13
中身真っ黒王子
恐怖心で忘れかけていましたが、ユリウス殿下は、次期国王候補です。
そんな方に暴力を振るって良いか。もちろん良くありません。場合によっては不敬罪が適用されます。
直前の不穏なやり取りと衝撃音に嫌な予感がしないはずがない、かといって目を逸らす訳にもいかない。
視界を覆っていたものを恐る恐る外した私の目に飛び込んで来たのは――しかし予想とちょっと違って――何故か二人揃って床に手を付き片手でおでこを押さえている光景でした。
廊下には私以外の観客がおります。忙しい方以外皆足を止めて一連の流れを見ていたのでしょう。嫌なほど静まり返ったこの場でもヴィルフリート様の落ち着いた“言い訳”はよく聞き取れました。
「殿下、申し分けありません。直前で止めるつもりではあったのですが」
まるで事実とばかりに淡々と述べる彼に躊躇いなど見えない。
……いや、素知らぬ顔で仰ってますが、直前に歯食いしばってと言っていましたよね?
対する殿下も殿下で気にしていない風を装って、しかしこちらは若干引き攣った笑みを浮かべながら「なるほど? まあ誰にでも手違いはあるよね」なんて言ってのける。
恐らく、この場を平穏にやり過ごす為の、“お互い事を大きくする気はない”アピールなのだろう。
通りすがった人々も、ぼちぼちこの場を離れ始めていた。
どれくらい経った後だろうか、
ヴィルフリート様が座り込んだままの私から上着を受け取りながら、もう目をつむらなくて大丈夫か、自ら立って歩けるのか云々と声をかけてくれた時。
不思議と立ち上がって歩けるようになっていました。
窓に映る自分も人の形を取り戻し、段々とぼんやりした色の世界に戻ってきています。
――そう、どっちもユリウス殿下が床に手を付き呻いている姿を見た辺りから段々と。
しばらく彼には近づかない方がよいのではなかろうか。
なんて大失礼に当たる事は口が裂けても言えませんが!
でも彼に変な言葉を囁かれ、直後に見たあの姿が私だと言うのなら、獣と呼ばれるのも理解できなくはなかった。
あれは私が知らなければならない事だ。牢屋に戻るのは嫌だな、と思う傍ら、もう一度行かなければならないのではと思う自分がいる。
多分、私はこの件からもう逃げられない。足下がふらつく事はなくなったが、代わりに重い鎖を足首に括り付けられたようだ。
私が思考の泥沼に再び足を引きずられそうになった時。
引き攣った笑みを消した殿下がヴィルフリート様の肩に軽く手を置き、そこに逃がさないとばかりの力を込めた。
「そう言えばヴィルに用があったんだけど、一緒に部屋に来てもらえるかな?」
殿下もこれで終わらせるつもりはなかったようである。
***
扉を開いた瞬間に目に飛び込んでくるのは雑多に積まれた書籍と書類の山。生活感のないそこは殿下が日々勉学や簡単な業務で使う部屋である。
私には出入り口に待機させたマーサと合流して帰る選択肢もあったけれど、一応二人の付き添いという形で同席し、事の成り行きを見守ることにした。
なんと言ったって自分が巻き込んだようなものだもの……、ヴィルフリート様にこっそり謝ると「何故」とばかりに首を傾げられたけれど。
自室だからか若干荒々しい動きで、黒い革張りのソファにどっかりと腰を下ろし身を委ねたユリウス殿下。
その顔にはいつもの微笑は影もなく、痛みを堪える苦悶の表情が浮かび上がっていた。
「いったいなーほんと……」
一方ヴィルフリート様はと言えば、水差しの水を頂戴してハンカチを濡らし殿下のおでこへと乗せている。殿下と一緒におでこを押さえていたはずなのに、彼の表情は至って平静だ。
「拳や蹴りなら躱せると思ったのに、頭突きとか……」
「躱されたら意味がないと思いまして。それにあの場で一方的な暴力はいけない……と考えた末の痛み分けです」
「……まぁ、人目があったよね」
