通れぬ橋
橋を渡った先に、あの広場はあった。
お台場の中心。シンボルプロムナードと水の広場をつなぐ中間地点にある、開けた空間。観光案内のタワーや植え込み、イベントステージがあった場所だ。だが、颯太がいま見ているその光景は、まるで別の場所のようだった。
木陰に身を隠しながら、視界をそっと広げる。兵士が、思っていたより多くいる。10人や20人ではない。広場の縁、芝地の先、遊歩道の側面——あちこちに、同じ制服を着た兵士たちが展開している。警戒姿勢で立ち、巡回する姿もあれば、何かの指示を受けて動いている者もいる。驚いたのは、その“整いすぎた配置”だった。そして、車両。数は、5台。だが、どれも見たことのない、異様な形をしている。
1台目と2台目は、同型だった。砲塔のような構造が中央にあり、両脇には短く太い筒が何本も突き出している。ミサイルだろうか。その下には、ずんぐりとした装甲と、全地形型のタイヤ。黒い機関砲が2門、前方にぴたりと並んでいる。機械というより、生物的な威圧感がある。無人なのか、兵士が乗っているのかすら判断がつかない。
3台目は、背の高いマストを伸ばしていた。 その先端には、円盤状のドームがあり、ゆっくりと回転している。レーダーだ。照射音は聞こえないが、視線だけで肌がざらつくような感覚があった。4台目は、やや地味だ。箱型の荷台に、アームのようなものが格納されている。補給車両だろうか。横に設置されたタンクや、開け放たれたハッチの中に積み込まれている黒いコンテナが、補給任務を示していた。
最後の車両は装輪式で、前面には小型の機銃塔がついている。高い位置から周囲を見張るように、兵士が一人、車上に立っていた。背後のハッチには、いつでも兵士が降車できるように梯子が組まれている。見た目はコンパクトだが、装甲の厚みと車体の傾斜には、明らかに「戦闘用」の設計が感じられた。
颯太は遠巻きに、全体をもう一度見渡した。車両はたった5台。けれど、広場全体が、その5台を中心に、完璧に管理された“陣地”になっている。兵士の配置、視線の流れ、空中にホバリングする小さな無人機——すべてが機能していた。何かが息をひそめるのではなく、都市そのものが静かに呼吸しているような構造だった。
あの広場。
——去年の秋、詩織と来たことを思い出す。
広場の真ん中にキッチンカーがずらりと並び、たこ焼きとタイ料理とクラフトビールを買って、石畳の縁に座って笑い合った。子ども連れの家族が周囲にいて、通りすがりのカメラマンがロボット像を背景に写真を撮っていた。未来都市みたいだね、って詩織が笑った。
その場所に、今、ミサイルがある。
悔しかった。
怖いよりも、悲しいよりも、まず悔しかった。こんなふうに、誰にも知られずに占拠されている。誰もそれに逆らえない。どこにも、声がない。
目頭が熱くなり、慌てて袖で拭った。泣いている場合じゃない。 だが、こみ上げるものは止まらなかった。
深く息を吸い、視線を前に戻す。広場を横切るのは危険すぎる。颯太は建物の脇を回り込み、背の高い実物大のロボット像——観光客に人気だった巨大な白いモニュメントの脇へと向かった。コンクリートの土台を背に、機体の影に身をひそめながら進む。その巨大な足の隙間をすり抜け、シンボルプロムナード方面へと抜けた。
シンボルプロムナードの歩道は、まっすぐ続いていた。植え込みとガラス張りの建物が交互に並び、観光地らしい都市設計がかえって異様に見える。誰もいない。照明は点いているのに、風も音も、人の気配すらなかった。だが、だからこそ、危うい。颯太は真っ直ぐには歩けない。街灯の死角を選び、植え込みの影を伝い、壁面をなぞるようにして移動を続けていた。あらゆる反射と音が、自分の存在を都市に“告げてしまう”ような気がしてならなかった。
ほんの数百メートル進むだけで、何十回も足を止める。そのたびに神経を張り詰め、目と耳を総動員する。建物の壁面に自分の影が映らないように角度を変え、舗装の継ぎ目を避けて歩く。それがどれだけ体力を奪うかを、初めて実感した。息が上がる。ふくらはぎがじわじわと重くなる。ただ歩くだけなのに、全身の筋肉が軋むようだった。
歩道を折れるたびに、都市の「別の顔」が垣間見える。曲がり角の先で、即席のバリケードを見つけた。交通コーン、折りたたみ式のカラー柵、そして裏返しになった立て看板。バリケードの陰には、黒ずんだ血痕がこびりついていた。乾いていて、いつのものかはわからない。周囲に遺体はないが、制服のボタンだけが一つ、舗装の隙間に落ちていた。ここでも、誰かが抵抗しようとしたのだ。だが、いまは何も残っていない。
やがて道は緩やかなスロープとなり、青海縦貫線をまたぐ陸橋へとつながった。登りきった瞬間、都市の輪郭が一気に開ける。青海交差点。交差点の奥、道路の脇に設けられた空き地に、妙な光景が広がっていた。
