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S級指定討伐種 "業魔"

「……終わりだ。俺を恨むなよ」


 男はそう強がりながらも、この世の終わりでも見ているような絶望の表情でガチガチと歯を鳴らしている。


 リノアはそんな男の声を聞きながら、眼前の巨躯を持つ魔物から一瞬も目を離せない。


 ソイツは突然現れた。

 奇襲するでもなく、背後から忍び寄るでもなく。

 ただリノア達の目の前に堂々と姿を現した。


 全身を硬質な灰色の体毛が覆い、異常に発達した胸筋と腕の筋肉がその剛力を物語っている。

 顔は真っ白な細毛が生えており、口は見えず、真っ黒な生気の無い瞳がリノアを見据えていた。


 時折ピクリと首を傾げリノアを観察するように見ては、ギギギと小さな声を発する。


 そして目を引いたのは巨腕の甲から伸びている巨大な鉤爪。

 リノアの身長ほどもあるその巨大な鉤爪には、犠牲になった冒険者のもと思しき血がべっとりと付いている。


 その魔物について、ギルドの魔物名鑑にはこう書かれている。



 ――その体躯は強靭無比。半端な刃では傷を付けることすら困難を極める。腕力は一瞬で人体を粉々にすることも容易であり、特徴的な鉤爪は飛竜の鱗ですら容易く貫く。異常な残虐性と知性を持ち、1度狙った獲物は必ず仕留める。A級以下は逃げに徹せよ。間違っても戦うなどと考えるべからず――

