あなただけは、怖くない
エルデハイムの城に、私は幾度か行ったことがある。
白を基調にした調度品や壁の装飾、蜜蝋の燭台。優美に磨かれた城内に、公爵家の日の当たらない小部屋で一人静かに息を潜めていた私にとって、そこは夢のように美しい場所だった。
けれどどこか、無機質で他人行儀な印象を受けた。私の心は常に、男性に対する恐ろしさで緊張していたから、美しい城も牢獄のように見えたのかもしれない。
アルベール様の腕に抱かれて王宮の中を進んでいく。
フェデルタの城は、エルデハイムの城よりも天井が高く、広い。
天井には様々な天井画が描かれている。翼の映えた人や、裸婦の姿や、見たこともないような動物の姿。
壁にはレリーフが刻まれていて、燭台には蝋燭もないのに青い炎が灯っている。
美しく、豪華で、色に溢れている。
華やかさのなかにも荘厳さがある。深みのある金で塗られた天井に、青や赤の衣装を着た神々しい、神様の絵だ。
見惚れるほどに美しい。角を曲がり新しい通路に足を踏み入れる度に、絵が、色が、変わっていく。
ずっと見ていたいぐらいに、綺麗。
「リリステラ、フェデルタの城は少々目にうるさいだろう。エルデハイムは、色が少なかったからな」
「そんなことありません。綺麗です」
私は熱心に天井を見つめながら言った。あんなに高い位置に、どうやってこんなに精巧な絵を描いたのだろう。
「気に入ってくれたのなら、嬉しい。何代か前の皇帝が、後宮の女性たちが退屈しないようにと描かせたのがはじまりでな。今では王宮の至る所に、絵が溢れている。絵描きたちは王宮の壁や天井に絵を描けることを、最高の名誉だと考えている」
「描かれた絵は、アルベール様の目に入るのですから、それはそうですよね、きっと」
「俺はあまり興味がないのだ。だが、君が気に入ってくれたのなら嬉しい。リリステラは、絵が好きか?」
「……今まで、考えたことも、ありませんでした。自分が、何が好きか、なんて」
「そうか。だが、天井画を見る君の表情は、輝いている。君は、幻獣はきっと神様みたいな姿をしているだろうから会いたいと、言っていた。君は美しい姿をしたものが好きなのかもしれないな」
「美しい……?」
「あぁ。天井に描かれるのは、宗教画だ。幻獣や、幻獣に祝福された者たちの姿。つまりは、神を想像した絵だな。神とは美しい姿をしていると、絵描きたちは想像する。わざわざ、醜悪なものを描こうとはしない」
アルベール様の深みのある低く、けれどはっきりとした快活な声が、広い回廊に心地よく響く。
「許しや、癒し、幸福。愛。そのようなもので、満ちている絵だ。……それはきっと、君が欲しかったものなのだろう」
「……アルベール様」
「リリステラ。もっと君のことが知りたい。君の全てが知りたい。この手に君を抱くことができて、俺は十分幸福なはずなのに、どんどん貪欲になってしまうな。これが、恋か」
「恋……」
「あぁ。恋だ。俺は恋に落ちた。このような感情ははじめてだ」
恋――と、アルベール様は何度か言った。
それは――私に?
ここは、アルベール様の後宮。アルベール様は皇帝になる方だ。
私は、アルベール様に情けをかけていただいた。最早私にはなにもない。何もない私をここに置いてくださるのならば、きっと、妾の一人だろう。
それでも――感情をくださるのだろうか。同情ではなく、恋だと。
「……ルーゼがエルデハイムに俺を導いたのは、俺に君と出会わせるためだったのだろう。ルーゼの導きに、心のままに従ってよかった」
そう言って、明るく笑うアルベール様を見ていると、顔が熱くなるのを感じた。
私に――恋を、してくださっている?
そんなわけがない。私は、アルベール様に情けない姿しか見せていない。
目の前で犯されかけて、皆に嘲笑されて、一人きりで過ごしていた。恥ずかしい姿だ。
ナイフで、自分の喉を引き裂こうとさえしたのに。
あぁでも、もし本当にそうだとしたら――。
私は、多くを求めてしまうかもしれない。立場を弁えず、愛が欲しいと、思ってしまうかもしれない。
ずっと、飢えていたから。
人の温もりに。優しい言葉に。感情に、愛、に。
「アルベール様、私は……私にはなにもありません。本当に、なにもないのです」
「それがどうしたんだ? 当たり前だろう、俺が君をあの国から奪ったのだから。リリステラ、全てを失った君はもうどこにもいけない。俺の傍にいるしかない。だから、俺が全て与えよう。君に、俺の全てを」
アルベール様の言葉は、私の不安を全てかき消してしまうほどに――明るい希望に満ちている。
私はアルベール様の首にぎゅっと抱きついた。
男性とは、私に痛みを与える存在だ。
けれどアルベール様は、怖くない。アルベール様だけは――怖くない。
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