ネクロムとの語らい
翌日、私はフレアとフィーナを連れてヒルドバランの城の庭園に向かった。
ネクロムの姿は見えない。彼について調べに行きたかったが、子供たちの傍にいてあげるほうが先決だと感じた。
庭園に咲いているのは黒い薔薇だ。珍しいが、美しい。
その庭園を眺めることができる場所にテーブルや椅子が用意されている。
私はテーブルに絵本を積んで、一冊の本を開いていた。フレアとフィーナに見えるように持って、文字を目で追いながら、言葉を紡ぐ。
『悪い怪物は、村や町をおそいました。みんな、食べてしまうぞ! と大きな声でさけびながら』
これは、立派な騎士様が悪い怪物を倒していくという冒険譚である。
フレアとフィーナは熱心に聞いている。
フレアはエルデハイム語がわからないし、フィーナはフェデルタ語がわからない。
フレアのほうが年下だから、フェデルタ語で先に読んで、終わったら次はエルデハム語で読む。
それを繰り返していくと、フィーナは少しだけフェデルタ語を覚えたようだった。
そこに、音もなく──ネクロムがやってくる。
ネクロムは空いている席、私の隣に座った。腕を組み、目を伏せる。
フレアとフィーナは一瞬驚いた顔をした。けれど、私が絵本を読み聞かせ続けているので大丈夫だと思ったのか、再び物語に耳を傾けはじめる。
「……お話は、おしまい。二人とも、お部屋でお菓子を食べてくる? それとも、庭園でお花を見てくる?」
「フレア、お菓子を食べに行きましょう。私が一緒に連れていってあげます」
フィーナがフレアに手を差し伸べる。
エルデハイム語しか話せないフィーナの言葉はフレアには通じない。
でも、目線や仕草でなんと言われているのかわかるのだろう、フィーナの誘いに元気よく頷いた。
「うん、行く!」
フレアは嬉しそうにフィーナの手を取る。
連れだって城の中に戻っていく二人の背を見送って、私は絵本を閉じると丁寧にテーブルの上に置いた。
「もう話は終わりか? そのような絵空事を人間は書き残す。それを別の人間が読む。何のためにか」
「絵空事は、私たちに勇気を与えてくれます。物語を読むひとときは、自分が自分であることを忘れることができます」
ネクロムの問いに、私はエルデハイムの学園の図書室を思いだしていた。
図書室の奥にいるときだけ、私は安全だった。
本を開いていれば、自分がリリステラ・ルーファンであることや、ラウル様の婚約者であることをひととき忘れられる。
文字を追っているときは無心になれた。
アルベール様と出会ったのも、図書室だった。
──懐かしい。苦しいばかりの記憶が、アルベール様の存在で幸せな出会いに書き換えられていくのを感じる。
「お前は、お前であることを忘れたかったのか」
「誰にでも……そういう瞬間は、あるかと思います。私にも、そしてアルベール様にも。ラウル様にも、あったのかもしれません」
私は目を伏せる。ラウル様はもういない。
私の見たラウル様はネクロムに操られている──抜け殻だ。
その中身は、魂は損なわれてしまった。それは、死だ。肉体が存在していようと、中身がなくなれば、それは死でしかない。
「死者を操る時、私はその者の記憶を見る。ラウルはお前を貶め、暴力を与え、穢そうとした。それでもあの男の名をお前は口にする。何故だろうな」
ネクロムはテーブルに頬杖をついた。どことなくつまらなそうに、けれど挑戦的に私に語りかける。
どんな回答を求められているのだろう。
私は──可能ならば、ネクロムに気に入られるべきなのかもしれない。
彼を懐柔して、油断を誘い、隙を見て逃げ出す。
けれど、きっと嘘はすぐに露見する。ネクロムは私よりもずっと長い時間を生きている。
見た目は若いが、中身は老獪な幻獣だ。長年玉座に座っていたのであれば、人を見抜く力もあるだろう。
だとしたら、私は私として、正直に話をしたほうがいい。
「──ラウル様のことは、怖いと、思っていました。けれど、愛しく思っていた時間も確かにあります。ほんの少し、優しくしていただいたこともありました。ラウル様もまた、被害者です。ルーファン公の……お父様の野望に、巻き込まれただけの」
元々のラウル様がどんな人だったのか、私は全てを知っているわけではない。
けれど彼は王太子だった。その立場故に、彼の周囲には彼を操ろうとしている人がたくさんいた。
ルーファン家の義母や、義母の手先だったミリアさん。ルーファン伯爵もそう。
私や、私の家と関わらなければきっと、あんなことにはならなかったのだろう。
「私は多くの人間の記憶を見てきた。人は残酷で、無秩序で、生きる価値もない。おまけにすぐ死ぬ。私たちよりも劣った存在だ」
そういう面も、あるのかもしれない。
でもそれだけではない。私たちは互いを思いやり、愛し合うことができる。
──どんなに辛い状況にあっても、微笑んでいた、私を愛してくれたお母様のように。
自分の寂しさに蓋をして、家族の幸せを願い国のために働くことのできるアルベール様のように。
「人間など滅んだほうがいいだろう、リリステラ」
私は静かに首をふった。そうは思わない。
「……ネクロム。きっとあなたは、愛を知らないのでしょう」
「……私を愚弄するのか?」
ネクロムはテーブルの上の絵本を片手で払った。地面にばさばさと本が落ちる。
立ち上がり、私の首を片手で掴む。圧迫されると、呼吸ができず、苦しさに眉を寄せた。
「お前などいつでも殺せる」
そんなことはわかっている。私はじっと、ネクロムの瞳を見つめた。
ネクロムは何も言わずに、私から手を離す。
「……あの少女も、殺す前に私を哀れんだ。お前は、あれによく似ている。腹立たしい」
それから、吐き捨てるように言って立ち去っていく。
私は首をおさえて咳き込んだ。あの少女とは、私の夢に出てきた彼女のことだろう。
ネクロムは──彼女の記憶も見たのだろうか。




