無音の街
── 20:21 白石颯太(お台場海浜公園・港区台場)
非常灯だけが、一定の間隔で灯っている。かすかに白く照らされた芝生と遊歩道。その隙間にある草むらは、街灯の届かぬ闇に沈み、どこからが道で、どこまでが茂みなのかすら、判然としない。颯太は足を一歩ずつ置いた。草を踏みしめる音が、想像よりもずっと大きく耳に残る。湿った葉のこすれる音、靴が泥に引っ張られるわずかな感触、そして身体をよぎるジャケットの衣擦れ――そのひとつひとつが、異様なほど際立って感じられた。
静かすぎる。都市の中にいるはずなのに、音がない。会話も、遠くの車の走行音も、犬の鳴き声も何もない。ただ、自分の足音だけがこの公園全体に響いているかのようだった。
と、遠くの方で足音がした。低く押し殺されたような靴音。複数。風の止んだ公園を、軍靴のソールが一定のリズムで踏みしめている。
来た——パトロール部隊だ。
颯太は素早く草むらに身を滑り込ませ、腹ばいになる。非常灯のかすかな光に照らされた歩道を、黒い装備の兵士が三人、横に並んでゆっくり進んでくる。息を殺し、動かないように努めながらも、どうしても彼らの頭部に目がいった。ヘルメットの前に異様な器具を装着している。
何だ、あれ……。
双眼鏡のようでもある。だが、前面には丸いレンズが複数個並んでおり、まるで虫の複眼のようだった。暗闇の中で、その一つがわずかに緑色の反射を放つ。
——あれは、暗視装置……か?
テレビで見た戦争映像にあったような、古いゴーグルとは明らかに違っている。もっと洗練されていて、SF映画に出てくるような、不気味な“目”だった。
── 同時刻 永田隆一(国家安全保障会議情報管理セクション・首相官邸B3F)
「特殊部隊の潜入は、まだ判断が早すぎます」
永田は書類から顔を上げずに答えた。作戦図面の傍らに置かれたモニターには、お台場の夜景が望遠カメラの赤外線視点で映し出されている。
「ですが、衛星監視でも、敵側の巡回がパターン化してきています。特殊作戦群が見つからずに上陸できれば……」
警察庁から出向中の若手が、歯切れの悪い声で続けた。
「——ナイトビジョンの件は?」と永田。
「はい、こちらの情報で確定です。敵部隊の一部は最新型の複眼式ナイトビジョンを使用しています。おそらくGPNVG-18系をベースにした独自改修機かと。レンズが4つ横に並んでいて、視野が120度近くあるとか」
若手は、モニターに表示された一瞬のフレームを指し示した。兵士のヘルメット前面、4つの丸レンズが微かに光を反射している。
「これが装着された状態で夜間索敵をされると、人間の輪郭が“白く光る”ように見えるとの報告があります。熱反応と微光増幅の複合型で、ステルス行動はほぼ不可能です」
永田の上司である内閣情報調査室室長は「ふむ」と短く相槌を打ち、資料を閉じた。何も言わないが、その目はすでに次の判断を計算していた。
── 同時刻 白石颯太(お台場海浜公園・港区台場)
あれを装着されたら、見つかる。幸いにも、まだヘルメットの上に跳ね上げられており、敵の兵士は懐中電灯の光だけでパトロールをしている。しかし、少しでも音を出したりしてしまったら、即座に警戒され、そして暗視装置により自分の姿は発見されてしまうだろう。そうすれば、彼らが手に持つ銃で、午前中にみたトラック運転手のように殺されてしまうに違いない。
じわりと汗が噴き出る。頬に草が当たる。鼻先を風がなでる。
そして、光が、近づいてくる。
敵の懐中電灯が、ゆっくりと草むらに差し込んでくる——そのとき。
バサッ、と羽音。すぐ近くの木から、カラスが一羽、黒い影を残して飛び立った。敵の動きが止まり、ライトがその方向へスライドする。
