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孤高の冒険者

「――」



 左斜め下からの斬り返し。


 今迫りつつある攻撃の正体だ。


 分かってはいる。

 分かってはいるのだ――。


 音さえ置き去りにする真っ白な白刃。まごう事ない本物の殺意。首筋を一分の狂いすらなく確実に切り裂く為に計算し尽くされた、最も効率的な軌道。


 緻密で芸術的なまでに調整しつくされた剣の侵入角――。


 それはまるで、熟達した職人のように常人離れした身技。


 そんな剣技に驚愕を覚える自分がいる一方で、リタのあまりに美しい剣操に感動すら覚えている。

 だがそのリタによって、今まさに自分は殺されかけている。


 何がきっかけとなったか――。そんな事は今更知る由も無い。


 あの押し付けがましい偏愛に狂った精霊王の事だ。

 余裕が無くなり焦っているのか。

 あえて抑えていたリタの実力を解放したとか、そんな所であろう。


 そう推測するのが自然だ。リタが纏っている気迫のオーラは、数秒前までのモノとは訳が違う。


 何と言ったか――。

 確かノノは、傀儡術がどうのと言っていたが。


 先程までのリタの散漫な動きは一体何であったのか。そんな疑問を覚える暇すら掻き消すように、リタの動きが豹変している。


 呼吸すら満足にする事のできない、息継ぎすら困難な時の中、リノアは未だに突破口を見出せない。


 業魔との戦いで失った左腕を筆頭に、満身創痍である全身はお世辞にも万全とは言えぬ状況。


 まともに縋る事ができるのは、鉄剣を握るボロボロの右腕一本。そんなふざけた状況で、彼女とまともに正面からやり合って無事で済むはずが無い。



「――!」



 慣性に逆らい、繰り出された攻撃に数テンポ遅れ、何とか鉄剣を防御に滑り込ませた。


 そのまま弾き返す事ができれば何の問題も無い。しかし、力を乗せる余裕も、態勢を整える時間もないのだ。


 反面、クルクルと中空で身体を翻し、重力と回転を意のままに操るリタの長剣は、その何倍をも威力を増している。


 速度も、威力も。


 そのどちらも、今の自分では彼女に追い縋るどころか、その背中すら垣間見る事が出来ていない――。



「――ッぐ!!」



 ――まただ。

 また、間に合わなかった。


 声になるのは悔しさと不甲斐なさを絡めた小さな歯軋り。そして僅かながらの反射的な声。


 意味のある台詞など喉から発する余裕は無い。頭に浮かんだ言葉、それらは例外なく、次々に繰り出されるリタの剣技の応酬に掻き消されていく。


 その技一つ一つは、どれも隅々まで舌を巻く程の技量が練り込まれている。

 リノアはそれらを正面から受ける以外の選択肢を持ち合わせていない。

 撤退という選択肢をことごとく潰されているのだから。

 技を一つ受けるたび、傷を増やしながら目を見張る事を繰り返している。


 左目の下。


 銀の線が残像を残し、置き換わるように薄く赤い線が刻まれる。

 皮膚を薄く切り裂かれたと言うよりは、肉を削ぎ落とされたと言うべきか。


 少しずつではあるが――、

 リタの剣が、速度と力を増しているのが分かる。


 ならばと、その速度に合わせて対抗する。

 だがリタは、それを見透かした様に緩急を付けて小さなフェイントを挟んで来る。

 勢いに任せ、安易に攻撃する事を選択していないのだ。


 そのタイミングと力の匙加減は恐ろしく絶妙で容赦の欠片もない。

 一体どれほどの対人戦をこなせば、ここまでの技術を得ることができるのか。


 ……何とも歯痒く、悔しい。

 左腕が使えず、体力も万全では無いというハンデはある。

 だがそれを言い訳にして免罪符にしたとて、殺される事実は変わらない。


 いや、万全でやりあったところで、果たして自分は彼女と対等にやり合う事ができるのか、正直なところ自信は無い。


 魔物ばかりを相手取って来たのがまずかったのだろうか。

 対人戦がここまで奥の深いものだとは思ってもいなかった。


 動き、急所、ワザ。

 泥臭い我流の対魔物剣術では、リタレベルの人間相手にはほとんど通用しない。


 ……認めるしか無い。

