同期信号
── 22:09 白石颯太(首都圏臨海共同溝内部・東京ビッグサイト直下)
「……聞こえますか」
聞こえた。あまりにも静かに、耳に入ってきたその声は、現実よりも少しだけ透明だった。白石颯太は、自分が「はい」とチャットに答えたことを、少しあとになって理解した。指は自然に動いていた。だが、心はまだ置いてきぼりだった。
ここは、どこだ。共同溝、J-48上部。配線ラックの脇にしゃがみこんで、小型LEDの灯りも消したまま、耳だけが生きている。
スマホのバッテリー残量は47%。繋がっているのは、閉域の技術保守用Wi-Fi。OOB──Out-of-Bandネットワーク。何かの拍子に、ログイン状態のまま接続されていた社用回線だ。誰も知らないはずの経路が、生きていた。
唐突なスマートフォンの振動に気づいたときは驚いた。なんらかの通知が来るとは思いもしていなかった。
そこに今、“政府”がつながってきている。そういうことだ。
「白石颯太さんですね」
再び聞こえた声は、機械的というより、意味の輪郭だけを選んで届けてくるようだった。語尾に抑揚はなく、必要以上の感情も込められていない。
「我々は、政府による国家安全保障会議の白石さんへの接触を担当するチーム、私は内閣情報調査室の永田というものです。白石さんの会社の保守回線をつかって、あなたの端末に接続しています」
わかってる。けど、現実味がなかった。
ここには音もなく、人もいない。脇に積まれた空の配管。泥。染み出した地下水。冷たい金属の匂い。目の前にあるのは、スマホの画面と、見慣れた保守ラックのラベルだけ。そこに、“本物の作戦”が入り込んできている。
「あなたにお願いしたいことがあります」
颯太はゆっくりと呼吸を整えた。これは、夢ではない。自分にしか見えていない何かでもない。孤独だと思っていた今この場所に、“線がつながった”のだ。
その先で、誰かが待っている。誰かが、“自分を”見ている。画面の向こう。暗闇の向こう。どこかの会議室のその先に──
「白石さん、落ち着いて聞いてください。単刀直入に言います」
声は、静かに、だが確実に空気を変える重さを持っていた。背後に複数の目がいるのがわかる。声だけなのに、こちらの姿が見えている気がする。
「お願いしたいのは、中央制御室への移動です。現在位置から、およそ徒歩で一時間。共同溝J系統を南下しテレコムセンター地下の中央区画まで。そちらとは、進行方向が逆になります」
……逆。
今、颯太が目指していたのは辰巳方面だった。夢の大橋を渡って、妻のいる辰巳フラッグへと少しでも近づくために、有明側へ移動していた。
だが、首都圏臨海共同溝の中央制御室はその逆にある。お台場の南端、都市機能の核をまとめた管理ノード。何度も構造図を引いた場所。現地調査に入ったことだってある。
通信設備、電力ライン、浄水ポンプ、交通制御、ビル管理、警備網──すべてが、中央制御室から統括されている。
「その制御室に、あなたの端末を接続させたいのです」
永田の言葉に、硬さはないが温度もない。ただ、声のうちに小さな祈りを感じる。
「現在、政府はOOB-Net経由で展開予定の専用のトロイの木馬を準備中です。中央制御室に設置された専用端末と白石さんのスマートフォンとを物理的に接続することで、敵に気づかれる事なく、お台場エリアの制御権を部分的に奪取可能になります」
颯太は思わず、眉をひそめた。
「ウイルス……ですか」
「はい。政府はすでに本事案を受け、防衛出動体制に移行しております。その過程にて政府が合法的に自作した管理ユーティリティとなります。ただし、“敵の占拠下である可能性がある施設”に対して投入する以上、正面からの作業は不可能です。内側から、静かに接続する。その鍵を、あなたの端末が持っています」
端末と中央制御室をつなぐ。OOBを通す。
たしかに、構造的には可能だ。自分の端末は社用端末で、管理ルートも生きている。そしてOOB──通信会社の保守回線──がこの地下で唯一生きていた通信路だ。
論理は、通っている。整っている。
だが。