静寂。
そして、再び足音が動き出す。兵士たちは無言のまま、植え込みの向こう側へと姿を消していった。
息を殺したまま、しばらく動けなかった。光も足音も完全に遠ざかったことを確認してから、ゆっくりと頭を上げる。草の匂いと汗のにおいが鼻に残る。無意識のうちに肩が硬直していたのか、ほんの少し動かすだけで背中が痛んだ。とてもゆっくり、とても慎重に、膝を立てて立ち上がる。草を踏まないよう、枝を避けながら、足元の一歩一歩に神経を注ぐ。夜の公園がこんなにも広く、こんなにも遠く感じたのは初めてだった。
お台場海浜公園の出口が見えたとき、ほとんど放心していた。ようやくたどり着いた、というより、ここまで来られてしまったという感覚に近かった。足元から疲労が一気に上がってくる。額の汗を袖でぬぐい、背後を振り返る。人気はない。階段を、ゆっくりと上がる。シンボルプロムナードの石段。昼間なら観光客が溢れていたその場所も、いまはただの灰色の石と光だけの空間だった。
目の前に広がるのは、不気味な静けさをたたえた都市の影。お台場テレビ——あの、球体を抱えた巨大な建物が、いまは何の音もなく沈黙している。その手前に、ウォータータウン。大きなガラス窓が、黒く濡れたように夜を映し返す。右手に並ぶホテル群は、まるで呼吸を止めるようにして、ただそこに立っていた。何人もが監禁されているのだろう。各階に明かりがともっている。にもかかわらずロビー階が消灯され、シャッターが下りているのがただ不気味だった。
誰もいないのに、誰かが見ているような気配。都市全体が、静かに、侵入者の存在を咀嚼しているようだった。
ウエストプロムナードには、誰の姿もなかった。おそらく敵の警戒は沿岸部に集中しているのだろう。海からの再侵入や反撃を想定しているのかもしれない。都市の内部、それも遊歩道のような観光用の空間には、兵の気配がなかった。しかし、灯りはある。整然と並ぶ街灯が、等間隔で歩道を照らしている。だがその明るさは、何もないはずの空間を逆に不気味に際立たせていた。風の音ひとつしない広場に、自分の足音だけが響いている。
視界の端で、影が動いたように思えて振り返る。何もいない。ただ、ゆっくりと回転する監視カメラのレンズが、無人のままの交差点を見下ろしているだけだった。颯太は、コンクリートとガラスでできた歩道を、低い姿勢のまま慎重に進んだ。
頭上をゆりかもめの高架が横切るあたりで、空気が変わった。建物の陰が複雑に絡み合い、灯りが急に途切れ、わずかに生ぬるい風が頬をなでた。数メートル先、異物感のある光景が現れる。遊歩道の先、広場の手前に設置されたバリケード。工事用のコーン、警察の金属柵、横断幕のように張られた「警視庁」テープ。その奥に、丸い石畳の広場が広がっている。
足を止める。何かがおかしい。バリケードの奥、石畳の中央あたりに、黒い何かが散らばっていた。
目を凝らす。
人だった。
打ち捨てられたように、複数の人影が転がっている。制服姿の警察官が二人。バリケードと建物の壁に挟まれるようにして倒れていた。血はすでに乾いているのか、服の色に沈み込んで見える。近くには、スーツ姿の中年男性と、買い物袋を抱えた若い女性——民間人だろう。顔はうつ伏せて見えない。
あまりにも無造作だった。まるで、障害物を撤去するかのように、そこに“置かれた”かのような。
胃の奥が重くなる。目を背けようとして、背けきれなかった。踏み出そうとした足が止まる。ほんの数時間前、自分もあの中にいたかもしれない。そう思った瞬間、喉の奥に、冷たいものがじわりと広がった。
——ここで、何があった?
