帰路の騒動
夏季休暇の数週間、ルーファン公爵家で過ごした。
私は毎日お父様の機嫌を損ねないか怯えていて、日々のほとんどの時間を、自室で持って帰ってきた教科書を眺めていた。
何冊か駄目になってしまったので、買い直したものだ。
まるで新品のような教科書を見られたらお父様に叱られると思い、使い古しの痕跡を残すために繰り返し開いては眺めたり、算術の問題を解いたりしていた。
夕食の時だけは部屋から出て、よく話すフィーナの声を聞きながら、痛む胃のなかに食事を流し込んだ。
けれどどんなに静かに目立たないように生活していても、私の存在はお父様を苛立たせてしまうらしい。
幾度か、鞭で打たれた。
食事の所作が美しくないとか。笑顔がぎこちないとか。声が小さいとか、愛想がないとか、そんな理由だった。
体も心もぎりぎりと鉄線で締め上げられているかのように痛み続けて、ここではないどこかに旅立つことを夢想した。
けれどそんなことができるはずもなく、夏季休暇の終わり、再びお父様に呼び出された私は「いいか、リリステラ。早々に手を打て。私の言っている意味がわかるな」と言われて頷いた。
王都への帰路。
馬車に揺られながら、私はもう一度ラウル様に触れられることを考える。
この夏季休暇の間、ずっと考えていたことだ。
私はどんな汚い手を使ってでも、ラウル様を手に入れなければいけない。
「……それが、私の役割」
使えるものはなんでも使う。
私はもうミリアさんには負けている。だとしたら私ができることは、お父様のおっしゃっていた通り、自分自身を使うことだけ。
私は商品なのだと、自分に言い聞かせる。
ラウル様のことが好き。愛している。欲しい。心の底から、欲しい。私だけを見て欲しい。愛して欲しい。
そう、思い込めば──なんだってできるはずだ。
恋心は確かにあったのだから。
全身がひりつくような拒否感も、忘れることができる、きっと。
馬車は私を学園寮の前まで運ぶはずだった。
けれど、どういうわけか王都の街中で止まってしまった。
使用人がやってきて、私に馬車から降りるように促した。
「まだ、学園にはついていないようですが、どうしましたか」
「旦那様からの言伝です。リリステラ様を街中で降ろすように、と」
「何故です……?」
「私たちには、わかりかねます。これは、命令ですので」
馬車は私を残して、ルーファン公爵家へと戻っていった。
街を歩いたことのない私は、通りを行き交う人々の中でしばらく呆然と佇んでいた。
(どういうことかしら……)
私は、甘いということだろうか。
自分の足で歩き、社会を知れ、と。
お父様の意図はわからない。けれど、降ろされてしまった以上は、歩いて寮までもどらなくてはいけない。
道が分からず、街の様子をきょろきょろと眺めている私に、親切な方が話しかけてきてくれた。
「お嬢さん、道に迷っている? 庶民には見えないね。貴族様かな」
「……私は」
「どこに行きたの?」
「学園に帰りたいのですけれど……」
「それなら、途中まで案内してあげるよ」
若い男性だった。
私は親切な方に促されるままに、その後に従った。
道行く人たちの波に逆らうようにして歩く男性は、人好きのする笑顔を浮かべながら色々と話しかけてきてくれる。
「学園ってことは、やっぱり貴族だね。あの学園には貴族しか通えない。それに、庶民にはそんな上等な服を着ることはできないし、そんなに美しい髪もしていないから、すぐにわかるよ」
「私、道も分からないので、親切な方と出会えてよかったです。とても助かります」
誰に道を尋ねていいのかも分からなかったので、私は安堵しながら男性の横を歩く。
徐々に人の姿が少なくなっていく。寂しい路地だ。
学園の方角と──離れていっている気がする。
「あ、あの……」
「何か?」
「道が違う、気がするのですが……」
男の口元が、三日月型に吊り上がる。
日が傾き始めている世界で、男の影が不吉に土埃の舞う地面へと長く伸びている。
嫌な予感が足元から背筋までを駆け巡り、私は一歩後退った。
本能が、逃げた方がいいと叫んでいる。
何か、よくないことが起こる気がする。
「そうだよ、お嬢さん。貴族のご令嬢が一人で街を歩くなんて無謀なことはしない方がいい。悪い男に、捕まってしまうからね」
男の手が私の手首を掴んだ。
思いの外強い力で引き寄せられる。
家々に囲まれた、薄暗い路地の行き止まりのような場所へと引き摺り込まれる。
そこには、私たちを待っていたかのように、口元にいやらしい笑みを浮かべた数人の男たちがいた。
「いやぁっ! 離して! 誰か、助けて……!」
私の悲鳴に気づく人は何人かいたようだけれど、皆、私や男たちから逃げるようにして足早に通り過ぎていく。
私は路地裏の地面へと押し倒された。
数人の男たちが私を取り囲んでいる。
抵抗する私の両手や足が掴まれる。まるで、標本の蝶のように。
スカートが捲られて、素足を掴まれる。悪寒が体を駆け巡り、恐怖と吐き気で頭が真っ白になった。
「馬鹿なお嬢さんだな。こんなところまで、ついてきて。安心しろ、大人しくしていれば痛いことはしないよ。たっぷり可愛がって、それから、売ってあげる」
にやにやと笑みを浮かべて、男がいう。
──怖い。
怖い、怖い、怖い。
嫌。嫌だ。嫌……!
