アルベールの過去
母の愛というものを、俺は知らない。
物心ついたとき、俺には母がいなかったからだ。
俺の傍には教育係のジオニスがいて、侍女たちがいて、父がいた。
乳母のことは覚えていない。
乳母に思慕を抱かぬように、乳母が権力を持たぬように、乳飲み子でなくなった時点で乳母は家に帰される。
誰がその役目をしたかは、言ってはいけない。
それはかつて、母恋しさに乳母を捜し当てて要職につかせてしまった皇帝がいたからである。
フェデルタの歴史は、そうした失敗を繰り返し、修正しながら今まで続いている。
母が恋しいという気持ちは、よくわからない。
俺にとってそれは、最初からなかったものだからだ。
父の部屋には、母の絵姿が一枚だけ残されていた。
父はそれをとても大切にしていた。懐かしそうに、「ベルーナは優しい女性だった」と話した。
「俺の母は、ベルーナというのですね」
「あぁ。ベルーナ・アスタリス。アスタリス公爵家の娘だ。優しく聡明な人だった」
「体がよわかったのですか?」
「そんなことはない。子を生むというのは、女性にとっては命がけのことだ。でもベルーナは、産まれたばかりのお前を抱きしめて、なんて可愛いのだろうと喜んでいた」
「そうなのですね」
「あぁ。お前を産んだことを後悔などしていない。ベルーナも、それから私も。お前が産まれてきてくれて嬉しいよ、アルベール」
「はい、父上」
父は皇帝として忙しく日々を過ごしていて、ゆっくり話しをする時間というのはあまりなかった。
母の話をしたのは、幼い時に父の部屋を訪れて絵姿を見て、母について尋ねた時、一度だけだったと記憶している。
幼いながらに、あまり母について口にするのは、母の愛を追い求めているようで恥ずかしかったのだろう。
それに、フェデルタの皇帝を継ぐ者として俺は育てられたので、多忙だったということもある。
「よいですか、アルベール様。フェデルタの皇帝とは、その身にルーゼの力を宿します。ルーゼの力は強大ですが、それに甘えてはいけません。皇帝とは王は民を守るもの。その為の権力、その為の力。己を鍛えることを忘れてはいけません」
「それは理解したが、ジオニス。一体何をするんだ?」
「アルベール様は十歳になられました。ですので、十歳の試練、皇帝の峰へとのぼっていただきます」
「一人で?」
「もちろん」
「わかった」
十歳の時、ジオニスと他の護衛兵たちと共に、幻獣の聖域にある皇帝の峰へと向かった。
これは、ルーゼに従う幻獣たちに、次期皇帝であると自分を示すためのものである。
フェデルタの皇帝は世襲制であり、長兄が継ぐ者であるが、試練に失敗した場合はその限りではない。
といっても、十歳から即位するまで、試練は何度も繰り返されて――皇帝は鍛えられる。
失敗して命を落とした前例は何度かあるようだが、大抵の場合は問題なく皆、皇帝として即位している。
余程、素質のないものだけがふるい落とされるのである。
フェデルタ皇国の北にある幻獣の聖域には、皇帝の聖峰と呼ばれる高い山がある。
その頂上にあるルーゼの神域に到達するのが最初の試練だ。
今までジオニスに体を鍛えに鍛えられてきたのは、試練を行うためである。
剣と水と食料を持ち、俺は聖域に足を踏み入れた。
神域に辿り着くまで、三日三晩かかった。
聖域に住む幻獣たちと会い、対話し、ルーゼの神域に辿り着く。
圧倒的な孤独に打ち勝ち、恐怖に打ち勝つための試練だ。
人ならざるものが住む山の中で一人というのは、それだけ心を追い詰める。
ルーゼの神域に辿り着き、証明として神域の石を持って山を降りる。
無事に戻った俺を、ジオニスは褒め、父は喜んだ。
試練を終え、俺は母を失った父の孤独について考えていた。
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