軽口をたたき合う二人は思っていたより冷静さを貫いている。
そのすぐ後、水を汲むような素振りで手に取った水差しを自身のおでこに当てたヴィルフリート様の姿が見え、慌ててハンカチを差し出した。表情に出ないだけでやはり彼も痛かったのである。
「殿下は石頭です」
「あの場で顔色一つ変えないヴィルに言われたくはない」
二人でちらと睨み合い、お互いに溜息を吐く。先日の会議室の一件から感じていたけれど、この二人は主と臣下というより友人同士と言われた方がしっくりくる。確か年もそう変わらないだろう。
「お二人とも仲がいいですよね」
つい口から出てしまった言葉に二人の「そうかもしれない」という反応が重なった。
「幼馴染に近いかもね。俺たちと、あとマリーは年が近いからという理由で会う機会が多かったかな」
「マリー様?」
「ハウトスミット家の令嬢だよ。マリアンナ・ハウトスミット。今度例のお茶会で会うんだろう?」
問いかけると同時、ソファの上で天井を見つめていただけだったユリウス殿下の瞳がこちらに向けられてどきっとする。
楽しそうに揺らめき輝くブルーエメラルド。数多の令嬢はときめきの意味でこれに心臓を持って行かれるそうだが、私にはここ数日と先刻の体験の蓄積から恐怖しか見いだせない。
物陰に隠れようと視線を彷徨わせていると、今度はヴィルフリート様の落ち着き払った石榴色の瞳とばっちり合った。
二人共見目が整っているせいで目が合うと一瞬ビクついてしまうのだけど、皆これを見返すのですかすごいですね。
彼の観察力が高いだけなのか、ただ単に私が分かりやすいだけなのか、私と殿下を見比べたヴィルフリート様は私達の間に一歩進み出た。
「本当にアリシア様と殿下の間に何があったのですか。かの女性に無理矢理引き合わせたのは分かりましたが、それ以上に殿下が怖がられているような気がしてならないのですが……」
「さっき言ったでしょ。調査に不可欠だろうものを確認させてもらったんだよ」
「……調査に不可欠だろうもの?」
「これ以上は機密事項だよ」
人差し指を立ててしーっというジェスチャーを取る殿下。ヴィルフリート様はその姿に何を思ったのか分からない、ただ肩を落して溜息を吐いていた。
やらかした、私の挙動で空気を悪くしてしまった……。殿下は真っ黒、ヴィルフリート様の色は全く見えない、ここはパーティー会場ほど複数の感情が入り交じってる訳ではないけれど、会話の表情が変わる原因を作ったのは私ではないかと、つい自責の念にかられてしまう。
もちろん考えすぎかもしれないけれど。
「すみません、確か苦手でしたよね、こういうの」
斜め前に立つヴィルフリート様がこちらをちらと確認してから謝る姿が追い打ちとなって、胸の辺りに痛みを発した。心の強度が欲しい今日この頃である。
「俺から話す事はしないけど、アリィから話す分には口出ししないよ?」
ユリウス殿下がさらりと口にした単語の意味が分からず間が空くこと数秒。思わず「は?」と口に出しかけたのを慌てて堪えた。ヴィルフリート様を挟んで向こう側に見える男はくすくすと邪悪な笑い堪える素振りを見せている。
「アリィ?」
と言いながら首を傾げるのは間に立つ黒髪の彼。
「いや、アリシア嬢の事を今度からそう呼ぼうかなって」
「え、いやです」
「ひどいなー俺からの親愛の印だというのに」
なんだろう。何故こんなにも殿下にはからかわれる? 少しばかりの申し分けなさを抱えつつ、ヴィルフリート様の背中を借り、その陰から殿下を睨みつけた。彼が持つ物静かな美人寄りの雰囲気とは別物のしなやかだが鍛えられているたくましさを感じるその背中。持ち主の彼は相変わらずの無反応であるが、だからこそこの体勢が許されているように錯覚する。
とにかくこの親愛、絶対受け取りたくない。
