1.おばけなんてないさ-08(完)
「いや〜、奈河殿お体丈夫なようで良かったです。あ、お見舞いに電子ギフト券送りましたので果物でも買ってくださいね」
「……どうも」
気が付くと奈河は病院に検査入院という形で横たわっており、額には名誉の負傷である男と接触した跡がくっきりと残っていた。
その跡だけが、あれが夢じゃなかったと証明する唯一のものだ。
試しに5階分の階段を往復してみたがどっと疲れたし、息が上がって看護師に心配された。
そして目の前で憎たらしく笑う鬼の頭をひっぱたくことも適いそうにない。
行き場のない拳を握り締めて奈河は言う。
「そもそも百閒さんが居眠りこかなかったら私もこんなことにならなかったんですよ。まあ、電子ギフトはありがたく頂きますけど」
額の傷は1000円分の電子ギフトにしては重い代償だ。成人男性とぶつかったのだからこれで済んだのは良かった方かもしれない。
部下の失態を謝罪しに来たらしい四迷は奈河の額をまじまじと見ながら不思議そうにしている。
「しかし奈河殿何があったんです?駆けつけた警察によるとあなたとストーカー男が倒れこんでいて、まるでお互いぶつかったようにあなたの額には大きなたんこぶがあったと」
「……近くにあった電柱に頭ぶつけたんですよ」
苦し紛れにそう言うが、二人は首を捻る。
「近くに電柱なんかありました?百閒」
「はて、なかったと思いますけど」
「あっ、あんまり覚えてないんです!ほら、頭を強く打ったからかな~?」
奈河は一気に冷や汗をかきながら必死に弁明する。
「ふむ。まあ、そういうことにしておきましょうか。そろそろ行きましょう、百閒」
まだ不思議そうにしている部下の袖を引っ張って立ち上がった四迷の大人の対応に、奈河はただただ感謝した。
しかし、すぐに彼らとすれ違うように入ってきた人物に、再び嫌な汗が背中を伝う。
「おや、八瀬殿!奈河殿のお見舞いとは殊勝ですな。では我々はこれで!」
「我々が病院にいると洒落になりませんからね。では、奈河殿。お大事になさってくださいね」
扉の前に立っていたのは奈河の先輩である八瀬透であった。
昨日奈河から恐ろしい数の着信を受けていた八瀬は流石に事の顛末を知っているだろう。
四迷と百閒に席を外すのを待ってもらおうかと思ったが、既に二人の姿はない。
「や、八瀬さん。珍しいですね、こんなところまで足を延ばされるなんて」
「別に。見舞いにいったら直帰していいって言われたから。はいこれ、課長から」
「えっこれフルーツ饅頭じゃないですか!しかも期間限定シャインマスカット!」
奈河が昨日逃した菓子の名店 花もみじの限定商品だ。
けれど奈河が手を伸ばすと同時に八瀬が手を引いたので、惨めにベッドの上に倒れこむことになった。
怪我をした後輩にあんまりではないだろうか。
「あの、八瀬さん?」
「質問に答えたらあげるよ。君、何であいつに触れたの」
いきなり核心をついた質問に言葉が詰まる。
「……はは、何言ってんですか?触れるわけがないでしょ。相手は戸籍移管者ですよ」
「ストーカ―男が柊さんとぶつかって気を失ったって騒いだから俺と課長で丸め込んできたんだよ。そんな訳ない、彼女は普通の人間ですって」
「……えっと」
「それでここに来てみたら男が言った通り君の額には傷がある。一体何が起こったの?君、本当に人間なの?」
「あ……はは、人間に決まってるじゃないですか……」
乾いた笑いと共にそう言ってはみるが、八瀬の目は少しも笑っていない。
駄目だ、今度は誤魔化せそうにない。
(でもいきなり現れた男の人とキスしたら急に体が軽くなって鬼籍の人間にも触れるようになったなんてこの人信じるか?)