 今の自分では、本気のリタに対する実力が明らかに不足している。


 現に自分は先程から防戦一方の身。

 いや……、防御できているのかすらも怪しい。


 節や腱、急所などは何とか守れてはいる。

 しかし傷は目に見えて増えていくばかり。

 身体全身至る所に、薄く、短く、確実にダメージは身体に蓄積していく――。


 鉄剣と長剣。


 二対の白刃が散らす不規則な火花の中で。

 リノアは歯軋りしながら、少しずつ後方へ押されていく。




 ――計、18連撃。




 痛烈な剣撃を受け、眼前の鉄剣が手の内で暴れる。

 何クソとそれを押さえ込むと、遅れてキィンと甲高い音が耳を震わした。

 そこでようやく、リタの連撃が止んだのだと分かった。


 安堵したのも束の間、リタの後方に見える剣卓の火花が夜空へ消えていく。

 自分がどれほど押されているのか、一目で分かった。


 だが、リノアはそれ以上に、唐突に止んだ連撃に不可解なものを覚えていた。


 息切れか――、


 そんな甘い考えが一瞬頭を過ぎったが、涼しげな表情のリタを見据え、そんなはずは無いと浅慮を拭い去る。


 あのまま連撃を続けていれば、明らかに押されているこちらにいずれ綻びが生まれる。

 それは火を見るより明らかだ。


 その一瞬の綻び、即ち隙は、間違いなく自分に対する致命打に繋がる。

 そこに自分を討ち取る必殺の間が生まれるのは必定。


 眼前のリタとて、それは承知のはず。


 しかしリタは、そんな必ず訪れるであろう必勝の一瞬を捨ててまで、――()()()に間を置いたのだ。


 つまり……、

 連撃の先に待つ必勝の一瞬を凌駕する何かが。それ以上に自信のある"一撃"を持っていると言う事に他ならない。


 リタと共に業魔へ立ち向かったリノアだからこそ、それが何を意味するのか、瞬時に理解していた。


 そして同時に思い出す。

 純粋な剣技に。

 そんなものに舌を巻いている場合では無いことに。


 リタの本領。

 強さの本質。


 果たしてそれは何であったか――。


 剣技に目を奪われ、狼狽えている暇など始めから無かったのだ。

 そんな当たり前の事に、今更ながらに気付かされた。




 ――まずいな。




 そう小さく心の中で呟いた瞬間。リタの司る長剣が淡く光を放つ。


 背景を置き去りに、18連撃と言う並ならぬ剣技を見せ付けたリタ。

 彼女の身体は未だ、地面と平行に低重心を維持した不安定な体勢。

 魔技構築を終えた彼女は、長剣を腰に携える様に後方へ引き絞り――、



 ――【魔技:強振斬撃 中級】



 悪寒が背筋を過ぎった。


 理解するより先に、リノアは反射的に距離を取る。



 この型は――防げない。



 そう直感的に感じ取り、弾かれ、痺れていた鉄剣を取り戻すように握り締める。

 この辺りかと、自身の持ち得る勘と、真横で見てきたリタの癖や技を記憶している限りフル活用し、剣が振るわれる道を予測する。

 その道、リタの長剣の軌道と、敢えて水平に剣腹を晒す。


 リタであれば、必ず()()に剣を振るうはず。

 幾度と無く真横で彼女の剣を見てきたのだ。

 それはほとんど確信に近いものと言ってもいい。


 だが、それでも不安は拭えそうも無い。


 ぬらりと、汗がふく――。

 左頬からは真っ赤な鮮血が眼前に舞い、来たる攻撃に備えて歯を食いしばる。



 ――刹那、リタの長剣が残像を残して視界から姿を消す。



 風を切る音すら置き去りに、完璧な【強振斬撃】がリノアを襲う。


 自身の持ちうる極限。

 全ての神経を集中し、目を見開いて剣筋を探す――、だが、やはりと言うべきか――、剣腹は愚か、その残滓すら捉える事はできない。


 だが気づいた時には、リノアの鉄剣の剣腹を、長剣が薄くなぞっているのを感じた。

 火花を散らしながら、長剣が真下から迫っている。

 それを右手の感覚が僅かながらに感じとっていた。


 長剣の軌道は予測の範疇を超えていない。


 確信があった事とは言え、リノアは賭けに勝った事に少しばかり安堵する。


 だが、本当の勝負はここからである。


 その瞬間は、リノアがこの決闘において初めて反撃の糸口を掴んだ一瞬。

