7話
時刻は18時、早番の俺は帰り支度を終えると図書館を飛び出した。遅番だと休憩室や更衣室の軽い清掃やら何やらをしなければいけないため、職場を出る時間が遅くなってしまう。因みにここ最近同僚の仕事を引き受けまくっていた俺に、「ちょっと手伝って欲しい」と残業のお誘いがあったが当然きっぱり断った。話しかけて来た同僚は唖然としていたが、俺には決して遅れることの出来ない理由があるので無視して出て来た。
心なしか早足で目的地へと急ぐ俺は館長が言う通り現金な奴なのだろう。だが、それが何だ。どうせタオルを返されたら彼女と会うことはないし、こんならしくもなく浮かれることもない。束の間の幸せをかみしめて何が悪いというのだろうか。俺はこの思い出だけで半年は思い出してはニヤニヤしながら生きていける自信がある。中々にきもい、と自分で突っ込んだ。
目的地の公園が見えて来た。入り口から園内に足を踏み入れると、すでにベンチに先客がいた。やはり先に着いていたようだ。俺としても急いできたつもりだが、彼女はどれほど早くここに到着していたのだろう。もしかして彼女の勤め先もここからそう遠くないのかもしれない。「どこにお勤めですか」と聞く勇気はない。
足早にベンチに近づく俺に気づいたのか、彼女はベンチから立ち上がると微笑みながら控えめに手を振ってくれる。う、眩しい。18時を回ってはいるが辺りはまだまだ明るい。それでも彼女の周りだけ一際光り輝いて見えるのは俺の目に異常があるからだろうか。
そんなことを考えている内にイングリッドさんが俺の目の前まで移動していた。心なしか距離が近い気がする。業務中は女性と話すとき、一定の距離を保つようにしているためこんな至近距離で女性と相対するのはほぼない。そのため、平静を装ってはいるが心臓が早鐘を打っている。
「こんばんは」
「こんばんは」
ニコニコ、イングリッドさんの周りだけ花が咲いているかのように華やいでいる。つられて俺の口角も上がる。尚、下品な笑い方にならないように細心の注意を払う。
「すみません、待ちました?」
彼女は首を横に振る。
「私もついさっき着いたばかりなので」
彼女は左肩に掛けているカバンを開け、中から見覚えのあるタオルを取り出し、俺に差し出してくる。タオルよりカバンに付いている青いガラス玉のキーホルダーが目を引く。が、すぐ視線をタオルに戻す。
「お待たせして申し訳ありません、綺麗になったとは思うんですが」
「いえいえ、そんな」
手渡されたタオル。数年前に学生時代の友人から誕生日プレゼントで渡された、灰色の狼の刺繍が施された黒地のタオル。「お前の髪色に似てたからさ、何か目に留まって」と言っていた友人。貴族学園卒業後は同じく王都にある博物館の学芸員として働いている、今でも一番付き合いのある友人だ。そんな彼から貰ったタオルは俺のお気に入りで結構頻繁に使っていたため、少し布地がよれてしまっていた。はずなのだが。
(あれ、何か綺麗になってる?)
