静かな断線
── 08:12 白石颯太(白石家玄関・辰巳フラッグ38F・お台場)
「いってきます」
白石颯太は愛する妻、詩織の目を見ながら少々名残惜しそうに微笑んだ。通勤支度はすでに整い、あとは玄関のドアを開けて出ていくだけだ。
「いってらっしゃい」
詩織がにこやかに返答をする。妊娠8か月になり、すこし目立つようになってきたおなかへと視線を落としながら、颯太はできるだけはやく帰ることを伝え、そしてドアノブに手をかけ家を出た。
エレベーターで1階まで降りロビーから外へ出ると気持ちのよい秋の日差しが颯太を照らす。お台場・ウォータフロントに建てられた辰巳フラッグは、そんな若い家族で満ち溢れていた。
元は国際的な体育大会のために建てられた選手村。その後、払い下げられて「辰巳フラッグ」として再開発され、分譲が始まったのはちょうど三年前のことだった。都心からのアクセスの良さ、海沿いの開放感、そして保育園や公園、スーパーなど生活インフラの充実——すべてが若い世代にとって魅力的だった。
颯太もその一人で、結婚を機に詩織とともにここへ引っ越してきた。いまでは近所にも似たような世代の夫婦が多く、朝のすれ違いざまに自然と挨拶を交わすこともしばしば。街に流れる空気は、まだどこか新築の香りが残るような、清潔で、未来を信じられる種類のものだった。
駅へ向かう道を歩きながら、颯太は今日の予定を思い出す。会議は午前に一件、午後は現場からのログ分析が中心だ。会社は新橋にある通信会社のビル。インフラ系の現場対応チームに所属してもう五年目になる。
ゆりかもめの辰巳駅へ着くと、ちょうど列車がホームに滑り込んできた。颯太は自動改札を通り、車両へ乗り込む。ドアのそばに立ち、動き出す車両を辰巳フラッグの高層ビル群が見守っていた。
── 08:12 ???(葛西JCT・江戸川区臨海6丁目)
同時刻。首都高湾岸線を西へ向かう車列が、葛西ジャンクションを通過していく。先頭には、青みがかったグレーの都市迷彩を施した装甲車。続くのは通信中継車や物資輸送車で、いずれもナンバープレートは取り外され、所属を示す標章も一切ない。車体には汚れひとつなく、軍用としては異様なほど整然としていた。
荒川を越え、新木場の出口で車列は静かに高速を降りる。一般道へと滑り込んだその一団は、誰の視線にも触れることなく、無人の倉庫街を抜けていく。信号にも、一時停止にも煩わされることはない。あらかじめ時間と経路を計算し尽くしていたような、異常なほどの滑らかさだった。
── 08:27 白石颯太(ゆりかもめ車内・レインボーブリッジ下層・お台場)
颯太は車窓にもたれるようにして、レインボーブリッジの外側へ目をやった。ゆりかもめは、橋の横腹をなぞるようにして高架を走る。
左手に広がる東京湾。朝日を受けた水面は静かに輝き、沖ではタグボートに引かれた貨物船がゆっくりと航路を横切っている。空は一面の青。雲ひとつない晴天だった。
颯太の隣で、観光客らしい女性がスマホを構え、連れの男性が何かを指差して笑っている。その声に押されるように、颯太も視線を上げた。
この景色は何度も見てきた。だがなぜか、今朝はひときわ澄んで見える気がした。
── 08:27 ???(橋脚・レインボーブリッジ・お台場)
レインボーブリッジの下層部では、作業服姿の男が静かに橋脚の根元へと歩を進めていた。
目立たない工具箱を地面に置き、男はしゃがみ込む。淡々と動く手元には、拳ほどの大きさの金属筐体。表面には小さな液晶と赤いインジケーターランプがついていた。設置後、男はリモコンのような端末で短い信号を送る。装置は即座に応答し、ランプが点滅を開始する。
その隣では、もう一人の男が監視カメラの電源線を切断していた。工具の扱いは手慣れたものだ。ふたりの間に言葉はない。ただ作業をこなし、終えたら荷物をまとめ、無言のまま橋の構造体の影へと姿を消した。
まるで、それが何度も繰り返されたルーチンであるかのように。
── 8:51 白石颯太(オフィスフロア・東京ベイシティ22F・新橋)
