ルーゼの暴走
私は崩れ落ちるアルベール様を抱きとめた。
その重みに体が耐えられずに、一緒に倒れ込むようにして座り込んだ。
「アル様、アル様……っ」
そんなわけがない。何かの間違いだ。
アルベール様は強い。ルーゼの力を身に宿している。
私を庇ったから。私のせいだ。
「嫌です、アル様……お願いです、目を覚まして……っ、あなたを庇って、私が死にたかった……あなたのためなら、私は、命などいらなかったのに……っ」
ネクロムの剣は、アルベール様の心臓を貫いた。
吹き出す血が、衣服を濡らしている。私の両手をべっとりと濡らして、床に流れ落ちている。
石畳がアルベール様の血を吸って、赤い水溜まりを作った。
「アル様……っ」
「──リィテ、君が、無事なら」
掠れた声で名を呼ばれる。力なく、唇が動く。
星のような金の瞳から、急速に光が失われていく。
私はアルベール様の体を、自分の顔を押しつけるようにしながら抱きしめる。
今まで堪え続けていた涙があふれて、アルベール様の顔に、体に、ぱたぱたと落ちた。
「ふふ、はは……はは……ッ、なんとまぁ、呆気ない! 弱い人間などに力を貸すからこうなるのだ! なんとも脆弱なことか!」
ネクロムの声が聞こえる。でも、今の私には彼の言葉は届かない。
まるで、雑音だ。
「アル様、お願いです、起きて……お願い……っ、アル様……!」
呼吸が止まる。もうアルベール様の瞳には、私は映らない。
「私も、すぐに。あなたの元に……待っていてください」
その前に──ネクロムを、私が。
勝てるわけがない。相手は幻獣だ。それでも。
私はアルベール様の後を追うだろう。どのみち失う命なら、せめて一太刀でもいい。
ネクロムに、一矢報いたい。
剣を取り立ち上がろうとする私の前に。アルベール様の中から現れるように、小さなルーゼが顔を出した。
「ルーゼ……」
ルーゼの瞳は、赤く染まっている。怒りに自我を失ったかのように。
刃を剥き出しにして、毛を逆立てている。
小さなルーゼは、体を震わせながらその姿を変えていく。
それは美しくも恐ろしい、おおきな、獣。
黄金色の絨毯のような輝く体毛が、私の視界を埋め尽くす。
「ルーゼ! やはりそこにいたのか、会いたかったぞ! よくも私を……!」
歓喜の声をあげながら、ネクロムが両手を広げる。
その背からはえた黒い翼が肥大していく。まるで蛹が羽化でもするかのように、人の肉体から幻獣の姿に変わっていく。
黒い、蝙蝠によく似た姿の、幻獣へと──。
「あぁ……」
私は、絶望とも感嘆ともいえない声をあげた。
アルベール様の体は未だ私の腕の中にある。
その体からはルーゼの力は失われてしまった。よりどころをなくしたルーゼは、外に。
アルベール様を傷つけられたことに怒り、微睡みの中から目覚めたのだろう。
視界を埋め尽くす程の巨大な獣の姿は、震えるほどの畏怖を感じるものだ。
それなのに、とても綺麗。
それは私の知るどのルーゼとも違う。
小さな愛らしい獣の姿ではない。私を背に乗せてくれたルーゼよりもずっと、ずっと。
空に蓋をするような。そこに、もう一つの星があるような。
大きなルーゼは、ネクロムの体を簡単に口にくわえて、太い柱のような牙で噛み砕いた。
そしてその口から、炎をあふれさせる。
ネクロムは断末魔の叫びをあげることもなく、砕かれ燃えあがり、塵のように消えていく。
「ルーゼ……」
なんて、暴力的で。
圧倒的で。
──おそろしいのだろう。
ルーゼの咆哮が、空気を震わせる。空気が揺れる。そして大地が。
ぐらぐらと揺れる。どこかに捕まっていないと、体が投げ出されてしまうような震動に。
世界が、揺れている。
「リリステラ様、これは、一体……!」
「兄上!」
「おにいさま……っ」
ジオニスさんが私の元に走ってくる。キルシュとフレアが、アルベール様の体の前に膝をついた。
もう動かないアルベール様の体に縋り付いて、二人が泣いている。
ジオニスさんが私の体を支えて、コルフォルが私たちを守るように、細く優雅な体で私たちを包み込んだ。
大地が震えている。ヒルドバランの空に立ちこめる暗雲が、まるで雲の中に灼熱の炎があるかのように、赤く変化をしていく。
強い風が吹きすさび、森からは鳥たちが一斉に飛び立っていく。
「ルーゼ、怒っているの……?」
アルベール様という器を失って。ルーゼは怒り、嘆いている。
私がアルベール様を愛しているように、ルーゼもまた自分の依り代だったアルベール様や歴代の皇帝を大切に思っていたのだろう。
その嘆きが、大地をまるで生き物のようにうねらせている。
「……アルベール様がおっしゃっていました。あなたを失えば、ルーゼの力が暴走するかもしれない。それは多くの人々を死に至らしめる、恐ろしい力だと」
「アル様の命が失われて、ルーゼは……」
ジオニスさんがフレアやキルシュを抱きしめながら、頷いた。
地面が、割れていく。割れた地面から光があふれる。大地が──中から破裂していっているようだった。
それはまるで流れ星のように。
燃えさかる星が、空を落ちていく。
星という船に乗った人々は、炎に包まれて消えてしまう。
「ルーゼ! 駄目です、お願い……!」
私は──空を覆うルーゼに、呼びかける。
声を届けなくては。憎しみに、悲しみに、心を曇らせてはいけない。
私もルーゼと同じだ。アルベール様を失い、悲しみに心が壊れそうになっていた。
自分の命など捨ててもいいとさえ。
それでは、いけない。私にはまだ、守るべきものがある。
顔をあげて、前を向いて──生きていかなくては。
あなたのいない、世界でも。
あなたが愛した人たちを、私も愛したい。
「お願い、聞いて! あなたが愛した世界を、壊さないで! あなたは、人を愛し、人を守るためにフェデルタの皇帝の中で眠りについていたのでしょう!」
ルーゼの瞳が私に向いた。黄金色の空を切り抜いたような赤い瞳が爛々と輝いている。
大丈夫、聞こえている。届いている。
「ルーゼ、お願い! 正気に戻って! 私があなたの傍にいます、私の体をあなたにあげる、私の中で眠りについて構わない、だから……!」
ルーゼの大きな瞳がぱちりと瞬いた。憎しみに燃える赤い瞳が、穏やかな空の色に変わっていく。
焼けただれるような色の空が二つにさけて、柔らかな陽光が差し込んだ。
空に続く、梯子のように。
涼しい風が頬を撫でる。震える大地を癒やすように、空から花弁が降り注ぐ。
その中を、小さな獣の姿に戻ったルーゼが私の元へと降り立った。
『私を呼んでくれて、ありがとう』
春の陽射しを連想させる穏やかな男性の声が、私の頭に響く。
『ありがとう、ステラ。君を守ることができなくて、ごめん。また会えて、よかった、リリステラ』
「ルーゼ……」
『私が、彼の心臓になる』
ルーゼはアルベール様の胸の上へと浮かびあがる。そして、握りこぶしほどの大きさの、輝く青い星となった。
その星が、アルベール様の体に深く、沈んでいく──。




