ヒルドバラン王の妻
──今頃、アルベール様も空を見ているだろうか。
この広い空は、繋がっている。
私はネクロムに締められた喉に触れながら、空を見あげた。
深く息をついて心を落ち着かせる。それから、地面に散らばっている絵本を拾って、ついた土や葉を払った。
丁寧に重ねる。それを持って私は城の中に向かった。
「お尋ねしても、いいでしょうか」
「はい。どうされましたか、リリステラ様」
「……私の名を、知っていますか」
「クラウディス陛下が、あなたを客人だとおっしゃっていました。エルデハイムからの賓客、ルーファン公爵の子女だと。フィーナ様と共に大切に扱えと申し使っております」
城の廊下ですれ違った侍女に話しかけると、足を止めてくれる。
ヒルドバラン王国とエルデハイムは国交がなかった。長らく敵対を続けているので互いの国の事情は極力相手に伝わらないほうがいい。
それにエルデハイムはフェデルタに戦を肩代わりさせていた。ずっと守ってもらっていた。
そのため、自ら斥候を送りヒルドバランの事情を調べるというようなことはしてこなかった。
ヒルドバランと国交があるのは、ルーマスティア王国だけ。
私はラウル様に頼まれてルーマスティアからの親書の返事を代筆していたので、ほんのすこし、ルーマスティアがヒルドバランとどのようなやりとりをしていたかを知っていた。
ルーマスティアは肥沃な大地を持つ草原の国だ。よく麦や、豆がとれる。
ヒルドバランは夜の国といわれている。曇りの日と雨の日が多く、晴れた日が少ない。
夜が長く昼が短い。霧が出ていることも多く、作物を作るには恵まれていない土地だ。
(それは、ネクロムがいたからかもしれない。その影響が、強かったのかもしれない)
幻獣の力が土地に少なからず影響を与えるのだとしたら、死や闇を司るような存在であるネクロムの力がヒルドバランの土地に作用している可能性もある。
──ともかく、ヒルドバランの土地は、あまり豊かではない。
作物はとれないが、鉄や鉱石は採掘できる。ルーマスティアとの国交は、それらを売り作物を買うといったものである。
ヒルドバランはエルデハイムを飲み込み、そしてフェデルタに手を伸ばそうとしていた。
それは国が貧しいが故かと、私は勝手に思い込んでいた。
枯れた土地に住めば、肥沃な土地が欲しくなるものだ。いつだって人は、よりよいものを、よりよく見えるものを欲しがる。
けれどヒルドバランの食指がすぐ隣の肥沃な大地であるルーマスティアではなくフェデルタに向いていたのは、ただ単純にそこにはルーゼがいたから。ネクロムは復讐をしたかったからなのかもしれない。
「エルデハイムは、フェデルタに滅ぼされました。私はお父様を頼りにここに来て、クラウディス陛下に保護をしていただいております。ですが、私はヒルドバランのことをあまりよく知らないのです。ヒルドバランの王族は、クラウディス陛下だけなのですか?」
「ええ。前王様がお隠れになり、王妃様も。若君であったクラウディス様が、十五の時に玉座について十年になります」
「そうなのですね。……クラウディス様とは、どのような方なのでしょうか」
「気になりますか?」
侍女は頬を染めて、優しく微笑んだ。
私は──この城には、死者しかいないのかもしれないと思っていた。
皆がネクロムの支配下にある。皆が、操られた傀儡なのかと。
でもこの方は、生きているように見える。
「クラウディス様が、いずれはリリステラ様を妻に迎えるとおっしゃっていました」
「私を……?」
「はい。リリステラ様のために、フェデルタに支配されたエルデハイムをフェデルタから取り戻すのだそうです。フェデルタとは、不気味な国です。大陸の奥にあり、皇帝は化け物を操るといいます。フェデルタが存在している限り、私たちは化け物の恐怖に怯えながら暮らさなくてはなりません」
私は口を噤んだ。
フェデルタから遠く離れた土地であるヒルドバランの人々は、フェデルタについてそう感じているのかと驚く。
でも、それも、ネクロムが人々に教え込んだ悪感情なのかもしれなかった。
ネクロムが支配する前のヒルドバラン王もフェデルタの支配を望んでいたとしたら、とても古くからヒルドバランの人々はフェデルタを恐れ、嫌っているのかもしれない。
「陛下はとても優しい方です。私のような者にも声をかけてくださいます」
「……怖い方ではありませんか?」
「いいえ。恐ろしいほどに美しい方ではありますが、王としてはとても優しい方です。リリステラ様のこともきっと、大切にしてくださいますよ」
「……エルデハイムからの亡命者の私は、とても、クラウディス様の妻にはなれません」
「何よりも大切なのは血を繋ぐことだと私たちは考えています。ここだけの話、ヒルドバランの王族は、どうしてか短命なのです。他の土地から来たリリステラ様ならば、短命の呪いをとけるかもしれないと思うのです」
それは──ネクロムが。
邪魔になった王族を消しているからではないのか。
「……そうなのですね」
「ここだけの、秘密に。リリステラ様、どうか陛下をよろしくお願いいたします。今まで、女性に興味を示さなかった方なのです。きっとあなたに出会うことを、待っていたのでしょう」
私はできるだけ自然に見えるように微笑んだ。
それから、礼をすると図書室に向かう。
絵本を書架に戻しながら、眉を寄せた。
ネクロムは何故、私と結婚をするなどという嘘をついたのだろう。
(もしかして、本気で……? それが、アルベール様を、そしてルーゼを傷つけることだと、あの人はよく知っている)
ふと足音が聞こえて振り向くと、ルーファン公爵が図書室の入り口からゆっくりと中に入ってきた。
「こんなところにいたのか、リリステラ。お前は昔から、暗くてかび臭い場所が好きだな」
「……ルーファン公」
「違うだろう。父と呼べ。お前がいくら否定しようが、私はお前の父だ。お前の体には私の血が流れている」
「同じ血が流れていようと、あなたと私は他人です」
「そう怯えた顔をするな。お前は大切な、陛下への捧げ物だ。痛めつけたりはしない」
ルーファン公は、上機嫌だった。
いつになく弾んだ声で続ける。
「陛下はお前を気に入ったらしい。見た目だけは美しく、体つきも悪くないからな。ラウルもお前を欲しがっただろう。もう、アルベールには抱かれたのか?」
「そのようなこと、あなたに話す必要はありません」
「なるほど。……陛下はお前を妻に迎える。よく励め。気にいっていただけるように振る舞うのだ。どのようにすれば男が喜ぶのか、お前には教えているだろう?」
「……あなたと話す言葉はありません」
「リリステラ。役に立て。……フィーナを同じ目にあわせたいのか?」
私は息を飲んだ。
──王妃教育の中に、褥教育は含まれている。
私はそれを熱心に専属教師に教え込まれている。
全てはラウル様に気に入られるためだった。
同じことをあの幼いフィーナにと思うと、背筋が凍る。
去って行くルーファン公爵の背を、私は静かに睨み続けた。それしかできない自分が、情けなかった。