「そっちじゃないんですよ」
「俺、今、逆方向向かってて」
チャットに打ち込む言葉に感情が乗っていた。
「夢の大橋、越えようとしてたんです」
「辰巳フラッグ、妻がいるんで」
永田はすぐには答えなかった。応答までの無音が、逆に正直だった。
そして、その沈黙を破ったのも、やはり永田の声だった。
「承知しています。辰巳フラッグ、あなたの奥様は現在も38階で監禁されていると推測されています。我々の監視網では、現時点では辰巳地区の居住施設に対して危険な兆候は検出されていません」
その事実だけが、細く突き刺さった。
「……でも、何かあったら」
「そのときこそ、あなたが中央制御室にいる必要があります。制御が取れれば、監視も撹乱も構築できる、かもしれない。あなたの目的を成す為にも、白石さん。あなたのお力を政府にお貸しして頂けませんか?」
画面の向こうの誰かが、そこだけ強調したように聞こえた。
沈黙の中、次に声を発したのは春日部だった。
「白石さん、技術の方を少しだけ補足します。堅い話なんで、ざっくりで聞いてください……失礼。防衛装備庁の春日部と申します。」
颯太は画面を見ながら、無言で頷いた。
「いま、OOB──この保守ネットワーク経由で、端末をつなぐ準備してます。で、中央制御室側にある“据え置き端末”と、あなたのスマホを接続するんです
どっちにも、特殊なポートを使ってルーティングして、そこに専用のトロイ──まあ“管理ツール”を流し込みます」
颯太も技術者。大まかなイメージはつく。
「実行は自動。あなたが制御室端末の前で待っててくれれば、ログインも送信もこっちでやります。動いてほしいのは、“そこに行って、接続される”ってところだけ」
「……なるほど」
「俺はケーブル役ってことですね」
「まさに。カテゴリ127位のLANケーブルってことで。あと、電池が切れないようにだけ注意です」
春日部が軽口を混ぜたが、颯太はまだ笑えなかった。
「敵がいる可能性は?」
「今のところ、中央制御室内の映像も音響も取れてません。OOB-Netにつながっている幾つかのWiFi AP のセンサーから、無理矢理解析をかけています。それによれば、周辺ルート上に敵がいる可能性は薄いです。なんらかの通信デバイスが付近を通過した痕跡がない。敵は基本的に、共同溝の出入り口だけを警戒しているっぽいと推測しています」
「じゃあ、中央制御室の中は……?」
「ブラインドです。基本的にはAP周りの電波位相の変化くらいしか、僕らにはわかりません。なので、そもそも通路に監視マイクがあるかどうかも断言できない。だから音声通信も慎重に進めてます」
そのとき、通信に別の声が入った。
「白石さん。柿沼……陸自の者です。少しだけ補足を」
低く、通る声だった。言葉の出だしだけで、どこか現場の空気が伝わってくる。
「敵と遭遇した場合、絶対に戦闘は避けてください。彼らは民間人に容赦しません。“無抵抗な技術者”が盾になるとも限らない。“逃げる”ことだけを考えてください」
心配そうな声だが、恐怖心を抱かせてでもこれだけは伝えておくと言う強い決意を感じる。
「最低限の警戒だけ、持っておいてください。扉の下の異物。意図的に整った足場。磁気カードが置かれたままの装置。“違和感がある場所”は、避ける。必ず確認してください。
それと、見られてる前提で動くこと。視界に人がいなくても、センサー、音、空気の振動。相手は、そういうのを拾う技術を持ってると思ってください」
そこまで一息で告げ、しばらくの沈黙。それは、颯太の覚悟の確認を待っているようにも聞こえた。
「もう一つ。白石さん、罠についてお伝えします」
柿沼の口調が低くなった。
「あなたの手元にあるもの、あるいは現場で拾える素材だけで、複数の“致死性を持つ仕掛け”を設置可能です。その方法を、これから別途送ります」
その言葉に、颯太は言葉を失う。
「……ええと、それは……」
「何か、必要になった際に選択肢は多い方が良い。そう、ご理解ください」
柿沼のその言葉と共に、罠の仕掛け方と作り方について、共同溝内の設置物や残置物ごとに詳細にまとめられたテキストファイルが送られてきた。
