果てしない悪意と父からの呼び出し
図書室に行けば、アル様がいる。
話をすることはあまりなかったけれど、少し離れた場所で本を読んでいるアル様の姿を見つけると、ほっとすることができた。
私の横を通って書架に本を返しに行くとき、誰にも聞こえないぐらいに小さな声で「大丈夫ですか?」と尋ねてくれる。
小さく頷く私を確認すると「よかった」と、言ってくださる。
それだけで、私はずいぶん救われた。
朝が来るのが怖くて、眠るのが嫌いだった。
朝が来るたび憂鬱だったけれど、最近は少し、楽になった。
ラウル様とミリアさんが親しくしている姿を見ると胸が痛んだけれど、大丈夫だと、思うことができた。
幸せになれるかもしれないという淡い期待が、ラウル様への思慕が、薄れていく。
それでも婚約者という立場を失くしたわけではないけれど、嫉妬からミリアさんを虐めているという噂を立てられても、冷たい視線を向けられても。
アル様が私を信じてくれているというだけで、私は──鈍く光る鋭いナイフの上を歩き続けているような辛さから、少し、楽になることができた。
一人きりでも大丈夫だと、私は無実だと背筋を伸ばし、授業を受ける。
筆記用具を隠されたり、ノートを破かれたりは相変わらず続いていて、たびたび私がそれをミリアさんにしているのだと責められたけれど、「私はやっていません」と、淡々と答えた。
罪を認めることはしない。私は無実だからだ。
私にできるのは堂々と振る舞うことだけ。泣いたり取り乱したりするのは、いけない。
悪意を持った誰かに、私の感情を一欠片でも与えたくはなかった。
私にはアル様がいる。そして、私を宝物だとおっしゃってくださったお母様も。
俯かないで──前を見ていなくてはいけない。
夏の休暇に入る前、ミリアさんから呼び出しを受けた。
最近は、ミリアさんに危害が加えられないようにとラウル様はそのそばを片時も離れることがなくなり、ミリアさんが私から被害を受けることは少なくなっていた。
といっても私は何もしていないのだけれど。
私の方は相変わらずで、物がなくなることは日常茶飯事だった。
お父様にいつ私の惨状が知られるのかと怯えていたけれど、今のところ公爵家からは何も連絡はない。
失った学用品などを買い直すために多くのお金をお父様からいただくことはできなかったので、生活のために渡されていたお金を切り崩していた。
ランチルームでの昼食を削ったり、夕食を削ったりすればなんとかなった。
私の様子を心配してアル様が「少し痩せた?」とおっしゃって、こっそり栄養価の高い保存食用のパンなどを、分けてくださることもあった。
アル様と過ごす穏やかな時間は私にとってかけがえのないもので、昼休憩や放課後が待ち遠しくなった。
そのせいかもしれない。
私は多分、油断をしていたのだ。
ミリアさんが「リリステラ様と和解がしたいのです」と言っていると、ジョシュア様に言われて、それを信じてしまったのだから。
私は素直に呼び出しに応じた。
いつもは図書室で過ごしている昼休憩の時間、ミリアさんが待っているという学園の裏庭へと向かった。
テラスのある美しく整えられた中庭と違い、裏庭は日当たりが悪く花壇には日陰でも育つあまり目立たない草花が植えられている。
裏庭の奥にある焼却炉には嫌な思い出があるから、できるだけ見ないようにした。
朝方まで降っていた雨のせいだろう、地面はまだ湿っていて、水捌けが悪いのだろうか、水たまりが残っている場所もある。
こんな日に、靴底が汚れるこんな場所にわざわざくる物好きなど、数えるほどしかいないだろう。
少なくとも、学園の貴族たちは来ない。
「ミリアさん」
私が呼びかけると、ミリアさんは私に軽く会釈をした。
ふわりとした薄桃色の春の花のような髪に、魅力的な愛らしい菫色の瞳の女性だ。
小柄で可愛らしく、いつも気弱そうに、眉を下げている。
直接、個人的に話したことは一度もない。私の知るミリアさんは、いつも私が怖いと言って泣いていた。
「リリステラ様、来てくれてありがとうございます」
「あなただけ、ですか?」
「はい。二人きりで話がしたかったんです」
「……和解がしたいと、聞きました。私は……あなたに何かした覚えは、ありません」
もしかしたら、私の冤罪も、誤解も解けるのかもしれない。
わずかな期待を抱きながら、私はそう口にした。
ミリアさんが誤解だと分かってくれたら──。
ミリアさんの唇が、弧を描いた。
いつもは泣きそうな顔ばかりしているのに、蠱惑的で、少し恐ろしいと感じる顔だ。
けれどすぐさま、その瞳に大粒の涙を浮かべた。
「ひどい……! リリステラ様、あんまりです……! ラウル様に近づくななんて、そうしないと子爵家を潰すとおっしゃるのですか!? そんなの脅しではないですか……!?」
「え……」
「やめて、リリステラ様、やめてください……! 助けて、誰か、助けて……!」
ミリアさんは大声で叫びながら、自分の制服の胸のボタンを切り裂いて、隠し持っていたらしいハサミで髪を一房切り、それから、制服のスカートを切り裂いた。
「いやあああっ、やめて……! 誰か!」
持っていたハサミを地面に投げると、水溜りの中へと尻餅をつく。
私は、唖然としながらその様子を見ていた。
「どうして……ミリアさん……」
「助けて、ラウル様! 助けて!」
あぁ──私は、馬鹿だ。
どうして希望を抱いていたのだろう。
どうして、悪意のある誰かが、ミリアさんその人だと今まで気づかなかったのだろう。
こちらに向かってくる何人もの足音が聞こえる。
私は何もできずに、ただ立ちすくんでいた。
アル様に、会いたい。
「ミリア! リリステラ、なんということを!」
ラウル様が水溜まりの中で泣きじゃくるミリアさんを抱きしめて、私を睨みつける。
私はジョシュア様にブラウスの襟首を掴まれて、「最低だ、リリステラ! この悪女め!」と罵倒されながら、地面に思い切り投げ飛ばされた。
泥の中に、体が沈んでいくようだった。
強く投げ飛ばされたせいで地面を転がった私は、煉瓦造りの花壇に体を強かに打ち付ける。
罵倒の声が、泣き声が、遠くに聞こえる。
私は目を閉じた。もう何も、聞きたくない。何も、見たくなかった。
「リリステラ。……今まで哀れだと思い、ルーフェン公爵には伝えなかった。しかし最早、限界だ」
「恥を知れ、悪女。ミリアの痛みを思いしれ」
ラウル様の声が、死刑宣告のように耳に響いた。
集まった何人もの方々の罵倒の声が、裏庭には響き続けている。
ジョシュア様が焼却炉の灰入れを私にぶつけるようにしてかける。
泥と灰まみれになった私は、ただ漠然と、このまま消えてしまいたいなと考えていた。
そうして、恐れていたことが起こった。
その出来事から数週間後、私は父によって、ルーフェン公爵家に呼び戻されたのだった。
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