新橋駅で下車し、颯太は駅前の喧騒を抜けてオフィス街へと足を向けた。目指すのは大手通信会社の本社ビル。その外観はガラス張りの高層建築で、どこから見ても「通信の中枢」といった風格がある。
社員証をかざしてゲートを通り抜け、いつものエレベーターで上階へ。颯太が所属するのは、技術部門の現場対応チーム。防災や通信障害の際に出動する部隊でもあり、緊急時には政府機関とも連携する重要なセクションだった。
フロアに着くと、すでに何人かの同僚がコーヒー片手に雑談していた。
「お、颯太くんおはよう。今日もバッチリ秋晴れだね」
「うちの下、子どもたちが騒いでてさ。運動会かと思ったら、どうも休校らしいよ」
「またシステム障害とかじゃないすか?」
若手の一人が笑いながら言うと、別の社員がスマホを振って見せた。
「なんか今朝、通信遅いっていう報告がいくつか来てる。まだ影響は出てないけど、ちょっと気になるかもね」
颯太は自席に鞄を置き、モニターを起動させながら、ほんの少しだけ眉を寄せた。
── 8:51 ???(お台場テレビ地下搬入口・港区台場2丁目)
お台場にある民放テレビ局の裏手、搬入口。防犯用のバーが上がり、一台の黒いバンが静かに構内へと滑り込んだ。深夜の機材搬入に見せかけた出入りは、映像業界では珍しくない光景だ。だがその車両は、テレビ局のどの協力会社にも登録されていなかった。
バンが止まり、後部ドアが開く。無言のまま、黒装束の男たちが次々と降り立った。全員が戦闘服に似た機能的な衣類をまとい、顔にはバラクラバ。手にはサプレッサー付きの小銃を携えている。
警備員の「ちょっと、そちらは――」という声が途切れた次の瞬間、「パシュッ」と鋭い空気の破れる音が響いた。続けて、男の身体が糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。
侵入者たちは互いに言葉を交わすことなく、事前に決められた配置に分かれていく。エレベーターに乗る者、非常階段を駆け上がる者、制御室に向かう者。テレビ局は多層階の構造をしていたが、彼らの動きに迷いはない。まるで内部構造を熟知しているかのようだった。
── 9:13 白石颯太(オフィスフロア・東京ベイシティ22F・新橋)
デスクに腰を下ろした颯太は、モニターのログ画面をぼんやりと見つめながら、ふとスマホに目をやった。ロック画面には、先週末に撮った写真。ソファに腰掛ける詩織が、両手でお腹を支えながら、やや困ったような笑顔を浮かべている。
「最近、靴下が履きづらくなってきたの」
そんな声が耳の奥に残っている。すっかり秋の気配が濃くなってきた。帰りは何か甘いものでも買って帰ろうか。いや、それよりも今日は早めに戻れるといい。
そんなことを考えていると、背後から声が飛んできた。
「颯太くん、こっちのビルでちょっと変なアラート出てるって」
同僚が画面を覗き込む。隣の席のオペレーターも言葉を継いだ。
「午前九時ちょうどから、都内数カ所でLTEの接続が一時的に不安定だったみたいです。数秒レベルですけど、ログには残ってます」
颯太はマウスを動かし、ネットワーク監視のダッシュボードを開いた。いくつかのポイントが黄色く点灯している。重大ではない──が、気にはなる。
── 9:13 ???(港区区民センター・シーサイド海浜公園2F・港区台場)
港区台場区民センターの一階、総合窓口カウンター。開館時刻が近づき、職員たちはいつも通りの朝の準備を進めていた。健康保険の申請書が積まれ、ベビーカーを押した母親が開場を待っている。穏やかで、どこにでもある公共施設の風景だった。
「スマホ、なんか変じゃない? 急に圏外になってる」
「うちも。フリーWi-Fiは繋がるけど、モバイル通信が死んでる」
そんな会話が交わされる中、自動ドアが静かに開く。スーツでも作業服でもない、異様に無駄のない私服姿の男たちが数人、ゆっくりと中に入ってきた。
気づいた受付の職員が立ち上がりかけた瞬間、先頭の男が素早くバッグからサブマシンガンを取り出し、天井に向かって引き金を引いた。
ダダダダダッ!
