに答えた。震えは、もう消えていた。
「了解しました。ただ一つ。今回のトラップは、致死性の可能性があります。敵が死亡してしまうかもしれません」
「……」
「ですが、それはトラップの構成を許可した政府側の責任です。白石さんが個人で背負うべきものではありません。──どうか、それだけは覚えておいてください」
沈黙が続いた。やがて、柿沼が優しく言った。
「くれぐれも、安全に」
颯太は、小さく息を吐いた。
「……何かあったら、妻に──」
「やめてください。そういうの、縁起でもないです」
あくまで穏やかに、だが有無を言わせぬ調子だった。
「今は作戦に集中しましょう。終わったら、直接会って伝えましょう」
「……はい」
しばらくの静寂の後、柿沼が思い出したように言った。
「そう言えば──敵の通信封鎖、できますか?」
「できます。DeAuthかけます。範囲限定ですが、有効なはずです」
「でぃー……?」
柿沼の反応が止まる。
「無線通信に偽の切断命令をばらまいて、強制的に接続を落とす技術です。……春日部さんには説明不要です」
「…………おっけーです!完璧っすね!」
背後で聞こえた春日部のはしゃいだ声に、柿沼がようやく納得したようだった。
音声通信は切られていた。敵に悟られないよう、今の颯太にはタブレットの画面と小さなバックライトだけが頼りだった。作戦は整っている。トラップは設置された。敵の巡回ルートも予測通りだ。あとは──通信を、切る。敵同士の連携が取れなくなれば、あとは一人ずつ、静かに、順番に。
タブレットの画面に指をかけながら、颯太は小さくつぶやいた。
「……無線は、やっぱり信頼しすぎちゃダメなんだよ」
タップ。
コマンドが送信され、端末がピリリと反応した。すぐさま、DeAuthフレームが発射された。
これは正規のWi-Fi通信を強制切断させる攻撃手法で、アクセスポイントとクライアント間の通信を“あたかも自分が管理者であるかのように”見せかけて、切断指示をばらまくものだ。基本的には、2.4GHz帯や5GHz帯の無線LAN通信に依存しており、暗号化されていても切断フレームは平文でやりとりされる仕様の“穴”を突いたものだった。敵のヘッドセットとタブレットは、おそらくこの仕組みを知らない一般的な商用モデル。何の警告もなく、接続が突然ぷつりと切れる。
ネットワークが沈黙すれば、兵士たちは孤立する。
フレームを送信した指をタブレットから離さないまま、颯太はすぐに別の画面を開いた。補助スペースに設置された古いガス探知アラートの制御盤。颯太の権限なら、タブレット経由で強制発報ができる。颯太の指がボタンをタップする。
数秒後、すぐ隣の小部屋──颯太が今隠れている場所の一つ手前の区画から、わずかに機械音が鳴った。
「ピッ──……ピ、ピ、ピ──」
連続する電子ビープ。ガス漏れ検知アラートの音だ。音量は抑えられているが、十分に人の注意を引く。
気配が動いた。足音。複数。こっちへ向かってくる。
やはり、引っかかった。音から推測するとおそらく2名。警戒して進んでくる気配があった。
ドアが開くような音。中に入った。数秒の間。
──ガンッ!
