1.おばけなんてないさ-07
「触りたい、私は幽霊じゃないって証明したい」
それが奈河の正直な気持ちだ。
青年に初めて出会った時から変わらない、奈河の願いだ。
「うんうん、それでこそ奈河だね」
彼は満足そうに頷くと、奈河に顔を寄せてきた。
思わず一歩引き下がると、後ろ頭を手で固定される。
「っ……!」
二回目のキスは一回目よりはるかに実感があった。
口の中が徐々に暴かれていく感覚に驚くが、それでも何故か奈河はキスをされている最中予防接種を受けている時のような心持ちでいた。
儀式みたいだ、と咄嗟に思った。
そう思っていると奈河の身体は不思議と軽くなり、先ほどまでの疲れが嘘のように引いた。
彼は奈河から離れると、鼓舞するようにその肩を叩く。
そのさわやかな笑顔には色気もくそもない。
「奈河、大丈夫。君なら絶対に負けない。ここからまっすぐ行って二つ目の信号を曲がったところにコンビニがあるからその裏側に行ってごらん。きっと彼に会えるよ」
その言葉に思わず奈河は目を見開いた。
「……なんで」
本当に意味が分からない。
やっぱり奈河は何か危ない取引をしてしまったんじゃないか。
「僕は駄目なんだ、直接関わるのは流石にね。ほら、行っておいで」
「えっ、うわっ!」
青年はそう言って、奈河の背を軽く押した。
まるで氷が滑るように、奈河は前へと押し出される。
後ろを振り向くと、青年はもういなかった。
※
「なんなんだ一体あの人、あっ!名前聞くの忘れた!」
奈河は青年に言われた通りの道を走っていた。
例えるなら足にローラースケートを付けたような、走っているのに地面を滑っているような不思議な感覚だ。
体に負担のない状態で走れるので周りの景色が良く見える。
変なことが起こりすぎて逆に頭が冴えてきた。
青年に言われた通り、二つ目の信号を曲がったところにコンビニがある。
嘘でしょ、と思わず声が出そうになった。
いる。
奈河を馬鹿にしたあのストーカーが何をするでもなくコンビニの裏に佇んでいるのが見えた。
一瞬怯むが、すぐに頬を叩いて自分を奮い立たせた。
夜の温度に冷めたのか、走ったはずの奈河の頬は不思議と冷たかった。
「待ちなさい!」
「えっ……?お前さっきの」
そう言って男はまた奈河から逃げ始めるが、先ほどまでと形勢が逆転している。
奈河はすぐに走りながら男の隣につけると逃げられないように路地裏に誘導する。
「お前なんなんだよ!なんで俺についてこられるんだ!」
さっきと違い、焦って隠す余裕もないようで顔も奈河から丸見えだ。
これなら逃げられてもばっちり捕まえることができるだろう。
「これ以上逃げ回ったらそれだけ罪が重くなりますよ!おとなしく警察行きましょうよ!」
男の背にはコンクリート壁があり、正面には奈河が立っている。
袋の鼠だ。もはや彼に退路はない。
「捕まえられるわけないだろ!」
そう言って彼は奈河目がけて走ってくる。
生身の人間には触れられないのだから、奈河の身体を通過して逃げるつもりなのだろう。
でも奈河は違う、今の奈河はおそらく彼に触れることができる。
彼がこのまま走って来れば何が起こるのか、奈河には予想できた。
覚悟を決めて歯を食いしばる。
こんな仕事も人生も、正直好きじゃない。
辛いことがあったら逃げたくなるし、嫌なことがあったら目を背けたくなる。
それでも、やっぱり逃げたくないと思った。
強くなくても運命に立ち向かえるんだと、証明したかった。
奈河は彼を受け止めるように思い切り手を広げる。
ゴンと、鈍い音が大きく響いた。
「いっ!!!」
お互いの額がぶつかってそのまま男と奈河は豪快に地面に倒れこんだ。