救いの手
大ホールの屋根が、吹きすさぶ風が竜巻のように渦巻いて、剥がれて吹き飛んでいく。
屋根の剥がれた天井から青空が見える。
その青空に覆いかぶさるようにして、白い体毛を持つ神々しく美しい、狐に似た動物の顔がぬっと姿を現した。
「神様……」
生徒たちが悲鳴を上げている。
教師たちが生徒たちを守ろうと、避難を促している。
私はその獣を食い入るように見上げて、呟いた。
愛らしくも美しく、神々しい獣。私を迎えに来てくださった神様かもしれない。
私の命はもうないのだろう、きっと。
私の首にはナイフが刺さり、喉が引き裂かれて――今ここにいる私は、魂なのだろう。
お母様の元へいくことができる。
穢れなき魂は、神の箱庭にいくことができる。人は死ぬと魂になり、魂の運び手によって神の箱庭に運ばれると言われている。
神様か、それとも神の御使いか。
どちらか分からないけれど、とても美しい姿をした獣だ。
光り輝く白い体毛に、翠玉の瞳。ふわりとした体毛の先端は青々とした草原を連想させる、エメラルドグリーンに輝いている。
「なんだ……何が起こった……! お前が獣を呼び寄せたのか!?」
ジョシュア様が、私の髪をぐいっと引っ張って、私の顔を覗き込む。
掴まれた髪が、痛い。まだ、痛みを感じる。
どうして――私は、死んだのではなかったの?
「皆、臆するな! リリステラは邪悪な魔女だったのだ! ただの獣だ、殺せ、殺せ!」
ラウル様がミリアさんを庇いながら、叫び声をあげる。
髪を掴み上げる痛みが、不意に消えた。
ぼとりと、床に何かがおちる。
それは、ジョシュア様の腕だった。
腕が床に転がっている。噴き出した赤い血が、床を赤く染めていく。
「え……」
「ぐ、あああ……っ!」
腕の切り口を押さえて、ジョシュア様は悲鳴をあげながら床に蹲った。
その背に足をかけて、誰かが剣を振り上げている。
ぼさぼさの黒髪に、分厚い眼鏡。その手には――凶悪な光を称える、立派な剣。
「アル、様……」
「無罪の女性を足蹴にし、髪を引き抜き、貶めた罪を今ここで償わせてやろう」
図書室で話をしたときとはまるで違う。空気さえ震わせるような低く冷酷な声が、言葉を紡ぐ。
ジョシュア様の悲鳴にも、噴き出す血にも、顔色一つ変える様子はない。
剣の切っ先は、這いつくばるジョシュア様の首の裏側へとぴたりとあてられている。
「アル! 貴様、どういうつもりだ……! たかが男爵家の次男の分際で、なんということを」
「ラウル。馬鹿な男だ」
アル様はすっと剣を持ち上げると、這いつくばるジョシュア様の腹を徐に蹴り上げた。
ジョシュア様は氷のように固まり動けなくなっている生徒たちの方まで蹴り飛ばされて、何人かの生徒たちにぶつかると床に転がった。
腕から溢れる血が噴水のように空へと広がり、雨のように生徒たちに降りかかり、その顔や体を赤く濡らす。
女生徒たちの耳をつんざくような悲鳴が聞こえる。
私は床に座り込んだまま、ただ、見ていることしかできない。
アル様は眼鏡を外して床に捨てて、黒髪をかき上げた。
「あ……」
その姿を、私は知っている。
路地裏で襲われそうになっていた私を助けてくれた、立派な軍服を着た男性だ。
太陽みたいな金の瞳には、激しい怒りをたたえている。
「リリステラ。……助けに来るのが遅くなって、すまなかった」
その男性は――アル様は、私に手を差し伸べて、軽々と私の体を抱き上げた。
「よく頑張った」
「……アル様、どうして」
もう大丈夫だというように、微笑んでくれる。
分からない。どうして、アル様が路地裏で私を助けてくれた男性と同じ顔をしているのだろう。
この男性は一体、誰なのだろう。