戦闘。
警察は最後まで、抵抗を試みたのかもしれない。お台場テレビの前。人が集まりやすく、象徴性のある場所だ。だがその意志は、いまや完全に踏みにじられている。
「……」
声が出そうになって、口を噤んだ。立ち止まっている場合ではない。今は、ただ通り過ぎるしかない。
そのときだった。唐突に、空気を裂くような電子音が走った。
「臨時政府より、お知らせいたします。市民の皆さまは、屋内で待機してください。無断での外出を確認した場合、現地部隊が排除措置を実施いたします。繰り返します。市民の皆さまは、屋内で待機してください——」
スピーカーの声だった。何の前触れもなく、それは始まった。音量は控えめだったが、都市の沈黙の中では、あまりに異質に響いた。声は女のもののようだが、生身の人間の発音ではない。抑揚はなく、文節の区切りもおかしい。合成音声特有の、不自然な間と調子外れのアクセントが気味悪く響いている。
颯太は立ち止まり、見上げた。声の出所は、お台場テレビの外壁に取り付けられたスピーカーの一つ。かつて観光案内やイベント情報を流していた設備だ。今はただ、誰も聞いていないはずの命令を、無人の広場に向かって繰り返している。
「……誰に向かって喋ってんだよ」
思わず口から出た。怒りだった。恐怖でも、悲しみでもない。命令を聞かせる相手が誰もいないこの都市で、機械が無感情に命令を繰り返している。そのこと自体が、頬を殴られるような屈辱に思えた。
バリケードの向こうには、死体がある。警官も、民間人も、もう誰も従うことなどできない。なのに——。
命令だけは続く。人がいなくても、言葉だけが都市を支配している。 まるでこの街全体が、命令を「維持すること」だけを目的に動いているかのようだった。
怒りの言葉が喉に残ったまま、颯太は顔を伏せた。今、立ち止まっているわけにはいかない。感情に任せて声を上げるようなことをすれば、それこそ命取りだ。ぐっと歯を食いしばり、足を動かす。
広場を抜けた先、橋が見えてきた。ウエストパークブリッジ——湾岸沿いの公園とシンボルプロムナードを繋ぐ、ゆるやかな歩行者用の橋だ。都市の意匠の一部として設計されたその曲線は、夜の闇の中ではただの黒いアーチだった。
橋の上に立つと、風が通り抜けた。人の気配はなかった。監視カメラもあるかもしれないが、もはや気にしてはいられない。視界がひらけ、周囲の灯りが遠くに揺れて見える。歩道を進みながら、ふと何かの気配を感じて足を止めた。
耳を澄ます。遠くから、微かにゴムの擦れるような音。エンジン音と呼ぶには静かすぎる、重い空気を押し分けるような低い響きが聞こえてきた。都道357号。橋の下を走る幹線道路。何時間も音のなかった都市の中で、それはあまりにも異質に感じられた。颯太は、そっと身をかがめ、橋の隙間から下をのぞき込んだ。
街灯のない車道を、暗い影が通り過ぎていく。車列だ。軍用トラックが、無灯火のまま走っている。音を極限まで抑えた移動。1台、2台、3台——そのうちの一台、幌付きのジープの助手席に、目が合った。見えたのは、黒いシルエット。顔は隠れていた。バラクラバの上からスカーフを巻き、その上にブーニーハットを被った男。だが、その“目”だけが、わずかな街灯の反射を受けて、光った。
距離があるはずなのに、なぜか“合った”と感じた。こちらを見ていた。確実に。 その目には、表情も意志もなかった。ただ、動物とも機械ともつかない沈黙の圧だけがあった。
颯太は、身体が石になったように固まっていた。見られた。そう感じた瞬間、全身の毛が逆立つような感覚が走った。
だが、ジープは減速することもなく、そのまま通り過ぎていった。続のトラックも何事もなかったかのように続き、そして車列は闇に溶けて消えた。音も灯りも残さず、都市の深部へと姿を消していく。
颯太は、橋の手すりに身を隠したまま、動けずにいた。
「見られてないよな……」
つぶやいた声は、自分の耳にさえ頼りなく響いた。
距離はあった。都道357号は橋の真下、しかもこちらは高所の影に潜んでいた。無灯火のジープ、すれ違いの一瞬。減速もなかったし、兵士が反応する様子もなかった。
見られているわけがない。理屈では、そうだ。自分がそうやって説明しなければ、怖くて次の一歩を踏み出せないだけだ。
けれど、その目だけは——あの目だけは、確かにこちらを見ていた気がした。
頭の奥がじわりと冷えていくような、いやな感覚が残っていた。 何も起きていない。それでも、何かがすでに始まってしまったような、そんな予感があった。
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