序章:冤罪のリリステラ
校舎の裏にある炎魔石の焼却炉には、赤々とした炎が燃えている。
私は、その前に立ちすくんで、ただぼんやりと燃えていく私の髪飾りを眺めていた。
まるで、自分の身が焼かれているように全身がひりつく。
赤い薔薇を模した髪飾りは、私がつけるには少し子供じみたデザインではあったけれど、私にとってはとても大切な物だった。
それは、亡くなってしまったお母様が私のために買ってくださったもの。
お母様の思い出は、その髪飾りしか残されていないのに。
少し目を離したすきに、私の鞄にいつもつけているその髪飾りが消えていた。
嫌な予感がして、午後の授業を欠席してすぐに焼却炉に向かった。
髪飾は、高級な耐火布でできているから、燃えるまでに時間がかかったのだろう。
けれど、今はもうすすけて、半分が墨のようになっている。
「どうして、こんなことをするの……」
私は、痛む胸を押さえて目を閉じた。涙が頬を零れ落ちた。
燃やされたのは、髪飾りがはじめてじゃない。
教科書や、筆記用具。制服に、靴。
どれもこれも買い替えがきくものばかりだったから、今までは悲しかったけれど、どうにかすることができていた。
けれど、髪飾りは一つしかないのに。
「……お母様」
唯一私に優しかったお母様の名前を、私は呟いた。
それから、唇を噛む。
拭った涙がもう零れないように、空を見上げた。
ルーファン公爵家の長女である私は、涙を見せてはいけない。
そう、教えられてきた。感情を隠すことは淑女としての嗜みだと。
私は髪飾りに手をのばそうとして、諦めた。燃え盛る炎に触れることなどできない。
いっそひどい火傷を負って、全てから逃げ出してしまいたかった。
けれどそれはできない。してはいけない。
私には逃げ場などはない。そんなことをしてルーファン公爵家に逃げ帰れば、きっとお父様はひどくお怒りになるだろう。
私の価値など、王太子殿下の婚約者であること以外にはなにもないのだから。
誰が私の髪飾りを燃やしたかなんてわからない。
この学園には――私の敵しかいないのだから。
具合が悪いと嘘をついて午後の一限目には出なかった。
午後の最後の授業に出席しようと教室に戻ると――ミリアさんが泣いていた。
泣いているミリアさんを、クラスメイトたちが取り囲んでいる。
皆で、慰めているようだった。
私が教室に入ると、責めるような視線が私の全身に突き刺さった。
人の視線は――怖い。
怒りと侮蔑の籠ったその視線は、私のお父様のそれを思い出す。
お父様も、私をそのような目でみるのだ。もしくは、感情の籠らない、氷のような冷たい目で。
「リリステラ嬢! ミリア嬢の髪飾りを焼却炉で焼いたそうだな!」
「……っ」
ミリアさんを取り囲んでいる生徒たちの一人、やや派手な見た目の男子生徒が、私を睨みつけて言った。
燃やされたのは、私の髪飾りだ。
けれど、いつも――こうなる。
私がミリアさんの物を壊し、燃やし、汚し、私がミリアさんを痛めつけているのだと。
「どうせミリア嬢がラウル殿下と親しくしていることに嫉妬して、そのような公爵令嬢の風上にもおけないことを行っているのだろう。恥を知れ」
「いいのです、ジョシュア様……! 私が悪いんです、リリステラ様は何も悪くありません……!」
ジョシュア様は、侯爵家長男。
王立ハーヴェルト学園に入学した時は、私にも気さくに声をかけてくれる優しい方だった。
それが今はもう、憎い犯罪者を見るような目で、私を睨んでいる。
「私は、そんなことをしていません」
本当に、そんなことはしていない。
それに、私の大切な髪飾りは、たった今燃やされたばかりだ。
けれど――弁明が無駄なことを、私は既に知っている。
「リリステラ様がミリアさんの髪飾りを焼却炉で燃やしているところを見ました!」
「私も!」
「リリステラ様は午後の授業をさぼって、焼却炉に行ったのです。焼却炉には、ミリアさんの髪飾りの燃えカスが残っていました」
幾人かの女生徒がそう証言して、ジョシュア様の表情が、私に怒り、侮蔑するものへと変わっていく。
