貴方は籠の鳥
このお話は自殺や殺人を助長するものではありません。
どさり、何かが崩れ落ちる音がする。
目を開ける。私は祭壇の前で寝かされていた。起き上がると、十人ほどだろうか、カソックを着た大人たちが倒れている。
倒れていた女が動く、私の方へ手を伸ばす。
「た、たすけ、て」
それは私の母親だった。
それと同時に、横にいた男が、私に縋るように身体を使って這う。
「はやく、はやくしなければ」
それは私の父親だった。
「お母さん、お父さん……」
私は二人の元へ行きたくて、鈍い身体を動かして、
「まだ生きてたんだ」
二人は背後にいた人物に、続けざまに刺された。
それは灰色の髪と、黒い目を持つ青年だった。
ぐしゃり、肉からナイフが引き抜かれる。両親は、身体の支えを失って倒れ伏した。
「あ……?」
「迎えに来たよ」
彼の黒々とした瞳が細められる。その表情は、愛しい人へ向けるものようで。血まみれの手を私の目の前へ翳す。瞬間、意識が遠のいた。
「ねぇ、プリンを作ってくれない?」
私はあまりにも突拍子のないその言葉に、飲んでいた緑茶を吐き出してしまった。
何を言い出したんだ、今度は。
声の主はにこにこと笑っている。
「とろとろじゃなくてしっかりしたやつね。卵の味がするやつ」
「あー、カラメルソースはなくてもいいけど、作ってくれると喜びが20%アップするかな」
私は、んん、と咳払いをして、
「なんで私がそんなことしないといけないの」
「うん?なんとなくだよ。テレビで見てねぇ、食べたくなったの」
間延びした答えと、屈託のない笑顔。この台詞が子供のものだったら少しは微笑ましいだろうが、奴は成人男性だ。しかし、恋人との会話でもない。
彼──モズとは、一年前から共に生活している。彼の正体も、素顔もわからない。ただいつも優しい笑みを浮かべている。まぁ、有体に言えば不審者だ。なのですぐに110番もできる。
「待って、待ってよーお願い!どうしても食べたいんだ」
「買ってきたのじゃダメ?」
「君が作ってくれたのがいいの」
ふぅむ、困った。私は料理に関するあらゆる物事を面倒臭いと放り投げて生きてきた。ゆえに今もこうして半額シールの貼られた弁当をつついているわけなのだが。
そんな私にお菓子作りをさせようなんて、こいつはなんて馬鹿なんだ。
「だっていつも同じような弁当をローテーションで食べてるでしょ?君は成長期なんだから、もっとお菓子とか食べていいと思う」
これは食育だよーともっともらしいことを言っている。
「でも貴方は作らないんでしょ?」
「うん。僕は切ることしかできないからねー」
やれやれだ。とはいえこいつは言い出したら聞かない。柔和に見えて強情なんだ。さっさと買い出しに行こう。
「気をつけてねぇ」
彼は扉の側まで来て見送ってくれる。まるで家族のようだな、と浮かんだ言葉は、頭を振ってすぐに消した。
近場のショッピングモールにやってきた。ここでは弁当と日用品以外の買い物にしか利用しないため、じっくり店を見るのは久しぶりだ。
まず3階に上がり、プリン作りに必要な調理器具を見繕う。100円均一の店がテナントに入っているため、ほとんどのものはそこから調達できた。
1階の食料品売り場へ向かい、卵、牛乳……スマホのメモを見ながら食材をカゴに入れていく。なんだか懐かしい。昔は母と買い物に出かけて、お菓子をこっそりカゴに入れては怒られていたな。
会計を済ませて店から出ると、丁度入ってきた子供とぶつかった。
隣にいた女性がすみませんと謝る。何と返せばいいのだろうかと困っているところに父親らしき人が飛んできた。子供をすぐに抱いてあやしている。しばらくして落ち着いたようだ。
三人は店へ入っていく。それを見送っていたら、なんだか涙が溢れてきた。
私にも両親がいた。なんてことのない普通の家族だった。あの日までは──どれだけ悔いたところでいないものはいない。帰ってくることもない。私はずっと一人だ。これから先も。
もう、どうでもいい。死のうか。
幸いにもここは駅の近くだ。踏切まで向かう。急行電車が通過するアナウンスが流れる。遮断機が降りていく。私はそれを潜ろうとして、
「いた。何してるの」
モズが、私の右手を掴んでいた。
「離してよ。死にたいの」
「死ねないよ。だって君は──」
彼が、私を引き寄せる。あの日の血の匂いが、私の脳を満たした。抱かれながら私は目を閉じた。何かを言っていたけど、電車の通過音が嫌に大きくて分からなかった。
「……うちに帰ろう?」
うるさいだまれどうしてとめるのわたしはなにもわるいことしてないきえたいしにたいどうして、どうして。
帰り道のことはあまり覚えていない。ただ黙って歩いていた気がする。家に戻ってきた。私が先に入り、彼が入る。鍵をかける。もう出られないように。
私は精神薬を飲んだ。思考がゆっくりになって、脳はやっと口を閉ざしてくれた。
うん、やっと自分に戻れた。
さて、プリンを作ろうか。
彼は度々ふらりと様子を見に来て、よく混ぜろだとか温度を保つのだとかアドバイスをしてくる。私は雑に聞き流して追い返していた。別に出来なんてどうでもいいからな。
そう思っていたからか、型から外す時に少し崩れてしまった。
「あら〜」
モズは欠けたところをスプーンで撫でている。
「見た目は別にいいでしょ、食べられるんだから」
私がそっけなく言うと、そうだねと笑ってくれた。
「いただきます」
少し崩れていて固くなったプリン。彼はそれを口に含むと、ぱあぁっという音が聞こえるくらいに笑顔をこぼしている。
……なぜだろう?彼を見ていると庇護欲の様なものが湧き上がってくるのだ。
私はスプーンでプリンの表面を軽くつついてみた。ふるふると揺れる、頼りなげな姿。しかしそこに正しく起立している。
彼はちらりと私を見て、食べないの?と聞いてくる。
一口食べてみる。ふむ、初めてにしては上出来ではないか?
