愛しい人は一人きり
日が暮れる。今日も、一日が終わろうとしている。
ヒルドバラン城に来て二日目だ。状況は、特に変わっていない。
それどころか悪い方へと進んでいる気がしてならない。
──隙を見て、逃げ出そう。
そう思っているのに。どこにいても、城の者が私たちを見張っているようだった。
ネクロムについてわかったことも少ない。ただ彼は、長くヒルドバランを支配している。
彼がネクロムだと知る者はいない。皆がクラウディスだと彼を呼ぶ。
そして父は野心のためにネクロムの傍にいる。野心のためならば、愛していたはずのフィーナでさえも道具にできる。
フィーナやフレアを人質にすれば、私が言うことを聞くことを、父はよく知っている。
──血筋からは、逃げられない。彼はどこまでいっても私の父だ。
だが、幻獣が父のいうことをきくだろうか。父も邪魔になったらネクロムに殺されるのではないか。
ラウル様を操った父は、ネクロムも甘言で操れると信じているのだろう。
私はそうは、思えない。ネクロムはラウル様よりもずっと、おそろしい。人には制御できない存在だ。
(アルベール様や、歴代のフェデルタの皇帝が幻獣の力を持って平和を維持できるのは、その心が善良だからだ)
例えば父のような者が大きな力を持てば、国は乱れるだろう。
でも、フェデルタはそうではない。
ルーゼや他の幻獣たちの力を、国を守るためにそして、民を守るためにフェデルタの皇帝は使っている。
アルベール様もそう。エルデハイムを攻めたのは、犠牲を最小限におさえるためだった。
(戦いは、嫌だ。多くの無関係な民が、傷つく。ヒルドバランの方々だって、何も悪いことはしていない)
明日には、逃げよう。できるだけ早く。フィーナとフレアを連れて、ネクロムの元から。そして、父の元から。
(本当に、できる? でも、やるしかない)
フィーナとフレアが寝静まった夜に、私はそろりと部屋を抜け出した。
城の中を探るためだ。どこに出入口があるのか、どこから外に出られるのかを調べておきたい。
部屋の外には見張りの兵士たちがいる。「眠れないから散歩をしたい」と言うと、あっさり部屋から出してくれた。
──ネクロムに、笑われているのを感じる。きっと、どうせ逃げられないと思っているのだろう。
静かな城の中を、足音を立てないように進んでいく。できる限り高い場所から、敷地を見下ろしたい。
出入口、街の様子、どこに行き止まりがあるのか。そういったことを確認したかった。
階段をあがり、上へ上へと進んでいく。
すると背後から、足音がぱたぱたと響いてきた。
足を止めて振り向くと、フィーナとフレアが泣きながら私に駆け寄ってきた。
「お姉様、どこにいくの……!?」
「リリステラお姉様……っ」
私はしゃがみ込んで、二人を抱きしめた。できるだけ優しく、背中をさする。
「ごめんね。眠れなくて。星を見たかったの」
「一緒に行く」
「一緒がいい」
「うん。ごめんね。じゃあ一緒に、星を見ましょうか」
「お姉様、屋上、こっちに」
フィーナが私の手をひっぱってくれる。二人をできるだけ不安にさせないように──と思っていた。
でも、今はフィーナの手が、あたたかく、そして力強く感じた。
手持ちランプで足元を照らしながら、階段をあがっていく。
私たちの黒い影が、光の中にのびている。階段をあがるたびに、足元からのびる影が私たちのあとをついてくる。
フレアは私の腕にしがみつき、フィーナはぎゅっと私のスカートを握っている。
長い階段をあがると、広い屋上に出る。
風が私たちの髪を巻き上げるように揺らした。夜空に星が宝石をちりばめたように輝いている。
澄んだ空気が心地よく、こんな時でも──空は美しいのだと感じる。
「空、見えるの、珍しいの。お城はいつも、雨か、曇り」
「今日は晴れていたわね。星もよく見える」
「星が見えるのは、はじめてかもしれない。お姉様がきたから」
フィーナが両手を広げて、嬉しそうに言った。
フレアは私の腕にしがみついたまま、それでも熱心に夜空を見つめている。
「私の旦那様は、明るい日差しのような人。お日様のような人よ。だから……今日は星が見えるのかもしれない。遠い場所から、頑張れって、応援してくれているのかもしれないわ」
そう口にすると、本当にそんな気がしてくる。
フレアは嬉しそうに私の手を引っ張った。
「アル兄様は、お日様です」
「そうね、フレア。アル様はいつも、皆を照らしてくれる太陽のような人ね」
「みんなに、会いたい……」
「うん。大丈夫。きっと、大丈夫」
「……お姉様、私は」
フレアの小さな体を抱きしめて大丈夫と繰り返す私に、フィーナが心細そうな視線を送る。
私が手持ちランプを床に置いて片手を広げると、フィーナは私の腕の中に飛び込んできた。
「私は、ひとりぼっち。お父様は、怖いの……」