 生息地――【絶界の大森林】


 その悪魔は人の業を感じ、現れるという言い伝えがある。

 故に

 "業魔"。

 それが眼前の魔物の名前である。


 リノアは男からこの魔物の話を少しだけ聞いていた。


 恐ろしく狡猾で残虐、そして戦闘狂であるとも言われていると。

 男は町のギルドで最高のC級冒険者であるという。

 無論彼の仲間もそれに準ずるか近しいランク帯のベテラン冒険者達であり、それらが数秒で壊滅する程の正真正銘の化け物であるらしい。


 業魔は自身の強さに自負があるのか、襲おうと思えば死角からいくらでも襲う隙はあっただろうが、律儀にも道を塞ぐようにリノアの目の前に着地したのだ。


 まるで待ってやるからさっさと戦いの準備をしろ、と言ったように。

 何を考えているか分からない真っ黒な瞳でジッとリノアを凝視している。


 ノノが背中でリノアの服を思いっきり握りしめている。

 弱々しい力だったが、今のノノにはそれが精一杯である。

 顔を悲壮に歪め、怯え、目には涙が見える。

 そんな今にも気絶しそうなほど憔悴しきっているノノだが、縋るようにリノアへ何かを訴えかけている。

 だが、それは声にならない。


 ノノが何を伝えたいのか、リノアはちゃんと分かっていた。

 ノノが一方的に言ってきた"約束"を守れと、そう言いたいのだろう。


 まるでこの状況を予期していたかのような忠告。

 ノノは最初からこうなることを分かっていたのだろうか。

 仮にそうであればノノはリノアへもっと具体的な危険を示せていたはずだ。

 ならばこの状況はノノの知り得なかった状況なのだろうか。

 いや、ノノは単に自分が足手まといになったら逃げろと言っただけだ。

 敵が現れることを想定して警告した訳では無い。

 ただノノが言っていた危険な状況がたまたま現実となっただけだ。

 ましてやこんな森の浅瀬で、業魔などという凶悪な魔物と遭遇するなど誰が想像できようか。


 それも狙いすましたようにたまたま通り掛かった冒険者を狙ってこんな辺境にいるはずのない業魔が現れるなど、まともな状況ではない。


 おかしい。

 考えれば考えるほどおかしい。

 あまりにも出来すぎている。


 リノアはそう思わざるを得ない。


 だが今はそんな事を考えている暇はない。

 目の前の魔物はそんなこっちの都合など知ったことでは無いだろう。


 リノアは男とノノを下ろし、鉄剣をローブから引き抜いた。


 それを見ていた業魔はどこか嬉しそうな声を上げ、興奮したように身体を震わせている。

 逆立つ銀毛。

 鋭くなる黒目。

 業魔は今にもリノアに飛び掛かろうと鉤爪を交差するように眼前に構える。


 リノアはそれを見ながら鉄剣を正面に構え、未知の敵と戦う際の常套手段として、剣先を地面と水平に業魔へと向ける。

 この体勢が一番多くの攻撃に対応しやすいからだ。

 恐らくは鉤爪で攻撃してくるのであろうが、そうとは限らない。

 業魔の腕力と体躯はリノアを遥かに凌駕しているのだ。

 ゆえにリノアにとっては、業魔全身が致命傷となりかねない武器にも等しい。


 どこを狙ってくる?

 正面から心臓を狙ってくるか?