「どういうことだ。お前は……」
「よもや俺の顔を知らないとは言うまい。ラウル・エルデハイム」
「……アルベール」
「あぁ。アルベール・フェデルタ。フェデルタ皇国の皇帝となる者だ」
「貴様、どういうつもりだアルベール! エルデハイムに身分を偽り潜入し、我が国の問題に口を出してくるとは……! ジョシュアの腕を切ったな。隣国の皇太子とて、許されることではあるまい。その悪女に諭されたのか? 愚かな!」
『……黙れ、愚鈍め』
アル様は――アルベール様は、フェデルタ皇国の言葉で吐き捨てるように言った。
『今すぐ全員殺してやりたい。だが、殺したらそれで終わりだ。断罪としては、軽すぎる』
冷たい言葉だった。憎しみと怒りに満ちている。けれど私を抱きしめる力は、どこまでも優しい。
アルベール様は軽く息を吸い込んで、朗々と声を響かせる。
「数か月、この国を見ていた。我が国の同盟国として相応しいかどうか見定めるためだ。エルデハイムを守るため、我が国は金を使い、軍事力を割いている。それが必要なことなのか、疑問だった」
「同盟関係を反故にする気か?」
「守り続けるか、捨ててしまうか。どちらが我が国にとって理があるのかと考えていた。王国を見て回り、学園で貴族や王となるお前の様子を眺めた。貴族の集まる学園は、王国全体の縮図だ。この国は、お前のような愚鈍なものが王となり、治める国。王国民は哀れだ」
「私を愚弄するのか」
「真実など、すぐに気づくことができただろうに。お前は俺が誰なのかも気づかず、簡単な嘘を信じた。守るべき婚約者の無実の訴えにも耳を貸さず、事実を調べもしなかった。リリステラの真実を、お前は知らない」
アルベール様は、私の無実を信じてくれたアル様。
アル様とは雰囲気が違うけれど、私を信じてくれている。
それだけで、私は救われることができる。
アルベール様の腕の中で、私は目を伏せた。
どうやらまだ生きているみたいだけれど、このまま私の命が消えてしまっても後悔はしない。
最後にアル様に、会えてよかった。その声が聞けて、よかった。
「ジオニス」
アルベール様が短く言うと、扉から立派な身なりの男性が、縄に打たれた私のお父様とお義母様を連れて、大ホールの中へと入ってくる。
「お父様……お義母様……」
「リリステラ! この裏切り者めが! フェデルタと通じて、親を売るとは……!」
「黙れ、公爵。リリステラは何も知らない。全ては、俺の独断だ」
「離して……! 離しなさい!」
お義母様が、金切り声をあげている。身を捩って逃げようとするけれど、縄の拘束が解けるわけでもなく、足をほつれさせて床に倒れ込んだ。
「ラウル。リリステラは公爵に体罰を受け、脅されて、どうしてもお前と添い遂げなくてはいけなかった。公爵の野心のために。……そして、リリステラの義理の母は、王太子と結婚をしたいと我儘をいう娘可愛さに、元々娼婦だった伝手を使って、娼婦を金で雇った」
「……娼婦を?」
「あぁ。お前の腕の中にいる、その女だ。ミリアは子爵令嬢などではない。男を操るのがうまいという理由で金で雇われた娼婦。何人かの貴族に、公爵家から受け取っていた金を渡し仲間に引き入れて、リリステラの悪い噂をつくりあげた。そして、それだけではなく、リリステラを追い詰めるために、残酷な目にあわせた」
「ミリア……」
「……ラウル様、私を、信じて下さらないのですか?」
ミリアさんは泣き出しそうな顔で、ラウル様を見つめる。
大きな瞳から、涙の雫が落ちた。
けれどきっとあれも、演技なのだろう。
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