颯太は、画面を見つめたまま、静かに頷いた。いま、自分が“本当に戦場にいる”ということだけが、ようやく染み込んできた。
そこに、もう一人の声が入った。
「ひとつ、法的な確認を申し上げます」
硬質で整った、女の声だった。落ち着き払ってはいるが、何かを読み上げているのではない。すべてを理解し、計算し尽くした者だけが持つ、官僚の喋り方。
「法務省刑事局……今は白石さんの法的サポートを担当いたします、江波と言う者です」
颯太は思わずスマホを握り直した。画面の向こうで、別種の“本物”が動いている気配がした。
「現地で、あなたが何をしても――繰り返します、たとえ相手を殺傷する結果となっても――検察はあなたを訴追しません。この件については検事総長と事前に合意を得ています」
静まり返る通信線の中、江波の声だけが凛と通る。
「これは正当防衛の適用拡大ではありません。特例措置です。国家の指示によって動く者に対する、全面的な不訴追の明言です。あなたが行うすべての行動の責任は、我々が引き受けます。白石さん、どうか安心して“必要な行動”をとってください」
それは慰めではなく、保証だった。言葉の選び方すら計算されたその一文が、冷たく、しかし確かに、背中を押してきた。国家は颯太が殺人を犯す可能性すら考慮し、それを後押ししている。
全員の発言が終わったあと、再び、静寂が降りた。何人もの人間が、画面の向こうでこちらを見ている。その誰もが言う。「君しかいない」と。それがプレッシャーではなく、現実の構造として、いま初めて理解できた。
颯太は、小さく喉を鳴らした。息を吸い込み、肺に冷たい空気を満たす。
「……了解しました」
それは、問いかけでも、確認でもなかった。ただ、この選択肢を自分が受け入れるというだけの、短い言葉だった。
「中央制御室まで行きます」
その瞬間、誰も何も言わなかった。反応のなさが、逆に本気だった。誰も驚かない。誰も同情しない。ただ、それが“予定されていた一手”であったかのように、時間が次に進み始める。
「では」
颯太は短くテキストメッセージを送り、通話を閉じる。──決まったことに、言葉は要らない。
静かに立ち上がる。腿にこびりついた泥が、じわりと剥がれる感触。重力が、自分に戻ってくる。
ヘルメットはない。ライトは、スマホの簡易LEDしかない。防弾チョッキなんて当然ない。武器もない。知識だけがある。それが、唯一残されたものだった。
荷物はすでに最小限だ。ペンライトのバッテリーは節約のために点けたり消したり。モバイルバッテリーの残量を指先で確かめ、端末を胸元にしまう。
暗い。
数メートル先の壁の輪郭すら見えない。ほんの30分前までは「向こう側」へ進んでいたはずの道。それを今、一人で“逆戻り”していく。
辰巳へ向かう道を、自分の足で否定する。その代わりに、どこに敵がいるかわからない方向へ向かう。
冗談みたいだ、と思った。
自分はただの通信設備系の現場技術者で、端末のファーム更新とラダー図チェックが専門で、普段は制服を着た役人と会話なんかしない。なのに今は、国家に指名されて、戦略を担わされている。
……というのに、不思議なことに、足は止まらなかった。
静かだった。水の音も、鉄の軋みも、風も、なかった。あるのは自分の足音と、微かな機器の電源ノイズだけ。そして何よりも──誰もいない。
この空間に、自分一人の意思しか存在しない。それが、今までに経験したことのない、静かな圧力になっていた。
そのときだった。胸ポケットのスマホが、わずかに振動した。画面を開くと、端末越しに、ひとことだけ文字が表示されていた。
「ご安全に」
それは誰の声か、書かれていなかった。けれど、わかった。あの声だ。永田だ。
言葉は、それだけだった。だが、それが全てだった。
誰かがまだ、自分を見ている。そう思えただけで、次の一歩が、少しだけ、楽になった。
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