颯太はそっと歩道脇の花壇にしゃがみ込み、その光景を観察することにする。よくある観光地の飾り用。胸の高さほどのレンガで囲われた土台の中に、枯れかけた低木と、手入れされていない季節外れの花が植わっていた。しゃがめば、十分身を隠せる高さだった。
何かの陣地だった。
舗装路の一部が掘り返され、長方形に切り抜かれた四角い穴がいくつも空いている。そこに、砲身だけが突き出していた。
真上に向けて構えられた砲は、どれも背の低い装甲車両の後部に設置されていた。小型の車体に大きな砲塔。まるで、背中に金属の角を生やした虫のような形。兵士が数名、弾薬箱を持って行き来している。
舗装の切れ目から顔を出した砲身を見て、背筋が凍った。都市のただなかに、大砲がある。しかも、複数。あれが火を吹けば、どこに着弾する? あの砲身の先にあるのは、マンションだ。病院もある。詩織と何度か入ったスーパーも、その先にある。
ビルの壁が崩れ、火の手が上がり、ガラスが降る光景が、脳内にフラッシュのように浮かんだ。
実際に撃つのかどうかなんて、わからない。でも——撃てる場所に、撃てるものを、こうして並べているということ自体が、もう、恐ろしかった。
砲身と兵士たちの動きを見つめていた、その時——
ザッ、ザッ、ザッ。
足音。背後、あるいは側面。方向ははっきりしない。だが、砂利と靴底がこすれる音が、確実に近づいてくる。息を止めた。咄嗟に姿勢を低くし、土に手をついた。脇腹に小枝が当たったが、払えない。手首が小刻みに震えるのが自分でもわかる。
足音は二つ、いや三つ。等間隔。言葉はない。装備の揺れる音も、小さく重く、確かに聞こえる。陣地に見とれていて、油断したとでもいうのか?何をやってる。あれだけ慎重に進んでいたのに——
心臓が喉までせり上がる。見つかりたくない。撃たれたくない。死にたくない。
頭の中に浮かぶのは、詩織の顔だった。あの優しい目。手のひら。まだ生まれていない子ども。 「戻る」って言ったんだ。絶対に、帰るって。
通り過ぎてくれと必死に願っている、そのときだった。一人が、止まった。
音が、止まる。なぜだ? 何か踏んだのか? 気配を感じたのか? まさか、俺に気づいた——?
足音は止まったまま、動かない。
やめてくれ。お願いだから動いてくれ。脳裏に「逃げる」という選択肢が一瞬浮かんだが、即座に否定された。ここで動けば終わる。死ぬ。間違いなく撃たれる。
そのとき、声が聞こえた。
無線か、短距離の交信装置だ。静かに、しかしはっきりとした言葉。——だが、言語がわからない。
耳に入ってきたのは、喉の奥で巻き込むような、抑揚のある言葉。欧米系の英語でもない。アジア系でもない。まったく馴染みのない言語だった。
その声は数十秒ほど続き、短く途切れた。沈黙。
そして、再び足音が動き出した。一定のリズム。今度こそ、完全に遠ざかっていく。
しばらくその場から動けなかった。鼓膜の奥で、自分の心臓の音だけが鳴っている。
何とか足を前に向けると、風の匂いが変わった。コンクリートと車道のにおいの中に、わずかに潮の香りが混じる。もうすぐ海だ。颯太は低くかがみながら、水の広場公園の端に近づいていた。
視界の先、夢の大橋が見えてくる。湾岸の遊歩道と有明方面をつなぐ、歩行者専用の大橋。幅が広く、欄干も低い。開放的で、昼間なら多くの観光客が行き交う場所だ。だが、今はまるで異質なものに変わっていた。
橋の上には、兵士が多数展開していた。等間隔に整列しているわけではない。何人かで固まっているのだろう。中央の歩道には軽機関銃を構えた兵士が、低く伏せて要点を警備している。そのわきには、彼をサポートするように数人が警戒している。橋のふもとや欄干の陰には、植え込みを盾にして立つ姿も見える。銃口の向きと配置が、ただ「いる」のではなく、素人目にも明確に「迎撃するためにいる」ことを物語っていた。
少し離れた場所では、数名の兵士が入れ替わるように動いていた。パトロールの交代かもしれない。彼らは無言だった。歩調を乱さず、周囲を見渡しながらスムーズに移動する。機械のような冷静さ。だが、そのすべてが何かが起きる前提で構成されているように見えた。
橋のたもとには簡易テントが設置されていた。迷彩ネットが張られ、中には無線機や資料が広げられているようだった。ひとりの兵士がファイルのような書類を受け取り、地図らしきものを指差して確認している。隣の兵士が短く無線で応答し、すぐに記録用らしき端末に入力する。完全に「業務」だ。その“業務”の中に、都市封鎖と市民監視が含まれているという事実が、何より怖かった。
無理だ。こんなところ、通れるわけがない。