気のせいかもしれないが彼女から返されたタオルは新品に近い程綺麗になっていた。布地もピシッとしている。いつも適当に洗濯して適当に干しているから殊更変化が分かりやすい。使いすぎて色も少し褪せてしまっていたのにこんなに綺麗になるなんて。
「タオル、俺が使ってる時より綺麗になっている気がします。本当にありがとうございます」
「…いえ、お借りしたものですから」
受け取ったタオルをカバンに仕舞うと再びイングリッドさんに向き直る。これで目的は達成した。タオルを受け取った時点で彼女との細い糸に等しい繋がりはほぼ切れかけていたのだ。それが完全に切れてしまった。何を残念がることがあるのだろうか。俺みたいなつまらない奴が一時でも夢のような時間を体験できたのだ。この時間が終わってもいつも通りの毎日に戻るだけ。彼女のことは名前と職業しか知らない。比較的近所が生活圏と分かってはいるが、それしか分からない相手と偶然出会う、そんな小説みたいなことは起こらない。ここで彼女との繋がりは切れる、これは確定事項だ。下手に未練がましいと思われないように早く別れた方が良い。
が、どう切り出すべきか。「では、ありがとうございました、さようなら」「どこかでお会い出来たら」…駄目だどれもしっくりこない。どうすれば相手に不快感を抱かせることなくこの場から立ち去ることが出来るのか。
『あなたみたいなつまらない地味な男、目的がなければ近づくわけないでしょう!』
「…キールバルトさん大丈夫ですか、顔色悪いですよ」
「え」
気づかないうちに俯いた俺を心配し、彼女が俺の顔を覗き込んでいる。至近距離に彼女の顏があったことに驚いた俺は飛び跳ねるように彼女から距離を取る。その俺の反応に一瞬傷ついたように眉を下げる。彼女は自分が顔を近づけたことを不快に思い後ずさった、と勘違いしている。ま、まずいと慌てて説明する。
「あ、すみません、イングリッドさんの顔が近くにあって驚いてしまって…」
しどろもどろに弁明する俺を見てイングリッドさんはホッとしたように笑う。
「そうだったんですね、てっきり引かれたのかと」
「引く?」
この文脈からすると「ひく」は「引く」だろう。どういうことだ。彼女が俺に対して引くというのはまだ分かる。そういう言動に心当たりがあるからだ。だが俺が彼女に対して引く、というのは分からない。何をどう思ってその結論に達したのか。イングリッドさんは自嘲気味に口を開いた。
「助けて貰ったお礼と言って食事に誘った時も、タオルを洗って返すからまた会えないかと訊ねた時も前のめり過ぎたのかもと反省していたんです。私が強引でキールバルトさんが断れなくて迷惑しているのではないか、と心配で」
ああ、そういうことか。確かに清楚な外見と違いグイグイ来る人だなぁ、と意外に感じてはいたが、だからと言って迷惑だと思ったことは一度もない。それに俺は優柔不断で流されやすい性格なので、彼女のように話を引っ張ってくれる人の方がどちらかというと会話をしていて楽だ。
彼女は俺がどう感じているのか不安に思っているようだった。
「迷惑だなんてそんなことありませんよ。正直イングリッドさんのような綺麗な方と食事に行けて舞い上がっていましたし」
「え」
「え?」
彼女の紫水晶の瞳が大きく見開かれ、数度パチパチと瞬く。あれ、俺は今何と言った。今しがた自分の口から発せられた言葉を脳内で反芻する。自分が何を言ったのか気が付くと顔から血の気が引くのを感じた。ついさっき昔の事を思い出してしまい、イングリッドさんにも指摘される程顔色が悪くなっていたらしいが、恐らく今の俺の顔色はさっきの比じゃない程真っ青になっているはずだ。
何が「酔うと思ったことをそのまま垂れ流すから注意しろ」だ。酒関係ないじゃないか!と心の中で叫ぶ。自分の厄介な癖、がここで新たに一つ判明してしまい頭を抱えたくなる。
いや、待て、と急に冷静になる。男が女性に対して言う「お綺麗ですね」は社交辞令の一つである。その上、彼女はこの美貌。綺麗だ何だという言葉は耳に胼胝ができるほど聞かされているに違いない。だから俺の言葉もただの挨拶として受け取ってくれるだろうと期待していた。
が、俺の期待に反し彼女は両手で顔を覆うと、少し俯き顔を逸らした。サイドに垂らした髪から覗く耳は仄かに赤い。
あ、これ本当に照れている。マジか、と俺は唖然とした。てっきり綺麗だ美しいだと容姿について好意的に言及されることが多く、慣れていると思っていた。が、この反応を見るにその可能性は低くなった。というかそんな反応をされるとこっちも照れてしまう。恥ずかしさから目がみっともなく泳ぐ、彼女に見られていないのはせめてもの救いだ。だが、俺は自分の厄介な癖その②をすっかり忘れていた。
「あ、あはは。今日タオルを返してもらったらもう会えないと思うと本当のところ寂しいなと」
そう、焦るっても思ったこと(口に出したら恥ずかしいことも含む)を口走るということを。
「じゃあこれからも会えますか」