 無駄にする訳にはいかない。


 突き上げる様な衝撃が鉄剣の上から右腕を穿ち、遅れて高い金属音が響き渡る。


 剣柄と右腕が共振し、骨が軋む。

 相も変わらず無茶苦茶な腕力と胆力。

 僅かに顔を歪ませつつも、手の中で振動に暴れ狂う鉄剣を何とか抑え込む。



 だが、今度はこちらの番だ。



 魔技を振り抜いた後のリタには、僅かだが()()が存在する。


 簡単に言えば、技を放った後のスキである。


 技を放った後の衝撃か、その技が大技であればある程、反動は大きく、長くなる。


 隻眼の上、右腕しか使用出来ず、体力すら満足でない現状。

 通常の剣技で全く歯が立たないとなると、自身が付け入る隙と言えばその()()くらいのものであろう。


 この瞬間を捉えた今こそ、リノアがリタに反撃を加える好機である。


 しかし前提として、何としてもこの一撃のダメージを最小限に抑える必要がある。


 ほぼ真下。

 重力など知らぬと言うように、救い上げるような形となったリタの【強振斬撃】。


 マトモに受けてしまっては単純に力負けを起こし、そのまま首を跳ねられてお陀仏だ。


 魔技を乗せていない単純な剣技にすら遅れを取ったのだ。


 その何倍も威力や速度を昇華した純粋な魔技に、正面から対抗できる道理は無い。


 故に、リタの【強振斬撃】に対する術は1つ。


 防げず、見ることすら出来ないのであれば、後はその剣筋を予測するしかない。

 予測した軌道上に誘い込む様に鉄剣を配置し、自身の最も神経の研ぎ澄まされた剣腹で技を視るのだ。


 そしてそのまま、【強振斬撃】が剣唾に到達した瞬間、力任せに横っ腹を振り払う。



 実にシンプルな方法ではあるが、今自分にできるのはそんなところだ。



 強引に押し付けられた非凡極まる暴力。

 齢12歳の少女から繰り出された技とは、リノアは未だに到底信じることは出来ない。

 頭で理解はしていても、身体が受け入れる事を拒んでくるほどに。


 だが現に今、自身に迫る一撃は、まごう事なく眼前で長剣を司る小さな少女によるモノ。


 ……信ずる信じないでは無い。

 理解しようがしまいと関係など無い。


 これは彼女が積み上げてきた、人生の証そのもの。


 そこから目を背ける訳にはいかない。



「ああああああ!」



 絞る様に、振り切る様に、鉄剣にただひたすら純粋な力を乗せた。



 ここを突破できなければ先は無い。


 出し渋りは、無し。


 お互いスピード型の剣士なのだ。


 勝負は長くは続かない。



 一時の小さな綻びが、勝利の女神の機嫌を左右する。



 純粋な力をぶつけ合った剣刃が、各々の軌道へ向かおうと唸りを上げる。


 だがリノアの鉄剣は、リタの長剣へぶつかったと言うよりは、ほとんど一方的に弾かれた形になっている。


 とは言え予想を超える大きなロスではない。



 ――軌道を変える事には成功した。



 リタの長剣が、自分の鉄剣が、すれ違い、お互いの背後へ到達する。


 遅れて熱を帯びる自身の右肩から血飛沫が上がる。

 が、今の自分に痛みに顔を歪めている余裕など無い。


 各々の剣を追う様に、リタとリノアはお互いの場を入れ替える。


 右肩から乱舞する鮮血を挟み、両者は一瞬だけ目を合わせた。


 藍色の髪の奥、虚な目でリノアを見据えるリタ。


 対するリノアは、見開いた目でそれを垣間見ると、思わずギリリと歯を噛み締めた。


 ずるりと、引きずり込まれそうな何かがそこにあった。

 感情の一切を拒否された、真っ白で真っ黒な更地とでも言おうか。


 得体の知れない何かが瞳の奥で蠢き、厚塗りのされた雑な絵具をぶちまけたような闇がどこまでも広がっている。


 途端に怒りがふつふつと湧き上がり、剣柄を握る指先に力が籠る。



 ――冗談じゃない。



 あんなもの、今すぐに引きずり出してやる。



 悲鳴をあげる左脚。

 骨が軋みを上げ、限界を突破した身体の節々が絶叫をあげる。

 そんな全身の抗議を一蹴し、それにぶつける様に叱咤を叫ぶ。


 リノアの身体に刃を入れた事により、リタの長剣は少なからず剣速を落としている。