誰にも触れられたことのない胸や足を、腹を、男たちの手が弄っている。
綺麗だった服が乱れ、髪が乱れた。叫び声をあげないようにだろう、口に布を押し込まれる。
見開いた瞳に、飢えた野獣のような男たちの姿が映っている。
涙が溢れて、頬をつたって溢れた。
私は──このまま。
慰み者にされて、それから、誰かに売られるのだろうか。
男たちの顔に、お父様の顔が、ラウル様の顔が、それからジョシュア様の顔が重なる。
叫び声も助けを呼ぶ声も、口に押し込まれた布のせいで、くぐもった音しか出ない。
せめてと暴れようとしても、体を押さえつけられているせいで身を捩ることしかできなかった。
──私は一体、なんのために生きているのだろう。
「その女性から、手を離せ」
唐突に、低い声が響いた。
「なんだ、てめぇは!」
男の一人が、宙に浮いて路地の壁へと叩きつけられる。
まるで、人ではない何かに襲われたかのように、男たちは驚愕の表情を浮かべた。
一人、また一人と、簡単にその体は蹴り上げられ、殴られ、鋭い何かに切り裂かれたように血を流して、地面に倒れていく。
何が起こったのか、よく分からない。
気づけば私は一人、地面に倒れていて、男たちはあるものは足から血を流し、あるものは腹から血を流し、白目をむいて、折り重なるようにして沈黙していた。
「無事か」
私の口から、布が抜き取られる。
低い、よく通る声だ。淡々としているけれど深みのある、堂々とした声音。
その声の主は、声と同じように立派な体躯を軍服で包んでいる。
騎士団のものとは違う。見たことのない軍服だった。
軍服の上からは軍服を覆い隠すように、外套を着ている。
きっちりと整えられた黒髪と、明るい太陽のような金色の瞳をした美しい方だった。
剣を鞘にしまうと、私に手を差し伸べてくれる。
「……ありがとうございます」
「無理に話す必要はない」
男性の手に捕まって立ち上がった私は、嗚咽を漏らさないように唇を噛んで、震える声で礼を言った。
私の乱れた衣服を直してくれながら、男性は軽く首を振る。
「家まで送ろう」
「……っ、ごめんなさい……っ、大丈夫です、ありがとうございます……」
私は──差し伸べられた男性の手を、振り払った。
大きな声をあげて、泣いてしまいそうだった。
助けてくれたとはいえ、知らない男性に縋り付いて、泣きじゃくって。
そんな姿を、誰かに見られるわけにはいかない。
これはもしかしたら、覚悟のない私に与えられた罰なのかもしれない。
お母様の幻影に縋り、アル様に甘えて、自分一人では何もしようとしなかったから。
だから、甘えるなと──誰かが私を、責めているのかもしれない。
男性の横をふらふらと通り過ぎて、私は、男性からも、男たちからも、逃げた。
助けてくれた男性の名前すら聞かないまま、私はひたすらに走り、気づけば寮の部屋の床へと座り込んでいた。
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