「あれは……私の大切な物でした。母の形見だったんです。リリステラ様、せめて謝ってください……」
ミリアさんが哀れに泣き出して、私は俯いた。
謝れば、罪を認めたことになってしまう。
私には罪はない。それを認めることなどできない。
「リリステラ嬢!」
私は唇を噛んで、泣きじゃくるミリアさんや私を睨むクラスメイトたちから視線を背けた。
できるだけ姿勢を真っ直ぐにして、何も聞こえていないふりをして、自分の席に座る。
クラスメイトたちからの「酷い」「最低だわ」「なんて女だ」などの声が聞こえてくる。
いっそ、耳なんて聞こえなくなってしまえばいいのに。
こんなこと――今まで何度も繰り返してきたけれど、慣れたりはできない。
私は一人なんだと、思い知らされる。
今の私を見たら、お母様はどう思うだろう。
きっと――悲しむはずだ。
こんな、情けない私、なんて。
――消えてしまいたい。
先生が教室にやってくると、騒々しさは収まった。
それでも私を睨みつける者たちの視線を感じる。
私は何も気づかないふりをした。気づかないふりも、傷ついていないふりも。
取り繕うことだけは、得意になってしまった。
ルーファン公爵家の長女として生まれた私が、王太子殿下であるラウル様の婚約者に選ばれたのは、お父様の根回しがあってのことだった。
お母様が亡くなり、娘は私一人。
ルーファン公爵家の娘はお母様で、お父様は婿入りをした形である。
元々は伯爵家の次男であったお父様は、とても野心家だった。
貴族というよりも経営者という方だ。「血筋などくだらない。大切なのは金だ」と、よくおっしゃっている。
お母様と結婚してから、いくつかの事業をはじめ、家の存続のために後妻を娶った。
元々お父様は――ルーファン公爵家という地位が欲しくて、お母様と結婚したのだろう。
後妻の方とその間にできた娘のことは大切にしているけれど、私については完全に、物を見るような目で見ていた。
お父様はあるとき、私の使い道に気づいたようだった。
社交界で人脈を広げ、根回しをして、私をラウル様の婚約者に選ばせた。
そして「リリステラ。お前の役目は王妃になることだ。お前が王妃になれば、私のこの国の地位は盤石になる。万が一婚約が破談になるようなことがあれば、お前は公爵家にとっていらない人間となる。覚悟しておけ」と言った。
私は、お父様の野心のために婚約者に選ばれる前から王妃教育を受けさせられていた。
少しでも成績が悪いと、お父様は木の棒で私の背を打った。
痛いことは、慣れない。
痛いのも苦しいのも悲しいのも。
――慣れるのよと、自分に言い聞かせても、どうしても、駄目だった。
ラウル様との関係は、そう悪いものではなかった。
ラウル様は、私を婚約者として扱ってくださった。
十七歳になり、貴族たちが通う王立学園に、入学するまでは。
愛らしく、皆からの人気もある子爵令嬢のミリアさんと、ラウル様はいつの間にか仲良くなっていた。
入学したころは昼食に、私を誘いにきてくださったけれど、教室に訪れるのはミリアさんを誘うために変わってしまった。
私に微笑みかけることもなくなり、挨拶も、してくださらなくなってしまった。
私は、どうしたらいいかわからなかった。
このままではお父様に、捨てられてしまう。
その恐怖ばかりが先だって、恐ろしくて、動くことができずに、ただ見ていることしかできなかった。
そんなある日――私の教科書が、雨上がりに残った水溜まりの中に捨てられていた。
どうして――と思いながらそれを拾い上げて、誰にもみられないように隠した。
そんなことをされたなんて、とても言えなかった。
相談する相手もいない。
その時の私は、婚約者をミリアさんに奪われた女として、皆から遠巻きに見られていた。
そうして、はじまった。
今と同じように、ミリアさんが「教科書を水溜まりに落とされた」と言って、泣きじゃくりはじめたのである。
今も、私にはなぜこんなことになっているのか、わからない。
ただただ、ここにいることが、息をすることさえ、苦しかった。
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