爆音。砕ける照明。飛び散る火花と天井材。区民センターという言葉から最も遠い音が、空間を貫いた。
全員が、その場に凍りついた。映画でしか聞いたことのない銃声。けれど、いま聞こえたそれは、明らかに現実だった。破片が床に落ちる音さえも、やけにくっきりと響いた。
男たちは一斉に動き出す。受付カウンターを跳び越え、背後に回り込む者。掲示板の影から出て、非常口をふさぐ者。入口はすでに背後から塞がれている。
「全員、動くな」
命令は静かに、しかし完全に支配する声で告げられた。反論も抵抗もない。できる者はいなかった。カウンターを乗り越え、職員を押し倒すと、リーダー格の男が一人、冷静な声で言った。
「この建物の通信設備の場所を案内しろ。今すぐだ」
誰も動けなかった。無言のまま、数人の職員が連れて行かれる。その場にいた他の者たちは、銃口の前でただ震えていた。数分後には、港区台場区民センター全体が彼らの支配下に置かれていた。
── 9:20 白石颯太(オフィスフロア・東京ベイシティ22F・新橋)
颯太は自席のモニターを見つめながら、眉間に軽くしわを寄せていた。社内ネットワークの監視ツールが、数分前から小さなアラートを断続的に出していた。エラーの数は少ない。どれも瞬間的な断線や接続遅延といった軽微なものだったが、対象はなぜか“お台場近辺”に集中していた。
「……なんか変だな」
隣のデスクにいた若手の同僚が、紙コップのコーヒーを置きながら言った。
「今朝からSNSで、“電波が不安定”とか“ネット切れた”って言ってる人、結構いますよ。うちの障害ですかね?」
「いや……たぶん違う。でも、何か起きてる」
颯太はキーボードを叩き、通信ログをさらに深く調べはじめた。お台場、芝浦、竹芝——湾岸エリアの基地局が一斉に、数秒単位で切断と再接続を繰り返している。最初は散発的だったアラートが、やがて一斉に赤く染まり始めた。
そして、突然。
ログが、まったく返ってこなくなった。
「……あれ、全部死んでる」
隣のオペレーターが呟いた。
「辰巳局、芝浦、品川南、台場の複数セクター。無線だけじゃない。有線も……光回線も応答ゼロです」
「ルーターの故障じゃないな。機器はオンラインになってるのに、信号だけが途絶えてる」
颯太の背筋に、ぞわりと冷たい感覚が走った。これは偶然じゃない。物理的に、どこかで回線が断たれている。それも同時に、何カ所も。
慌ててスマホを確認すると。新橋ではLTEもWi-Fiも正常。SNSも更新されている。だが、モニターの中の“向こう側”では、完全な沈黙が始まっていた。
── 9:20 東都新聞記者(東都新聞社会部・東都新聞ビル15F・中央区築地)
築地にある東都新聞社ビル。編集部の窓際にいた若手記者は、最初に音に気づいた。遠くから響いてきた、破裂音のような重い衝撃。
「……今の音、聞こえました?」
窓の外に視線を向ける。朝の陽光の中、勝どき方面に白い煙が立ち上っているのが見えた。
「勝どき……? あそこ、さっき工事の足場あったけど……いや、これ……爆発だろ」
記者が慌ててスマホを手に取ろうとしたとき、別の方向から二発目の音が響く。今度は月島側、続いて佃、そして築地の外れにも、次々に白煙が舞い上がった。
すぐに双眼鏡で外を確認していた報道写真部のスタッフが叫ぶ。
「勝鬨橋の先、臨海側を見て。なんかおかしい」
記者は言われたとおりに双眼鏡を覗き込む。朝の陽光を背に、灰色の装甲車らしき車両が、数台の隊列を組んで南へ進んでいた。都市迷彩を施された装甲板、明らかに民間のものではない重厚なフォルム。
「……なんだ、あれ。警察? でも車体が……いや、違う。あれは普通じゃない」
編集長がフロアに入ってくると、若手記者たちは一斉に報告を始めた。
「勝どき、月島、佃、同時に爆発! 東の臨海方面に不審な車列あり、目撃者複数!」
そこで一息つくと、また声を張り上げた。
「おい、現場チームはカメラ持って勝どきに飛べ! ヘルメットとベストも忘れるな! 通信回線が不安定になったら社用チャットに切り替えろ!」
編集フロアに緊張が走る。誰もがモニターと窓の外を交互に見ながら、機材をかき集め始めていた。
東京が、静かに切り替わる音がした。
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