10話
そう、思っていたのだが。
「先輩、例の彼女さんとはどうなんですか、というかいい加減名前教えてくださいよ」
早いもので現在7月頭。読書、勉強目的ではなく涼むために図書館に足を運ぶ利用客が急増している今日この頃。こちらとしては静かに、他の人に迷惑をかけない限りはどのような目的を持っていようと関係ない、大事な利用者様だ。
特にトラブルもなく、時刻は閉館一時間前の18時。館内の人の数も少なくなっており、俺はフレーズと共に書棚の整理をしている。カートを押しながら順番に棚に本を仕舞っていく。俺と2人で担当になったからか、先ほどからフレーズは小声でこう訊ねてくる。なし崩し(館長がバラした)にイングリッドさんとのことを知られてしまったため、時々彼女とはどうなのか、と興味津々といった様子で聞いてくる。その度に偶に公園で酒を飲むだけでただの友人、と伝えているのだが「それって友達なんですか?」と問われる。「…多分」と俺も疑問形で応えるしかない。俺自身が良く分かっていないからだ。
…?そう言えばフレーズに彼女の名前を教えていなかったか。だからこそフレーズはイングリッドさんのことを「彼女さん」と呼んでいるのだが。当初は言われる度に否定していたものの慣れと言うものは恐ろしいもので気にする事も無くなっていたのだ。まあ名前を教えても問題はないだろうが、ここは図書館。どこで誰が聞き耳を立てているか分からない。彼女は宮廷薬剤師の上にあの美貌。まことしやかに噂になっていてもおかしくない。むやみやたらに公共の場で名前を口にするのは憚られる。友人からは「お前のそれは慎重を通り越した別の何かだ」と呆れられたことがあるが、名前という一つの情報から良からぬことを企む人間がいないと言い切れるか。答えは否、だ。
俺はカートを文芸書の棚の前で止め、カートの動くスピードに合わせていたフレーズも立ち止まり俺の顔を見上げてくる。彼女の黒い瞳には「期待」の二文字がありありと浮かんでいる。分かりやすい奴だ。
「今仕事中」
短く応えるとまたカートを押す。フレーズの表情は分からないが、付いてきていないところを見るに落胆して立ち尽くしているのか。いや、仕事中にペラペラプライベートの話をするわけがないだろう。ましてや少ないとは言え人の目があるのだ。「あの司書は業務中に私語をしている」とクレームを入れられるのは面倒くさい。
今日は何の予定もないし、これまでの彼女との交流も相まって最近の俺は調子と機嫌が良い。後輩の望む話を聞かせるのもやぶさかではないという気になっている。驚くべきことに数ヶ月経っても彼女との「友人」付き合いは続いているのだ。たまに夢でも見ているのかと錯覚するが頬を抓ると痛いので現実なのは間違いない。俺は誰も見ていない(恐らく)のを良いことにこっそりとほくそ笑む。…我ながらキモイ。いかんいかん、仕事に集中と邪念を振り払い残りの本を棚に仕舞うためにカートを押し進める。
「先輩滅茶苦茶浮かれてるじゃん…」
背後で俺のニヤリとした笑みを意図せず目撃してしまった後輩の呆れた声は、当然ながら届かなかった。
「先輩待ってましたよ」
「…」
更衣室から出るとフレーズが仁王立ちで待ち伏せていた。
「今日こそは彼女さんとのこと詳しく聞かせて貰いますよ」
「人を指さすな、そして彼女じゃない」
ビシっと俺を指さすフレーズの右腕をグイ、と下におろす。
「じゃあお名前教えてくださいよ、そうじゃないと『彼女さん』と呼ぶしかないんですけど」
不服とばかりに口を尖らせる。フレーズの言うことは正論であった。それにこれ以上はぐらかすのも限界が来ているのも事実。面倒くさいとばかりに嘆息して彼女に向き直る、前に首を左右に動かし、周囲を確認し始める。俺の不審な行動を訝しげに見るフレーズ。
「急にどうしたんですか、やっぱり頭打ったんですか」
「違う、館長がいないか確認しているんだ」
『やっぱり』の部分について詳しく聞きたかったが、今は置いておく。それより館長だ。神出鬼没な館長の事だ、どこかで聞き耳を立てているに違いない。後ろから俺の肩を抱き「俺も混ぜろ」と乱入してくるはず、と予想していたのだが。周囲はシーン、としており人の気配はない。