「大丈夫よ、フィーナ。ここから出て、フェデルタに行きましょう。私の傍にいて、フィーナ」
「うん。……お姉様、ごめんなさい。お母様は、お姉様をいじめていた、でしょう……?」
「あなたは何も、気にしなくていい」
幼いフィーナも、薄々感づいていたのだろうか。
目に涙をいっぱいにためるフィーナの髪を、私は撫でた。子供に、罪はない。
フィーナが無事でよかった。失ってしまったものは多い。でも、これから──きっと沢山の楽しいことがある。私にも、フィーナにも。
「ねぇ、見て。星、綺麗ね。ほら、あの形。うさぎさんね」
「野うさぎ探検隊です!」
「ふふ、そうね。野ウサギ探検隊の、フレア隊長。フィーナ、フレアはね、野ウサギ探検隊の隊長なのよ」
「探検隊?」
「冒険をする人たちのこと。フレアが隊長、私たちが隊員。あの星は、私たちね。野うさぎ探検隊を、ほら、立派で勇敢な青年が、守ってくれているわ。剣を振り上げている。魔獣に、立ち向かってくれている」
私は星を指さして言う。真ん中に三つの星、そしてそれを中心に四つの輝く星がある。
まるで勇敢な勇者のような星。その前に、角のはえた牛のように見える九つの星がある。
「ある日、野うさぎ探検隊が冒険にでかけると、それはそれは大きな角のはえたおそろしい魔獣に出会いました。魔獣に襲われた野うさぎ探検隊は絶体絶命です。その時現れたのは、美しい立派な青年でした。青年は魔獣を一刀両断して、野うさぎ探検隊を助けてくれたのです」
「わぁい!」
星を見あげながら私が話すと、フレアが喜んでくれる。
フィーナが不思議そうな顔をしているので、エルデハイム語でもう一度話をした。
フィーナは瞳をうるませて、嬉しそうに笑った。
私は微笑んだ。少しでも勇気づけられたのなら、よかった。逃げるときは三人一緒だ。
二人にも──協力してもらわなくてはいけいない。
「悪い魔獣とは、私のことか」
唐突に響いた声に、私は体を震わせる。フレアとフィーナは、私の背後に急いで隠れた。
闇の中からぬるりと抜け出すように、屋上の入り口からネクロムが現れる。
静かに私の前に立つネクロムに、私は昼間のことを思いだした。
私など簡単に殺せると言っていた。でも、未だそれをしていない。それは、そうする気がないということだ。恐れを心に押し込めて、私はネクロムを真っ直ぐに見据えた。
「魔獣とは、夜の闇や影からうまれるもの。あなたは違います。あなたは……ルーゼによって、うみだされた……?」
「さぁ。どうだろうな。それで……誰が、魔獣を倒す?」
「魔獣を倒す勇者は、アルベール様です。孤独を知りながら、人を愛することができる強くて輝く、太陽のような人。私の最愛の人です」
私の言葉に、ネクロムは不愉快そうに眉を寄せた。
「私もルーゼも同じ幻獣だ。そこに何の違いがある?」
「アルベール様は、ルーゼではありません。でも、あなたにとっては同じなのでしょうね」
私は──手を伸ばした。ネクロムの手に触れる。
拒絶ばかりではなにも、変わらない。辛く苦しいばかりの毎日で、あの時私はアルベール様に出会った。
声をかけていただいて、悪意も敵意もなくただ言葉を交わすだけで、私の心は満たされた。
だから。
「あなたは、愛を知らない。かつて、私もそうでした。独りぼっちで苦しくて、死んでしまいたいと思ったこともありました」
ネクロムはラウル様の記憶を見ている。これは、ラウル様の記憶の中の私だ。
自分を律して前を向こうとしていても、苦しさに押しつぶされることがあった。
母の形見の髪飾りを燃やされた時、私は、もう駄目だと──心が折れそうになった。
それでも。
「私は、お母様に愛していただきました。その記憶があったから、生きていられました」
「だから何だ?」
「あなたは誰かに愛された記憶がないのでしょう。あなたと私は少し似ているけれど、違います。誰かの手のあたたかさを知ることができればあなたもきっと、愛を知ることができるはず」
ネクロムは透き通るような眼差しで私の瞳を見返した。
それから彼の手を握る私の手をつよく引いた。
「では、お前が教えろ、リリステラ」
腰を抱かれる。唇が触れ合いそうになる。
嫌だ。私の全ては、アルベール様のもの。
でも、これでいいのかもしれない。もしかしたら、これで。
「やめて!」
「駄目!」
フィーナとフレアが私たちの間に割り込んだ。小さな手で、ネクロムの体を押して私から引きはがそうとしてくれる。
ネクロムは私から手を離す。フレアとフィーナに片手を振り上げる彼から、私は二人を庇った。
「お願い、やめて。二人には手を出さないで。私は、何をされてもいい。だから……!」
「……興ざめだな」
ネクロムは一言呟くと、陰に溶けるようにして消えてしまった。
私はしばらく小さな二人を抱きしめて、その場から動けなかった。
アルベール様に、会いたい。今すぐ、どうしても。会いたい──。