遠くに、車両も見えた。無骨な8輪の装輪車両が、橋の中央と両端に計2両。天井には砲塔が載っていて、そこから伸びた銃口らしきシルエットがこちらを正面から捉えているように見えた。実際に狙われているかはわからない。だが、それが「撃てるもの」であるというだけで、視線を合わせるのが精一杯だった。
さらに、橋の下部。支柱の根本に、奇妙な装置が取り付けられているのを見つけた。構造物の足元に、ケーブルが這い、黒い樹脂ケースが固定されている。爆薬か? それとも監視装置? どちらにしても、ここがただ“守られている”のではなく、“渡らせないために構築されている”ことは明らかだった。
颯太は橋のふもとに近づくのをやめた。道路脇の茂みに身をひそめたまま、睨むだけで、充分だった。そこに三十人以上の兵士がいる。銃がある。装甲車がある。すべてが「絶対に渡らせない」ために、そこにあった。
——完全に、封鎖されている。
深く呼吸をして、顔を上げる。橋の向こうに、高層ビルの灯りが立ち並んでいる。その中に、ひときわ高く聳える建物。辰巳フラッグ。
見える。
ここからでも、はっきりと。詩織が待っている家のベランダすら、望遠でなくても確認できる距離。距離は、あるのに——届かない。
たった一本の橋が、超えられない。その現実が、じわじわと胸にのしかかってくる。いまさらのように、背中から汗が流れ落ちた。これまでの移動距離は、ほんの数キロ。だが、それ以上の隔たりが、たった今、目の前に現れた。
「……近いのに、遠すぎる……」
無意識のうちに、そうつぶやいた。自分の声が、砂利に吸い込まれて消えていった。頬を濡らすのは、夜風か、それとも涙だったか。わからなかった。けれど、もうどうでもよかった。
夢の大橋は渡れない。見て、知って、理解した。あそこを越えることはできない。あの兵力、あの車両、あの装備。都市の地形すらも、敵の側にある。誰がどう動こうと、あそこはもう「壁」だった。都市の中心に築かれた、見えない国境のような。
足が動かなくなっていた。ふらつくように座り込み、背後の植え込みに体を預けた。靴の底から伝わる冷たい石の感触に、ようやく“座っている”という感覚が戻ってくる。疲れていた。歩いただけなのに、どっと重さが襲ってくる。それだけじゃない。気を張り詰めて、隠れて、息を殺して、考えて、焦って、また隠れて——その繰り返しで、すっかり身体が自分のものではないようだった。
悔しかった。情けなかった。こんなにも近くにいるのに、たった一本の橋が越えられない。目の前に家族がいるのに、触れることも、声を届けることもできない。そんなことが本当にあるのか。現実なのか。いや、これが現実なのだ。涙がにじんだ。静かに、喉の奥が熱くなった。しゃくり上げたりはしなかった。ただ、流れるままにさせた。どうせ、見ている者など誰もいない。 俯いた視界の中に、それはあった。
マンホールだった。無骨な鉄の円盤。何の変哲もない、都市の“部品”。だが、そこに小さく刻まれた文字が、微かに夜の光を反射していた。
《首都圏臨海共同溝 第3系統点検口》
——ああ、そうだ。あったじゃないか。
首都圏臨海共同溝。湾岸部に敷設された超巨大インフラ。通信、電力、上下水、ガス、あらゆるライフラインを一括して管理するための地下構造物。東京湾岸を縦断し、まるで都市の神経のように張り巡らされている。
そして、そう。自分は、その“中にいた”人間だ。
通信会社のフィールドエンジニア。保守班。定期点検。障害復旧。アクセス管理。ここには何度も来た。深夜。炎天下。雨のなか。作業用のキャリーとメンテナンス端末を片手に、何度もマンホールを開けて降りた。誰よりも、この下にある“空間”を知っている。
思い出す。中は、広い。そして、入り組んでいる。わざとそう作られているのだ。テロ対策。侵入者を迷わせるため、通路は直線ではなく、枝分かれと行き止まりで満ちている。 空調配管のダミールート、封鎖された旧仕様、保守未完了区画。慣れていない者は、10分と進めない。けれど、自分には地図がある。頭の中に。
「……ここしかない」
声に出すと、意外にも安定した響きだった。もう迷いはなかった。身体はまだ重いが、足だけが自然と動いた。颯太は静かに立ち上がると、マンホールの蓋に視線を落とした。すぐ近くにある、植え込みの向こう側——普段なら気づかずに通り過ぎるような、点検用の縁。誰も見ていない今なら、入れる。
彼は水の広場公園の暗がりの中を移動し、点検口の脇に膝をついた。夜風が、冷たく頬をなでた。 都市の下に潜る。通信の道を辿る。自分にしかできない方法で。蓋に手をかけ、そっと持ち上げた。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
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