「館長ならさっき出口に向かうのを見ましたけど、帰ったんじゃないですか」
「…」
何だ、館長いないのか。ホッとしたような、残念なような複雑な気持ちになった。いや、いない方が楽でいいのだが。俺が微かに眉を下げたのを目ざとい後輩は見逃さなかった。
「…まだ時間経ってませんし私探してきましょうか」
物凄い勢いで首を横に振る。後輩に気を遣われてしまった。何とも言えない雰囲気が更衣室前に漂う。それを振り払うようにフレーズが両手をパチンと叩く。
「まあ、とにかく。ここで立ち話もアレですしとりあえず外に出ますか。何ならご飯でも行きますか」
軽い調子で食事に誘われた。本当に一年前とは大違いだ、と胸が熱くなる。同僚との会話もままならなかったはずなのに、人の成長には目を見張るものがあると再認識させられる。
フレーズは言った直後、しまった、と言わんばかりに右手を口元にやる。
「後輩の女子と2人で食事何て彼女さんに悪いですよね、やっぱり館長探してきましょう」
「彼女…いやイングリッドさんとはそう言うのじゃないから、食事くらい」
「イングリッドさんとおっしゃるんですか、かっこいいお名前ですね」
目を輝かせるフレーズ。彼女の名前は「リリア」、かっこいい名前に憧れでもあるのだろう。…あ、違う。
「イングリッドは名字、名前はアリシア…?」
何故か後輩が信じられないものを見る目で俺を見てくる。そんな顔をされるようなことを口走った覚えはないのだが。
「…まさか名字で呼び合ってるんですか」
肯定の意味で頷くと「…マジか」と消え入りそうな声で呟く。
「まあ先輩ですし、それは今は置いておきましょう…ん、アリシアさんの名字はイングリッドで合ってますか」
俺ですら口に出して呼んだことのない彼女の名前をフレーズが呼んだことに対し多少モヤッとするが、イングリッド、に聞き覚えがあるのか顎に手を当て考える仕草をするフレーズの様子を前にすると、些細なことだと頭の片隅に追いやる。イングリッド、と言う名に俺は聞き覚えがない。一応国の有力貴族の名前は頭に入っているが、その中に名前はない。
暫し考えたフレーズは「あ!」と急に思い出したのか大声を出す。思わずビクッ、と反応してしまうがフレーズは気づいていない。
「イングリッドってイングリッド商会に関係ありません?」
「関係ありません?と言われても、全く知らん」
きっぱり言い切った俺に対し、呆けていたがすぐに「まあ『友達』の家の事詳しく聞きませんよねえ」とブツブツ呟き、はあ、とため息を吐いた。
「イングリッド商会って王都を拠点に鉱石から服飾まで幅広く…これは今関係ないですね。先輩、スコット伯爵家はご存じですよね」
「俺を見くびるな、流石に知っているぞ」
ふふん、と鼻を鳴らすが別に誇れる点は一ミリもないことに気づかない。フレーズは特に突っ込まない。スコット伯爵家現当主は宰相閣下の任についており、その息子のルーデンス・スコットは王太子の側近を勤めている。国王陛下の子供は王太子ただ一人なので、余程の事がない限り王太子が次の玉座につくのはほぼ確定している。今の貴族社会はどうやってスコット伯爵家に取り入るか、と腹の探り合いで騒がしいと兄(長兄)が話していた。だが親子ともに潔癖な性格で、上手い話にも一切乗ってこないと手を焼く貴族が後を絶たない、とも。
しかし、フレーズが言いたいことが分からない。
「スコット伯爵家と何の関係があるんだ」
「関係と言いましても、スコット伯爵家夫人の実家がイングリッド商会ってだけですよ」
だけ、というかサラッと重要なことを言ったな。イングリッド商会は伯爵家の後ろ盾があるとうことか。それなら貴族相手の商売もやりやすいだろう。いくら財を成していても「所詮平民」と見下し相手にしない貴族は多い。だが「あの」スコット伯爵家と親戚関係だと知ればそんな傲慢な態度を取れる人間はまず居ない。未来の国王陛下の側近と現宰相閣下に睨まれ、自分の首を絞めるような愚行を侵したくないはずだ。