金属が激しく砕ける音。続いて、鈍い何かの落下音。何かが潰れたような重い響きと、鉄の軋み。それきり、何も聞こえなくなった。静寂。ほんの数秒前まで音のあった場所に、音がなくなった。
颯太はゆっくりと、作業小部屋の縁から顔を出し、通路の先を覗き込んだ。照明の届く範囲に、影が崩れていた。二人。倒れている。動かない。赤黒い液体が鉄板の間に広がっていた。片方の身体は、上から折れ曲がった配管に押し潰されていた。そこにはもう、判断の余地はなかった。
颯太は、自分の立っているこの区画の構造を、頭の中に正確に思い描いていた。この施設の設計図は、かつて図面で何度も確認した。さらに点検対応で、何度も似たような場所を歩いてきた経験がある。この先、中央制御室の前室──通称「アッパーデッキ」に、スプリンクラーの制御弁がある。点検用アクセスポートはすでに通電済み。颯太はタブレットを操作し、弁制御盤のチェックコードを無理やり書き換えて、強制散水を指示した。
キン……と金属の緊張音。数秒後、配管内の圧が抜け、遠くで「パシュッ」と空気が割れる音がした。
制御室のある方向に向けて、颯太は身を低くして進み出す。足音を殺し、呼吸も短く区切って。先程のトラップ現場には目を向けず、ただ足元と進行方向の音に神経を集中させた。
制御室の前まで来たとき、水たまりが見えた。スプリンクラーが作動した形跡は確かにあり、鉄板の床の上には広がった水が反射光を揺らしていた。制御室の扉は半開きで、内部の照明は落ちている。赤い非常灯だけがゆらゆらと壁を照らしていた。
颯太は、肩に提げていた簡易バッグから、あらかじめ改造しておいたAEDを取り出した。バッテリーパックと昇圧モジュールが追加されたそれは、もはや医療機器というより“送電装置”に近かった。
「ごめん」と小さく呟いて、颯太はそれを水たまりの中に向けて放り投げた。
──パチン。
何かが焼けるような小さな音の後、室内から短い悲鳴が上がった。だが颯太は立ち止まらなかった。そのまま踵を返し、来た道を戻って、小部屋に身を沈めた。音声探知モードに切り替えたスマホが、数分後に通知を出した。──「制御室周辺、音声反応なし。敵影なし」
全身の力が抜けるような感覚に、壁にもたれかかる。
数分後、もう一度だけ息を整え、颯太は静かに立ち上がった。制御室前まで戻ると、扉はそのまま半開きになっていた。中に足を踏み入れる。赤い非常灯に照らされた空間の中、制御卓とラックが静かに並んでいた。
床に、水と、黒い影。2体。おそらくさっきの電撃を受けた兵士たちだ。全身が濡れたまま仰向けに倒れ、装備もほとんどが焼け落ちていた。颯太は、しばらく立ち尽くした。
「……確認は、しない」
目を見開いたまま倒れているが、生きているかもしれない。でも、確認はできない。柿沼からは、可能であれば止めを刺してらおいた方が安心とは言われたが、無理な事はしない方が良いとも言われている。
颯太は扉の近くにあった長柄の刺股を使って、倒れている兵士たちの身体をなんとか外へ引きずり出した。大きな音を立てないよう、ゆっくりと、息を止めるようにして。そして、先ほど物理トラップで仕留めた2人が倒れていた作業小部屋まで、順に運んで入れた。
部屋の扉を閉め、外から鉄パイプでロックする。これで、仮に誰かが生きていたとしても、しばらくは出てこれない。
「……閉じ込めただけ、だからな」
息を止めていたせいか、胸が苦しくなった。そのまま壁にもたれかかり、膝から崩れ落ちる。こみ上げてきた吐き気を堪えきれず、通路の端に身をよじる。胃の中のものが音もなく逆流し、床に吐いた。
咳と嗚咽。
喉の奥が焼けるように痛かった。それでも、声を上げるわけにはいかなかった。涙が止まらなかった。頬を伝って、静かに流れていく。しゃくりあげる音さえも、喉の奥で殺すようにして。
それでも、泣いた。
何をしたのかは、わかっている。何をしなかったのかも、わかっている。それでも、やるしかなかった。
数分。時間が過ぎて、息が整ってきた。膝を抱えていた腕をゆっくりと解き、吐いたものを見ないようにしながら立ち上がった。
制御室へ戻る。誰もいない。非常灯の赤い光が、無音の卓を照らしていた。汗と涙に濡れたまま、椅子に座る。手をキーボードの上に置き、深く息を吐いた。
──ここからは、俺の仕事だ。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
もし楽しんでいただけたら、ブックマークや評価、リアクションなどをしていただけると励みになります。
感想もいただけると幸いです。