リリステラの逃亡
ヒルドバラン城の周囲には深い森がある。ぐるりと森に囲まれている小高い丘の上に城は建っている。
つまり森を抜けた先は行き止まりであり、崖になっている。
城から街に抜ける通路は一つ。城門から続く坂道の下には街が広がっている。
星と月の出ている明るい夜だ。屋上からそれを確認すると、私はフィーナとフレアを連れて寝室に戻った。
「お姉様、怖い」
「あの人、怖い」
「二人とも、私を守ってくれてありがとう。二人のことは必ず、私が守る。ここにいてはいけない。……逃げましょう」
「うん。お姉様、私、頑張る」
「ウサギ隊長は、強いのです」
「ありがとう、フィーナ。そうね、フレア。とっても、強いわ」
夜風のせいで、体が冷えている。フィーナとフレアを、温もりを分けあうようにして抱きしめる。
逃げるならば、夜よりも昼だ。
ネクロムは自分が幻獣であることを隠している。
この城にいるのは死者だけではない。
だとしたら、ヒルドバランの者たちの前で幻獣の力を使ったりはしないだろう。
人のふりをしなくてはいけない昼のほうが、夜よりも逃げることに適している。
「今日は、ちゃんと寝ましょうね、二人とも。大丈夫。そうだ、フェデルタの歌を歌いましょう。お義母様から教わったの」
いつか──アルベール様との子が生まれたときに歌えるようにと、お義母様が子守歌を教えてくれた。
囁くように口ずさんでいると、やがてフィーナもフレアも、規則的な寝息をたてながらぐっすり眠りだした。
幼い子供たちの体温に励まされるように、いつの間にか私も微睡んでいた。
ヒルドバランは雨ばかり。確かにその通りで、昨日の晴れが嘘のように朝からしとしとと窓の外には雨がふり、濃い霧が立ちこめていた。
私はフィーナとフレアに、部屋で待つように伝えた。
そして一人で部屋を出て、図書室に向かう。
ただ闇雲に逃げてもすぐにみつかってしまうだろう。
だから私は──。
「誰か来て、火事です……!」
燭台の蝋燭を使って、図書室の書架の本に火をつける。
乾いた本は、よく燃える。炎があっという間に天井まで燃え広がり、灰色の煙を立ち上らせた。
(ごめんなさい……)
罪悪感に、息苦しくなる。けれど今は──これしか方法が思い浮かばない。
本に囲まれた静かな場所は、私の隠れ家だった。
沢山の知識や、心が躍るような楽しい話、切ない話や希望に満ちた話が詰まった本が、燃えていく。
私を守ってくれた大切な居場所を、捨てるような。最低な行為だ。
アルベール様との思い出を穢してしまった。
私は、罪深いことをした。
燃えさかる本と共に、アルベール様との記憶も消えていくような気さえする。
(でも、他にいい方法が思いつかない。ごめんなさい……)
駆け寄ってきた侍女が大きな声をあげる。兵士たちが足早に駆けてくる。
私は集まってくるヒルドバランの城の者たちの合間を縫うようにして、フィーナたちの元まで駆ける。
そして二人の手をひいて、ヒルドバラン城の城門へ向かう。
見張りの兵たちは火事の騒ぎでいなくなっている。
小さなフレアとフィーナは、長い時間走ることが難しい。せめて馬を手に入れないと。
(大丈夫。できる、きっと大丈夫)
はあはあと、フレアの息が切れている。フィーナの足が縺れる。
ヒルドバランの城は広大で、城門に向かうまでの距離さえ気が遠くなるほどに長い。
廊下を走る兵士たちの足音に、私は二人を抱きしめて廊下の角に身を隠した。
「……大丈夫、二人とも」
真剣な顔で、二人が頷いてくれる。
私も頷くと、二人の手を握りなおした。
廊下の先に誰もいないことを確認して、再び走り出す。
フィーナが城門の報告を指さしてくれる。私はそちらに向かってひたすらに足を進めた。
調度品の影に身を潜め、階段の下に身を隠し、兵士たちに見つからないように。
城の出口には衛兵が並んでいる。開け放たれた大門からは荷馬車が出入りしている。
城に必要物品を届けるための荷馬車だ。
この規模の城なのだから、小さな街ぐらいには多くの人々が生活をしている。
その人々の生活を支えるためには、毎日のように荷物が届く。食料品から生活物品まで。
それはネクロムには必要のないものかもしれない。
けれど人のふりをしているのなら、そういった人の営みについて無視をすることはできないだろう。
あの荷馬車に乗ることができれば。荷物の中に、紛れ込むことができれば──。
今日は、雨だ。荷物の譲渡は城の外ではなく、門の中の屋根のある場所で行っている。
荷馬車の荷運び人が荷物を降ろし、それを兵士たちが受け取り見聞している。
積み荷を降ろした馬車が、順番に出て行っている。
(紛れ込むことは、できないかもしれない。荷馬車を奪って走らせれば──)
私はフレアとフィーナの手を握り、静かに歩き出す。荷運び人と兵士たちが、大きな荷物を降ろしている。今ならきっと気づかれない。息を潜めて彼らの横を通り過ぎ、荷馬車の荷台にフレアを抱き上げて乗せようとして──。
ぎりりと、腕を捻りあげられた。
「──どこにいく、リリステラ。大人しくしていろと言ったはずだ」
「お父様……っ」
フィーナが悲鳴のような声をあげる。
私の腕を掴んでいるのは、父だった。
額に青筋を浮かべて、怒りの眼で私を睨めつけている。
腕が、痛む。その手を振りほどこうと、私は暴れた。
フィーナが父の足にしがみつく。父は私から手を離すと、フィーナを蹴り飛ばした。
「邪魔をするな! 私の娘は私に従順であるべきだ。その反抗的な目をやめろ!」
「お父様、お母様をどこにやったの? お姉様にひどいことをしないで……!」
「黙れ! リリステラはヒルドバラン王への貢ぎ物だ! お前たちは私の役に立つために生きている、そのために私が生ませて、ここまで育ててやったのだ!」
握りしめた拳をフィーナに向かって振り下ろそうとする。
「やめて!」
私は、フィーナを庇うために両手をひろげて、フィーナの前に立った。
振り下ろされた手が私の顔を殴りつける前に、父の動きがぴたりと止まった。
「──不愉快だ」
ネクロムが──父の背後から抜き身の剣の切っ先を、父の背に押しつけていた。




