刺繡されたハンカチの意味
刺繍は令嬢の嗜みと練習の為に用意された籠の中から最近人参の図柄を刺繍したハンカチを一枚取り出し転移陣を組み込む。
キケにいつも通りに胸ポケットにそのハンカチをしまってもらい、自分のハンカチから折りたたんだ紙を1枚転移させる。
「転移できたかしら?」
「なるほど、じっとしているので少し違和感はありましたが、動いていると難しいかもしれませんね」
キケは胸ポケットから転移された紙を取り出して少し考える。
アンセルマも部屋を見回してそれらしい物がないか考えを巡らせた。
「懐中時計は如何でしょうか?」
「なるほど、やってみますね」
アンセルマは自分の時計をハンカチに置いて再び転送する。
キケが届いたであろう胸を押さえて頷く。
「お嬢様、このハンカチは広げなければ転送出来ませんか?」
「いいえ、魔力さえ供給できればそのままでも使えますよ」
「では了解の合図にお返しする様に致しましょう」
キケが胸ポケットに少し指を入れるとアンセルマの懐中時計がアンセルマのハンカチの上に戻ってきた。
確かにこれならばすぐに時計が戻ってくるので良い。
しかしリカルドは少し微妙な顔をする。
「僕は区別をつける為にも違う物を送る事にするよ。ポーションの瓶でも構わないかな」
そう言ってリカルドは自分の腰に刺しているポーション瓶を一本自分のハンカチに包んで転送する。
「重さは十分ですから構いません。形状も違いますから違いも分かりやすいかと存じます」
「何か知らせたい時は手紙も付けるようにしよう」
「ご配慮痛み入ります。このハンカチはこのままお預かりしても?」
「差し上げます。当面は通信機としてのみ使ってくださいね」
「承知致しました。お嬢様、お戻りになられる前に何かご用意は必要ですか?」
「そうですね。お義母様に差し上げる為に用意していた化粧品のサンプルはもう出来ているのでしたっけ?」
「出来上がってきておりますのですぐにご準備させて頂きます」
そう頭を下げて一旦キケが部屋を辞すると、リカルドが頬杖をつく様にして隣に座ったアンセルマを見つめる。
何か不満があるらしい。
「どうかなさいましたか、リカルド様?」
「アンセルマ、何故彼にハンカチをあげたの?」
「ハンカチ、ですか?」
「君の刺繍したハンカチをあげるなんてどうかしている」
どうやら怒りを抑えているらしいリカルドはそれでも今までに見た事がない不機嫌さだ。
今まで一度もリカルドはアンセルマにそういった感情を見せる事はなかったのに。
だがアンセルマにはハンカチをあげたくらいで怒るリカルドの気持ちが分からない。
リカルドには懐中時計に始まりもっと高価な物を沢山渡しているではないか。
「ハンカチって婚約者にプレゼントして喜ばれる物ですか?」
「どういう意味だ?」
「だってハンカチって涙を拭く物だから別れを連想するものじゃないですか?」
アンセルマの質問にリカルドはハッとした顔をして、片手で自らの顔を覆う。
ハァと重いため息をつかれ、アンセルマは心底呆れられたのではないかと心配になった。
「彼には渡したじゃないか」
「ハンカチというか、魔道具としてだから良いかなと思ったんですけど、やっぱり失礼でしたでしょうか?」
「そもそも誰が別れを意味する物だなんて君に教えたの?」
「特に誰にも言われていません。そう私が思っただけで」
よく考えればそれは前世の知識に過ぎない。
しかも海外という大括りでハンカチは手切れを意味するからダメと漠然と思っていたけれど、その常識がこの異世界でも同様とは限らない事にやっと思い至った。
しかしどうやら別の意味でハンカチを他人に渡してはいけなかったのがリカルドの反応で分かる。
「アンセルマは礼儀作法もちゃんとしているからもう勉強する必要はないと思っていたんだけど、こういう事はちゃんと教えておかないとダメだったみたいだね」
「申し訳ありません。私、無作法をしてしまったんですね」
「アンセルマ、ハンカチは愛の証として贈る物だ。特に君の刺繍入りだなんて」
「そっそうなのですか!?」
驚きのあまり声をひっくり返らせたアンセルマに、リカルドは毒々しい笑顔を向ける。
自分には渡さなかった刺繍入りハンカチをどうでも良い使用人に自分の目の前で渡されたのだ。それは大層面白くなかっただろうし、リカルドの矜持を傷つけたに違いない。
アンセルマは立ち上がってオロオロと部屋を見回した。
机の上の書箱に飛びつき、小さな包みを取り出しリカルドの横に戻る。
「リカルド様、ではこれを貰って下さいませ。キケからは後でハンカチを返して貰いますので」
「これは?」
リカルドの足元にしゃがむアンセルマから受け取った包みを開くと最高級の絹に刺繍がされたハンカチが姿を表す。
金色の糸でリカルドのイニシャルRとアンセルマのAを&で結び、その周りに鳥や花で囲む様に地味目な色で刺繍を施してある。
「だいぶ前に作ったものなのであまり上手ではないのですけど、リカルド様にお渡ししようと思って作ったものです」
「別れを意味すると思っていたのに?」
「完成した後になってハンカチはダメなんじゃないかと思ってお渡しするのはやめたのです」
母様にリカルド様に作って差し上げたら?と言われ、気合を入れて作ったものだ。
完成してプレゼントとして包むまでして、ハンカチを渡して良いのか心配になって渡すのは止めたが、高い絹と頑張って作った作品だけに書箱に封印する事になったのだった。
