1.おばけなんてないさ-03
「最近では事故などで、一刻を争う場合などのために運転免許証の裏に戸籍移管の意思を示す署名欄もありますので確認してみてください」
『特別戸籍移管制度セミナー』そう書かれたホワイトボードの下にスライドが投影されている。
ここは、法務局が講座や研修用に使用する講義室だ。
自身の運転免許証を取り出して確認している聴講者には若い世代が多い。
冥界特別戸籍移管制度、通称は鬼籍制度と呼ばれるこの制度は始まって既に50年は経っているが、どちらかというと若者にウケが良いのだ。
最近の若者は刹那主義だと言われているが、彼らなりに老後の心配もちゃんとしている。
その前で教鞭を取るのがこの物語の主人公、柊 奈河である。
この春法学部を卒業したばかりの新人だ。
奈河の勤め先は法務局鬼籍課といい、彼女はそこに今年の四月に入社したばかりの新人公務員なのであった。
自他ともに認める普通の人間であるが、最近ではあまりに周りから顔を覚えられないため前髪を短めにしている。
オフィスカジュアル出勤の公務員も多い中で鬼籍課は常に黒いスーツの着用を義務付けられている。それは彼らに届く事案には常に死が隣り合っているという意味でもあるのだ。
奈河は新人なので流石にそこまで重い案件に関わることも少なく、こうして若い世代向けの講演会の教壇に立っている。
はい、と聴講者の一人が手を上げて質問する。
「鬼籍に入る際の特別な処置とはなんですか?」
「黄泉戸喫です。あの世の物を食べることで冥界で生きる権利を得るとともに、こちらでの戸籍を失います。安楽死処置を行ったものに黄泉戸喫を行うことで鬼籍へ入る権利を得ます。詳しくはテキストの25ページをご覧ください」
奈河は待ってましたと言わんばかりに朗々と答える。その部分は昨日丁度寝る前に復習したのだ。
黄泉戸喫。
日本神話ではイザナミが行ったこの行為は、黄泉の国、つまり冥界で何かを口にするとこの世には帰って来られなくなるというものだ。
現代では当事者を仮死状態にしたうえで、口内に盃の半分の清酒を流しいれる。
この清酒は冥界側で作ったものであり、その半分を流しいれることで意識の半分を現世に置いていくという意思表示となるのだ。
「あの、じゃあ鬼籍に入るってことは死ぬってことなんですか?」
「え~っとそれはですね……」
これは非常に難しい質問である。奈河は思わず言葉を濁した。
肉体的な意味ではイエス、とも言える。
しかし、このセミナーの一番の目的は鬼籍制度への誤解を払拭すること、そしてより多くの人にこの制度を利用してもらうことである。
下手に回答して、SNSに書き込まれでもしたら始末書ものだ。
「命とは、生活を元に成り立つものです」
そう、言葉を詰まらせた奈河の代わりに声を上げたのは講義室の後方に立っていた青年だった。
「冥界で今まで通りの生活を行えるという意味で、私たちは命を失うことはありません。また、鬼籍に入ることで様々な特典を得ることもできます。例えば満員電車で人に押し潰されることはありませんし、映画も並ばずに入れます。また、お腹がすくこともありませんのでコスパ最高な体となります」
にこやかに答える彼は、奈河の一年上の先輩である八瀬 透だ。
珍しい理系大学院からの入局の彼は、鬼籍課の顔としてこういった説明会にはよく顔を出している。
なにしろ今風の塩顔イケメンであり、彼のにこやかな応対に質問した女性も頬を染めている。
へぇと感嘆の声が広がるのを聞き、奈河はひとまず胸を撫でおろす。
「……えーと、はい!その通りです。実際鬼籍に入られた方には国から補助が出るため、複数の施設で割引も受けることができます」
そう補足しながら目線を八瀬の方に向けた時には既に彼は興味なさそうに窓の外を眺めていた。