 いや、確実な頭を潰しにくるか。

 それとも弄ぶように四肢から少しづつ痛めつけてくるだろうか。


 いずれにしてもどこを狙われてもリノアは一撃で致命傷となるだろう。

 まずは業魔が何をしたいのか。

 どういう意図を持って正面から現れたのか、それを見極める必要がある。


 業魔が片脚を下げた。


 リノアが鉄剣を構える。


 そしてその瞬間、業魔は消えた。



「ガッ……!」


 何の予備動作も無かった。

 少なくともリノアはそう思っていた。


 業魔はただ軽く片脚を下げただけにしか見えなかった。

 よもやそんなものがこちらへ詰めて来る動作とは思いもよらない。


 自分に何が起きたのかわからない。

 ただ気がついた時には自分の持っていた鉄剣の腹が自分に猛烈な勢いで激突していた。

 そして遅れて来た息も詰まる程の衝撃。

 リノアは情けない悲鳴をあげる他ない。


 意味が分からない。

 業魔は何をしたのか。

 自ら鉄剣を動かすことすらできなかった。


 肺の空気が無理やり一瞬で外へ弾き出されるのを感じる。

 同時に、そこでやっと自分が宙に舞っている事に気がついた。


 そして目端に捉えたのは蹴りを終え、振り上げた脚をこちらへ向けている業魔の姿であった。


 蹴られたのだ。

 鉄剣もろとも正面から。


 それを理解するのですら時間を要する。

 そんな常軌を逸した不可視の一撃だった。


 リノアはそのまま地面に叩き落とされ、滑るように転がっていく。

 何度も何度も身体を打ち付けられ、そんな中でも必死に頭だけは守るように身を屈める。


 ようやく蹴られた余波が止まり、大木の側で停止する。


「ゲホッゲホッ……ガハッ!」


 途端に堰を切ったように空気が喉を痛めつけ、肺が悲鳴を上げているのを感じる。

 続いて吐血が目の前に吐き出され、転がっている鉄剣にぶちまける。


「ぐっあああ……!」


 遅れてやってきた苦痛。

 肋骨、左手首、右足付け根、そして耳。

 激痛がした左耳を抑えると、取れかかっているのかプラプラと揺れながら血を吹き出している。


 激痛、そして激痛。

 全身様々な箇所がリノアの脳内に警鐘を鳴らし、被害が甚大である事を伝えている。



 たったの一撃。


 それも業魔にとって最も攻撃力が低いであろう蹴りであった。


 そんな試すような蹴撃。

 オマケにあたかも狙いすましたかのようにご丁寧な鉄剣の上からの一撃であった。

 それはつまり、蹴りはリノアの身体に直撃すらしていないのだ。


 業魔は意図的に鉄剣で蹴りを防がせ、リノアを測るように攻撃を加えたのだ。

 そもそも先程の蹴りが業魔の本気であるかすら怪しい。

 業魔にとってそれはもはや攻撃ですらなく、少し小突いただけに等しいものであったのかもしれない。


「がああぁぁ……くそっくそっ! ぐっ……」


 リノアは痛みに悶えながら歯を噛み締めていた。


 リノアは完全に舐められているのだ。

 遊んでいる。

 嬲られている。

 今の一撃でリノアは理解した。


 なぜこんな化け物を相手に何とかなると思ってしまったのだろうか。

 相手にすらなっていない。

 あまりにも生物としての格が離れすぎている。


 勝てるわけがない。

 剣を振るうどころか相手の動きそのものが全くと言っていいほど見えない。


 殺される。


 リノアは恐怖と絶望で顔を歪める。


 業魔は吹っ飛ばされたリノアを見ても特に追撃しようとはしてこない。

 最初にリノア達の前に現れた時と同様、直立不動でジッとリノアの様子を見ている。


 しかしやがて少し首をかしげると、ダランと両腕を下げたまま、先程の様に片脚を少しだけ下げる様な挙動を見せた。


(来る……!)


