1.おばけなんてないさ-04
「八瀬さん、先ほどはありがとうございました」
セミナーが終わり、奈河がそう声をかけても八瀬は相変わらずこちらを見もしない。
「別に。仕事だから」
彼は手元のスマホをいじりながら、そう答えた。
彼に思いを寄せる女性を何人か知っているが、目すら合わせてもらえないと言っていたのを思い出す。
奈河にとっては既に慣れた光景であり、彼が奈河にこれっぽっちも興味がないことは知っているので何とも思わないがこれで傷つく人もいるだろう。
お互いにそれ以上喋りかけることもなく歩いていると前から声がかかる。
「柊くん、八瀬くん。お疲れ様です」
「あっ、茨木さんっ!お疲れ様です!」
「どうも、お疲れ様です」
講義室を出たところにある小さな談話スペースに座っていたのは、鬼籍課の課長である茨木だった。
白髪交じりの髪に黒縁眼鏡から伸びるオシャレなグラスコードは公務員というより洋画の執事のようだと奈河は常々思っている。
彼の隣にちらりと見えた和服の裾から視線を上げると、その人物と目があう。
「おや、新人さんですかな」
「ひっ……」
その顔を見て奈河は悲鳴を飲み込んだ。
正確に言えば、人物ではなかったからだ。
優しい表情をしているがどう見たって、額の中心部の眉間より少し上に角が生えている。
隣にいる、小さい方の鬼には額に三つ目の目があった。
奈河も書類上だけのやりとりはあったが彼らは二人とも獄卒のようだ。
獄卒とは冥界の公務員、閻魔王庁で働く者を言う。
「新人の柊です。柊さん、名刺を」
「あっ、はい!」
そう言われて急いでポケットに手を突っ込んで、名刺を指し出そうとすると獄卒の方から声がかかった。
「すいません。私たち現世のものには触れられないので。QRコードで失礼しますね」
「そう、ですよね……QRコード?」
「どうぞどうぞ」
そう言って彼らが提示したスマートフォンに奈河もスマートフォンのカメラをかざすと、そこには四迷と百閒と書かれた名刺が表示される。
優しそうな鬼が四迷、背の低い三つ目が百閒というらしい。
「柊さんもよろしいですかな?」
「ええっと、はい」
彼は奈河の差し出した名刺のQRコードを同じく読み取って保存する。
配られた名刺についたQRコードはこのためのものだったのかと初めて知る。
彼らは奈河の顔と名前を見比べて興味深そうに言う。
「柊 奈河さんと仰る?」
「はい、よろしくお願いします」
「変わったお名前をお持ちですな。柊は魔除けの植物ですが、奈河は三途の川の異名です。我々に慣れ親しんだ良い名だ。奈河殿とお呼びしても?」
「構いませんよ。うち両親がちょっと変わってて弟もこういう名前なんです」
これは本当の話で奈河の弟の名も今際と言う。父親が名付けたらしいが、よく役所で止められなかったものだ。
この名前のおかげか二人とも風邪とは無縁の健康優良児だ。
打ち解けた様子の両者を見た茨木は奈河と八瀬に着席を促した。
「挨拶はこれくらいにして、八瀬くん、柊くん。君たちに行ってほしいお宅があるんですよ」
「……確実に定時過ぎるんですけど」
八瀬はあからさまに顔をしかめる。
時刻は16時過ぎ、奈河たちの定時は17時なのでこれから新しい仕事をするには遅い。
どれだけ忙しくても定時で帰る彼にとっては残業自体イレギュラーだ。
「花もみじのフルーツ饅頭奢りますから」
「……しょうがないですね」
茨木のその声に少し目を開いた彼はそそくさと座り込む。
花もみじは法務局の近くにある和菓子屋で、鬼籍課みんなの行きつけである。
特に季節のフルーツを羽二重でくるんだ饅頭が人気で、八瀬の好物なのだ。
奈河は残業常習犯なので特に反論することもなく隣に腰を掛けた。
二人の前に茨木が置いたのはある女性に関する調査書だった。
「なんでも鬼籍の人間にストーカーをされているらしいんです。警察に相談しても証拠がないのでまともに捜査もできないらしくて。この方の話を聞いて来てもらえますか」
「ストーカーって私たちの管轄なんですか?」
訝しんだように聞く奈河に茨木は言う。
「鬼籍課というのは組織図上戸籍課の隣にありますが、税に関わり入管に関わり戸籍に関わる、ようは冥界に関する何でも屋なわけです。昔と比べて今は鬼籍に入る人間も増えていますし、管轄を分けるという話もありますが今はとにかく全てうちが担当しています」
「はぁ……」
確かに研修で業務範囲は広いという話は聞いていたがここまでとは聞いていなかった。
こんなの警察の仕事ではないか。
「俺税金の取り立てもしたことあるよ」
奈河が言葉を失っていると八瀬が涼しい顔で言う。
「……覚悟が足りてなかったです」
「おや、私はどんな人間の声にも耳を傾けるこの仕事を誇りに思いますよ」
「じゃあ茨木さん、自分で行ってくださいよ」
「ははは、じゃあ代わりに八瀬くんこの後東京出張行ってくれる?」
笑顔で言う茨木に八瀬はすぐに顔を顰めて「嫌です」と首を振る。
課内でも八瀬が素直に言うことを聞くのは茨木くらいのものだ。
奈河が密かに感心しているとさて、と四迷が立ち上がった。
「八瀬殿、奈河殿。百閒をおつけいたします。百閒、私は茨木殿に伴いますので頼みましたよ」
「はい!四迷殿!」
小鬼の元気のいい返事につられて奈河も背筋を伸ばす。
隣で八瀬が深い溜息をついた。