ユリウス殿下は尻尾のようにくりんと丸まった金の髪の端を片手で弄びながら「面白い光景だね」なんて笑い混じりに言い放つ。
「いーよいーよ、是非俺を嫌って?」
「なっ……」
自ら嫌って欲しいと言うとはどういうことか。言葉に詰まった私は、殿下の背後にまた哀しみの色を見た。
そして、ばちんっ――と頭の端で何かが弾けたかと思えば、牢屋で見た黒い鎌の形をした心がまたもや彼ののど元に突きつけられる映像を目の当たりにする事になる。
「――それでいつか、俺をこの地位から引きずり下ろしてちょうだいな」
瞬間、背筋がぞわりとして反射的に目をつむる。
けれどどれだけ強くつむっても、彼から流れ込んできた感情の一滴が、私の内部に黒い染みを広げていく。
見たくない。
聞きたくない。
「ユーリ!!」と、鋭い声を上げたのは多分ヴィルフリート様。
この時何もかもにひたすら驚くばかりだった私は何も発する事ができなかった。
ただ気付いたら彼の背中の気配が消えていて、それが心許なく感じて、結局怖々目を見開くのだ。
まあその先では情けない顔で頬つまみの刑を受ける金髪少年の姿があったのだけど。
今の恐怖体験は何だったんだ、という感想しか浮かばないのですけど。
しかも、これ、あれだ、セレスティナ様が息子に対して行っていたやつ。
緊張の糸が弛緩してまた色の世界に戻れば、耳に届くのは殿下のゆるゆるした声音であった。
「そんな怒らないでよヴィルー」
「また寝てないんでしょう。だからそんな悲観的な思考に陥るんです!」
「んーそうなのかなーまいったねー」
頬を抓られている状態のせいか、ふにゃふにゃとした声。
けれどその言葉の裏側にはまだ黒いものが見える。私の目はユリウス殿下から自然と離れた。
獣ほどの衝撃ではなかったものの、今のも当分見たくないと強く願う。再び見れば自分の心が揺さぶられて同調して侵食されてしまいそうなのだ。
彼の身を浸す黒い染みは自身を汚し、だから罰せられろと甘く囁いていた。
あれは多分、破滅願望という奴だ。
「あ、そうだ、アリィにこれを返さないとね」
ぽすぽすと絨毯を踏みしめる音が私の立つまん前で止まる。ユリウス殿下との距離は縮み彼がすぐ傍に立っている事を理解していながらも、私は顔を上げる事はできなかった。
「手を出して」と務めて優しい声音で囁かれてようやく手を出せるくらい。
片方の手袋が外れたままの両手を前に出すと、素手が出ていた方に何かが置かれた。
よく見知った、私の手袋である。
「返そうと思ってたんだけどタイミングを逸してしまっていてね」
「……そうですか」
手袋を握る私の素手は、人間の形をしている。でもきっと、ぼんやりと見えている色が鎌の形を持ち得るように、ピントが合えばこの手も獣の手に見える可能性があるのではないか。
素の手を白く覆い隠して、やっと少しの安堵を得た気がした。
「何しているんですか、あなたは……」
少しの間を置いて私達のやり取りを横からのぞき込んできたヴィルフリート様、その背後に回ってしがみつくと、殿下は楽しげにふふと笑い声を漏らした。
「あのね、ヴィル。彼女たちの一族は感覚から得るものが膨大なんだ。力の形は違えど根本は同じ。そして触れる事で得るものはより豊富だという事も同じ」
話を聞くヴィルフリート様の顔はここからでは見えない。彼の背を覆う上着は今日も真っ黒で全ての色を吸い取り、隠し、何も情報が得られない。
彼は何も言わず、有り難い事に拒絶もしない。
だからこそ、落ち着ける。
「ちゃんと準備はできたようだ。じゃあ情報収集、よろしくね」
そんな私の姿を、金色の悪魔は楽しげに眺めていた。
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bkmありがとうございます!
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