 リノアは咄嗟に鉄剣を拾いあげ、満身創痍の身体を引きずるように持ち上げる。

 そのまま崩れるように地を蹴る。


 次の瞬間、リノアが倒れていた場所にまたしても強烈な蹴りが放たれた。

 それは僅かにリノアへ掠り、そのまま後方の大木へ叩き込まれる。


 耳をつんざくような衝撃音が響き渡った。


 業魔の蹴りは大木を難なく突き破り、木片を辺り一面へブチまける。

 余りにも圧倒的な暴力の塊。

 そんな一撃を軽く繰り出した業魔はチラリとリノアを見た。


 リノアは今の業魔の蹴撃が左腕を掠り、肘から下を喪失していた。

 千切れたと言うよりは、まさに無くなったと言った方が正しいだろう。


 業魔はそれを見ても特に表情を変えることは無い。

 ただ玩具を少しずつ分解していくような、目の奥にそんな歪んだが何かが垣間見える。


 罪悪感。慈悲。戸惑い。

 黒ずんだ瞳がそんなモノは最初から一切持ち合わせていないと主張している。


 殺戮と暴力。

 そこれこそがこの生き物の本懐であると言わんばかりに。

 業魔は悪魔と揶揄されてきた化け物の本質を見せびらかしてくる。



「がぁぁぁああ!」


 リノアは叫ぶしかなかった。

 そうしなければ恐怖と痛みで狂ってしまってもおかしくないからだ。

 左腕を失った痛みでのたうち回りながらも側にあった鉄剣を見つけ、飛びつくように握りしめる。


 そしてリノアはへたり込みながらも残った右腕で剣先を業魔へと向ける。


 リノアを見ながら業魔は不思議そうに顔を傾げる。

 この弱小な生物はまだ自分に刃を向けるのか、と。


 圧倒的な力の差を見せた筈である。

 痛みも死なない程度に強烈なのを叩き込んだ。

 なのに目の前の玩具は壊れてくれない。


 他の玩具達はすぐにでも泣き喚いて命乞いをしてきたというのに。

 なぜこの矮小な生き物はまだ沈まないのか。


 業魔は理解できない。



 大と小。

 二対の決闘者は距離にして2メートル。


 そんな眼前の悪魔を、リノアは前髪の間から睨みつける。


 酷く貧弱でボロボロの薄汚い剣。

 ガタガタと震える腕。

 そんな自分が抗った所でこの化け物には何の意味もない。

 そんなことは自分が一番よく分かっている。

 だけど何もせずにただ死を待つなんて事だけはしたくない。


 耐えることには人一倍の自信があった。

 今まで生きてきた中で、何度も折れそうになった。

 でもリノアは折れなかった。

 たとえ世界中の全ての人に貶められようと、蔑まれようと、リノアにはアリスがいたから。

 たった1人の自分の味方。

 だがそれが何よりもリノアを救ってきたモノである事は間違いない。


 たがら簡単には死んでやらない。

 目の前の悪魔に。

 殺戮の化け物に。

 一矢報いるまでは何がなんでも死んでやらない。

 そうでなければアリスに顔向けできない。

 自分の味方をした事を無駄と思われたくない。

 アリスを支えると言った約束は守れないみたいだけれど。

 謝ることもできないけれど。

 意地くらい通さなければ死んでも死に切れない。


 リノアは立ち上がる。

 折れた脚が悲鳴をあげる。

 だがそんなものを気にしている余裕はない。


 立ち、構える。


 剣先は相変わらず敵の正面へ。

 折れた脚を庇うように後ろへやり、少しでも動けるように体勢を整える。

 いつしか右腕の震えは止まり、剣先がピタリと業魔の胸へと向けられている。


 痛みはいつしか消えていた。

 正確にはまったく感じていない事は無かったが、それでもさっきよりはマシになった。


 業魔はそれを一切挙動せず見ている。

 至近距離だ。

 業魔がその気になり数瞬腕を振るえばリノアは一瞬で肉塊になるだろう。


 だが業魔は腕を振るわない。

 理解できないから。

 折れてくれない目の前の矮小な生き物を理解できない。


 弱い。

 目の前の生物は明らかに弱い。

 少しばかり力を入れただけの、自身の最も弱い攻撃である蹴りで、この生物は間違いなく多大な傷を負ったはずだ。

 間違いなく、自分より遥かに戦闘力を持たないゴミのような存在だ。


 だから業魔はそこで腕を振るわなかった。

 簡単に終わらせるには惜しいと思ったから。

 こんな珍しい生物との闘いを小手先で終わらせるのは勿体ない。

 業魔はそう考えた。



「……は?」


 リノアは信じられないモノを見るかのような表情をしていた。


 至近距離で佇んでいた筈の業魔が急に後方へ下り、自分と距離をとったのだ。


 リノアは業魔のその行動の意味がまったく分からなかった。

 これだけ実力に圧倒的な差がありながら自ら距離を開ける事になんの意味があるのか。


 業魔はリノアと20メートル程の距離を置き、リノアを正面に捉えている。


 リノアは逃がしてくれるのか?と少しばかり期待したが、業魔にそのつもりは無いようである。


 業魔はコキコキと首を鳴らしながら鉤爪を構える素振りをする。

 まるで今からいくぞと言わんばかりに。

 リノアにそれを見せつけるように。


 リノアはそれを見てゴクリと唾を飲んだ。


(ああ、そういうことか……。あれは業魔なりの正面から斬ってやるって意思表示なのだろう)


 リノアは身震いしながら鉄剣を握りしめる。

 左腕は使えない。

 右腕も骨にヒビが入っているようで、決して万全とはいかない。


 だが逃げる事はできない。

 あの業魔はリノアがこの場から逃走しようものなら何の躊躇もなくリノアを殺すだろう。

 リノアにはそれが確信に近いものだった。


 これから正面で斬り合っても結果は同じだろうが、どうせなら正々堂々と勝負したい。

 リノアはそんな事を考える。


(まあ、勝負になるとは思えないが……)


 リノアはそこで、この殺し合いが始まって以来初めて笑った。

 不敵に。

 そして愉快に。


 これから死ぬというのに、何がおかしいのかと自分へ語りかけたい気分だった。

 ついにおかしくなったのではないかと。


 この究極の状況が、少しづつ自分を変えていることが分かった。


 そしてチラリとノノがいる方を見た。

 案の定そこには顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしたノノがいた。

 こちらを呆然と見ては、リノアと目があうと顔を歪めてポロポロと新たに涙を零す。


 それは恐怖と後悔。そして叩きつける場を失ったかのような確かな激情。

 謝るように、今からでも逃げろと言うように。

 そんな複数の感情がごちゃ混ぜになった人の感情の極致を体現したような表情であった。


 リノアはそれを見て心の中で呟く。


(ごめん。何とかなると思ったけど無理だった。短い間だったけれど、君は俺にとってアリス以外でできた初めての仲間だったかもしれない)


 リノアは小さくノノへ微笑み返し、業魔へ向き直る。


 願わくばあの2人は見逃して欲しいものだと願いながら。

 まあそうもいかないだろうが。



 業魔が小さく声を上げる。

 ギギギといった特徴的な声だ。


 さしずめ決闘開始の合図と言ったところか。


 それを聞いたリノアはまた小さく笑う。


 そして息を一呼吸吐き出し、業魔へ言い放った。


「来い」と。




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