モズは黙って私を見ていたが、ふと口を滑らせた。
「きっとお父さんとお母さんも喜ぶねぇ」
瞬間、私の目頭がかあっと熱くなる。彼の額に拳銃を突きつける。彼は笑みを崩さず、私を見ている。
「お前……お前が、言うな」
「……そうだね、ごめんね」
私はゆっくりと腕を下ろした。
そう。こいつが殺したんだ。私の両親を。目の前で。
なぜ殺したのか聞いても、まだ成人前だからと教えてくれない。
あの日、再び目を覚ましたら、どこか知らないワンルームのベッドで寝かされていて、そこに彼も居た。
最初のうちは彼が差し出してくるゼリーや携帯食を食べさせてもらった。私が次第に動けるようになると、足枷をつけられて暮らした。しばらくの間、私が抵抗しないのを見てそれを外してくれた。だから今は自由に動けるようになった。そうなるまでは黙って受け入れていた。こうして私と殺人鬼の奇妙な共同生活は始まったのだ。
突然、大きな音と共に扉が破られる。逆十字のネックレスを下げ、防弾チョッキを身につけた5人の男たちが一斉に私たちへ銃を向ける。
モズと私は互いを庇うように抱き合い、彼らを見据える。
私は一言呟いた。
それは、人の言語ではない。宇宙から飛来した生命体から教えられた……記憶しておくことも私の意思ではないが。
私の瞳が輝き、彼らの視線を捉える。
その単語を唱えるだけで、彼らはもがき苦しみだす。銃が乱射され、壁に穴が開く。やがて、彼らは血を吐きながら絶命した。
モズはその様子を見ても特に動揺することもなかった。当然だ。この光景を見るのは初めてではないのだから。
私の両親は敬虔な信者だった。私は……幸せだったはずだ。
彼らは異星の神を信仰していた。そして私は生贄に選ばれた。殺される運命だった。
その儀式の途中、私は神と接触し、先程の呪文を得たのだ。それは彼らの気まぐれなのか、あるいは私を憐れんでのことか。真意はわからないままだ。
ふと、力が緩んで座り込んだ私の手を、モズは自分の手で包み込む。
「君との思い出が欲しかったんだ。だからもう悔いはないよ」
「ここで僕も殺してくれる?」
出会ってすぐに、いつ殺してくれてもいいと言われていた。君の力なら、どんな相手も傷つけることなく殺せるだろうと教えてくれた。
それでも、私は一時の気の迷いで、ましてやよくわからない呪文なんかで、簡単に殺すなどしたくない。全てを吐かせて、あらゆる苦痛を与えてから殺すつもりだ。
そう。こいつは馬鹿なんだ。自分が殺人鬼だと。私に殺されることを受け入れている。実際、両親を殺したのは私かもしれないのに……あの時、ナイフを握っていたのはなぜなのか。それを聞いても、きっと彼は本当のことを答えない。どうしようもなく痛ましい。子供のような抵抗を、笑顔で隠している。
だからって、生かしている私も大馬鹿なのだが。
私はにこりと微笑む。
「殺すわけないでしょ。だって貴方は、私の家族なんだから」
モズは弾かれたように顔を上げる。その驚きに見開かれた瞳には、背の伸びた私が映っていた。
ピピピ、とモズの携帯が鳴る。いつの間にかどこかと連絡を取り合っていたらしい。しばらく相手と話した後、モズは私へ向き直った。
「さて、行こうか。今度は新潟だよ。お米がおいしいんだってさ」
私は彼の袖を引っ張る。彼は黙って見つめる。私はその視線を遮るように俯き、呟くように聞いた。
「いつまで繰り返すの?」
行く先々で追っ手が現れ、それを始末する。この逃避行は3度目になる。
「……ずっとだよ。でも君は気にしなくていい。もう少しで自由になれるんだから」
彼は指で私の頬を撫ぜた。その感触が、温度が、なにより離れ難いと感じた。
「ずっと、ずっとね。わかった」
私は噛み締めるように言うと、モズを押し倒して口へキスをした。柔らかく啄むように何度も落とすと、彼はふ、ふ、と息を漏らす。それがどうしようもなく可愛くて愛おしい。私たちは他人の血溜まりの中で、しばらくそうしていた。
「本当に馬鹿だな」
彼と一緒なら、今はそれでいい。たとえそれが籠の中だとしても。