今となっては母様が薦めたくらいなのだから素直にそのまま渡しておけば良かったと思う。
リカルドはまじまじとその刺繍を眺め、輝く様な笑顔をアンセルマに向ける。
どうやら機嫌はすこぶる良くなったらしい。
「ありがとう、アンセルマ。大事にするよ」
「その、もう少し上手くなったのですよ。差し上げて良いものと分かりましたから、また何か作りますね」
「あぁ、楽しみにしている」
リカルドはアンセルマの手を取って自分の隣に座らせると、腰を引き寄せたアンセルマの髪にキスをする。
機嫌が直ったのは良いが心臓に悪い。
ほっとしてアンセルマの瞳からぽろりと涙が落ちた。
アンセルマが思ったのは、あぁ、嫌われなくて良かった、という想いだ。
「アンセルマ?!ごめん、僕が急に責めたりしたからだよね。アンセルマは僕の事を慮ってくれてただけなのに悪いのは僕だよ。疑う様な事を言って本当に申し訳なかった!!」
初めて慌てふためくリカルドにアンセルマは慌てて否定する。
「違う、違うのです。私、まだリカルド様の隣に居られるって思ったら安心して・・」
「まだとか言わないでくれ。僕達はずっと一緒だ」
「嬉しいです」
前世の記憶があるアンセルマにしても婚約者を持ったのは初めてで、親に決められた相手と付き合うというのも初めての経験だ。
リカルドの事は嫌いじゃない。
むしろ信頼しているし、好きだ。
手にキスされればドキドキするし、リカルドに嫌われたくないと思う。
ただ、それが恋ではないと思っていた。
でも今はっきりとアンセルマは自分はリカルドの隣に立っていたいのだと自覚した。
確かに恋とは少し違うかもしれない。
それでもこの手を離したらきっと自分は立ち直れないだろう。
リカルドがそっと指でアンセルマの涙を拭う。
渡したハンカチは使いたくないようで、リカルドはポケットから先程ハンカチとしては使わないと言ったばかりのハンカチを取り出してバツが悪そうにアンセルマに握らせた。
「今は隣に居るのだから転移陣を使う事はないだろう?」
「お義母様かライムンダ様から送られてくるかもしれないじゃないですか」
そう自然に笑いかけると今度はリカルドがほっとした顔をする。
アンセルマは机の上の籠を引き寄せて、中から最近で1番の超大作刺繍を刺したハンカチを抜き出す。
刺繍は案外考えが纏まらない時に無心になれるので嫌いではないのだ。
ただリカルドに渡す事を想定していないので差しあげるには少し安い布を使っているのが難点だが、魔術具としてであれば許されるだろう。
ハンカチを広げ、アンセルマは転移陣を焼き付ける。
再び綺麗に折り畳んで、見守っているリカルドに差し出す。
「刺繍の腕は少し上がったと思うのですけど、生地があまりよくないのはお許し頂けますか?リカルド様のハンカチと交換という事で」
「僕のハンカチが欲しいの?」
「リカルド様は下さらないのですか、愛の証」
「勿論あげるのは構わないのだけど、君が転移陣を付加してくれたものを手放すのは代わりがあると言っても忍びないだけだ」
「まぁ。転移陣くらいいくらでも付加しますのに」
「家に帰ったら他のモノと交換してくれると嬉しい」
アンセルマが与えた物を1つでも手放すまいと思ってくれているリカルドが微笑ましくてアンセルマはふふと笑う。
リカルドも笑い返してくれ和やかな雰囲気に戻ったところでドアがノックされキケが小包を持って戻ってきた。
「お嬢様お待たせ致しました。こちらが化粧品、この小さい方が石鹸になります」
「ありがとう。あの、キケ、」
言いかけたアンセルマの腕をリカルドが静止するようにすっと引き、小さく否定する様に首を振る。
「リカルドさま」
「もう大丈夫だ。誤解は解けたんだから」
取り返さなくて良い、というリカルドの言外の言葉にアンセルマは従う。
あれは魔術具なのだから構わないというリカルドの理解に感謝して、アンセルマはハンカチを取り返すのを止める。
「キケ、私達もう戻りますね」
「はい。こちらでお見送りさせて頂いても構わないでしょうか」
「キケならば構わないわ」
キケも家令なだけあって魔力はそれなりにあり、上級魔法も半分くらいは使える。
だがそれ以上に魔力も知識も今ではアンセルマやリカルドの方が上であり、アンセルマが構築した魔法陣をキケでは理解しきれないだろう。
例え場所を把握されたところで悪用など出来ないし、そもそもしないと信じられる。
ポケットから魔石チョークを出して床に魔法陣を描く。
しゃがみ込む際にリカルドに僕が描こうか?と小さく声をかけたのはアンセルマを泣かせた事への贖罪だったのかもしれない。
だがアンセルマは試したい事があり、大丈夫ですと微笑んで自分で魔法陣を書き込んだ。
来た時と同じように指先を切り血を塗り込める。
リカルドの手に手を重ねて転移陣を完成させた。
「それではキケ、戻りますね」
「お帰りをお待ちしております」
既に形の見えない魔法陣の真ん中に立ち、リカルドと手を繋ぐ。
キケはお土産をアンセルマではなくリカルドに手渡した。
アンセルマも半分だけでも持とうと手を伸ばしたが、にこりと微笑まれてやんわり拒否される。
「トラン」
転移の発動も当たり前のようにリカルドに主導され、2人は公爵家のエントランスに転移し戻ったのだった。