そもそも奈河だって何が起こったか未だに理解できていない。
奈河が完全に思考停止に陥ったその時であった。
「奈河~!怪我したって聞いたけど大丈夫?」
そう言って病室に入ってきたのはあの青年であった。
今日もまた派手な柄シャツにカラーサングラスをかけているが、何故か様になっている。病院で見るとより奇抜だ。
「えっ!?」
「……どなたですか?」
八瀬の手を取ると、青年はにっこりと笑って思いもよらぬ挨拶をする。
「お世話になっております。奈河の兄です」
え、と言いかけて急いで飲み込んだ。
彼は思わぬ救世主だ。ここで奈河が梯子を外すわけにはいかない。
一応言っておくと奈河には弟がいるだけで兄はいない。
「これ奈河が好きな林檎だよ。剝いてあげるから待っててね」
「あっ、ありがとうございます……」
あの、と八瀬が口を挟もうにも青年が間髪入れずしゃべり続けるせいで何も会話が成り立たない。
「先輩。僕、奈河と二人で話したいんで、出て行って貰えますか?」
口調は軽いはずなのにどこか有無を言わさぬ雰囲気がある。
数秒の睨み合いの後、八瀬は分が悪いと思ったのか溜息を吐いてベッド横の机に見舞いの品を置く。
「じゃあ、柊さん。また明日」
「あっ、はい。……よろしくお願いします」
それだけ言うと、八瀬は去って行った。
残された奈河は青年をちらりと見る。
彼はさっさと奈河の近くに椅子を持ってきて座り込んだ。
「……私兄なんていないんですけど」
いたとしてもこういう人間ではないだろう。奈河の弟である今際は頭のいい子だが目立つタイプではない。
「あの手のタイプは君にそんなに興味ないから、詮索なんてしないよ」
「ていうか、なんで林檎好きだって知ってるんですか?」
「まあ、いいじゃない。そんなこと」
彼は奈河の額に手を当てて、「痛いね」と言った。陶器のように冷たい。
不思議だ、触れたところから痛みが引いていくように感じる。
「なんで私にあんなことしたんですか?」
「奈河が幽霊じゃなくなりたいって言ったから」
「それがどうかしました……?」
「普通はさ、あの世の人間のことを幽霊と言うんだ。でも君は違う。君はちゃんと僕たちに触りたいと言ってくれた。奈河はちゃんと二つの世界の間にいるんだって思った。奈河、三途の川という名は君にぴったりだね」
僕たち、と彼は言った。
奈河の額を触る手はやはり人間にしては冷たすぎる。
「それは……私にとっては普通のことで」
「普通?それなら、なお素晴らしいよ」
彼は奈河の手を取ってさらに熱弁する。
「君は自分が普通だと言う。でも君の普通を、当たり前を貫くことが誰かを救うかもしれない。君が当たり前にやっていることは、この世とあの世の間に落ちてしまった人間に手を差し伸べることだ。世界は変わることができる。君が、それを証明してくれたんだよ、奈河」
彼は、心底嬉しそうに笑った。それは先ほどまでの人を食ったような笑顔ではない。
奈河と再会した時のあの少し興奮したような、そういうものだ。
彼の足元には、窓からの光が影を作っている。普通冥界に属するものには影はできないから鬼ではない。
そしておそらく、人でもない。
それならこの青年は何だというのだろう。
「あなたは、神様か何かですか?」
「そんなところかな」
彼は持っていた袋から林檎を取り出して、奈河の手の中に収める。
「ねぇ、奈河。僕のことはサラって呼んで。お友達になろうよ」
※
『これ以上逃げ回ったらそれだけ罪が重くなりますよ!おとなしく警察行きましょうよ!』
『捕まえられるわけないだろ!』
スマートホンの画面の中には、男と奈河がぶつかって倒れる姿が映りこんでいる。
それを何度も再生し、トリミングしたり効果音をつけたり試行錯誤しているのはなんと小鬼の百閒であった。
「にしてもこれ、何が起こったのか皆目見当が付きませんなぁ」
小鬼は実は昨晩奈河がいないことに気が付き、近くを徘徊してるときに偶然奈河がストーカーと対面している場面に出くわしていたのだ。
ここは冥府、閻魔庁の鬼籍課の居室。彼は残業がてら小銭稼ぎに動画投稿サイト用の編集をしていた。今は冥界も副業の時代だ。
「BGMもあったほうがウケるかもしれないな。もうちょっと編集してからあげるか、おおっと!?」
「へえ、よく撮れてるじゃない」
動画をリプレイしようとした時、後ろから伸びてきた腕がスマートホンを百閒から取り上げた。百閒は腕が伸びてきた方を振り返って、思わず椅子から転げ落ちる。
誰もいなかったはずの部屋に突然現れた男は現世のファッションを身に纏っている。派手な柄物のシャツにカラーサングラスは地獄の薄暗い雰囲気にあまりにそぐわない。
久しぶりに彼を見たが、鬼女たちが騒ぐのも分かる優男だ。何故こんなところにいるのか百閒は驚きで理解できず、急いで首を垂れた。
彼は百閒のスマートホンを手で弄びながら問う。
「百閒、こんなところで何をしているの?」
その声は優しい。が、それ以上に怒りが込められている。
「えっ、あっ……これはですね、こういった動画は再生数が伸びると言いますか……」
「あの子のことを見世物にするつもりだったってこと?」
微笑む男に、小鬼の顔がどんどん青くなっていく。
「ちゃんと目線はつけますよ……ひっ!」
バキッ。
そう言ったときには既に男の手の中でスマートホンが真っ二つに割れていた。そのまま彼は百閒の手にスマートホンだったものを返してくれるが既にうんともすんとも反応しない。
「あ……あぁ……」
「僕が見つけたんだ。小鬼如きが手を出そうなんて手癖が悪いね」
「……だったら」
「だったら?」
言ってしまった手前引くこともできず、思い切って声に出した。
「だったらもっと給料上げてくださいよぉ!閻魔王!」
奈河が出会ったのは鬼でも人でも、ましてや神様でもない。
「無理に決まってるでしょ。地獄は財政難なんだから」
彼こそ、冥界の主にして王、閻魔王その人なのだ。
『おばけなんてないさ』 作詞:槇みのり