 なおも【強振斬撃】を放った後のリタには、あの反動が起こっている筈。



 ――反撃するなら今である。



 引き戻す様に、引っ張る様に、鉄剣を引き絞り、身体と鉄剣の位置を入れ替える。


 剣先をリタへ向け、慣性に逆らい、リタへ真っ直ぐ土を蹴った。


 視線の先。

 そこには未だ【強振斬撃】の反動で振り抜いた姿勢となっているリタがいる。


 だが、何故であろうか。

 目論見通りとは言え、素直に納得できない自分がいる。


 上手く行き過ぎていやしないか……?、と。


 そんな小さな違和感が頭を過るも、リノアは既に鉄剣を止める事は出来ない。


 狙うはリタの長剣――。


 まずは手から叩き落とし、遠くへ弾き飛ばし、その後彼女を引き倒す。


 それで、終わりだ。



「――!」



 瞬間、狙いすましたかのように、リタの目端に文字が浮かぶ。



 ――【魔技:瞬歩 中級】



 リタの長剣目掛け、リノアは鉄剣を力任せに振り抜いた。

 しかし――、手応えは無い。



 ――逃げられた!?



 嫌な予感が背筋を過り、目を凝らす。

 が、既にリタの姿は無い。


 意識を加速させ、ただひたすらに目を凝らす。


 見開き、その姿を追う。

 ――が、やはり見えない。


 だが、そこにいる――、

 確実にいる!


 チカッと目が光を捉えた。

 目を凝らしていなければ見つけることは出来なかっただろう。


 あれは、と声に出さず呟く。

 しかしこの闇夜。

 光を放つモノなど限られてくる。


 途端に頭が結論を意識に示し、笑えない事実を突きつけてくる。


 白く赤く。

 月明かりに反射した何か。

 その光は垂直に、こちらの心臓を目掛けていた。



 ゾクリと悪寒が背筋を撫でる。



 咄嗟に鉄剣を引き戻し、胸を守る様に鉄剣を滑り込ませた瞬間、衝撃が鉄剣に直撃した。


 ゴッという鈍い音が身体を震撼し、一瞬で肺の空気を弾き出され、ガハッと嗚咽が喉から漏れる。


 一文字に裂かれた神速の横薙ぎ。

 有無を言わさず、鳩尾の肉を持って行かれた。


 視界が震え、脳が再び警鐘を鳴らす。

 これは本命の一撃では無い。

 そんな知りたくも無い事実を、リノアの本能が意地悪く囁き掛けてくる。


 何が起こっているのか、何をどうすればいいのか、頭へ解を求める。

 だが、返ってくるのはただひたすらに危険であると言う事実。


 短すぎる時の中、何をすべきか、どう対処すべきか、その選択を寸分違えば、結末は"死"を意味する。


 見えないのであれば予想する他無いのだ。

 それは今でも変わらない。

 先程の攻撃は運良く月の光に助けられたが、次はそうはいかない。


 見るな。

 予測しろ。


 彼女を、リタを思い出せ。


 業魔を屠ったあの瞬間を。


 必殺の一瞬を。



「――」



 今の横一閃はただのジャブだ。


 それはほとんど確信に近い。


 心臓を狙ったとは言え、今の一撃で仕留め切る事が出来ない事など、リタは承知の上で攻撃したはず。


 つまり今の攻撃は、自身の防御を誘った剣撃(おとり)


 リノア唯一の守りである鉄剣を、無理やり眼前に引き摺り出す為の罠に他ならない。



 と言う事は――、



 本命は!



 リノアの背後。

 弾く様に振り返ったリノアの視線の先。

 見切れた視界の先に、捉えきれなかったリタの姿を目にする。



 遅い。


 結論を出すのがあまりに遅過ぎる。


 いや、と言うより、判断するまでの時間が短過ぎたのだ。


 それも計算の内、とでも言うのか。



 霞む視界、見開く目。

 輪郭のハッキリしない何かがそこにいる。


 月を背にしたリタだ。

 淡く輝く長剣を夜空へ掲げ、彼女は今まさに魔技を発動している。


 この瞬間、全て彼女の手の内であった事に今更ながらに気づいた。


 月による逆光が影を落とし、その表情を見る事は出来ない。

 だが、相も変わらず、その瞳に一切の慈悲は無い。

 剣卓を交わし、すれ違ったあの瞬間から何も変わってはいなかった。


 ゾクゾクと身体が震えを覚える。

 ゴクリと無意識に唾を飲み、渇いた口内を癒すように、忘れた呼吸を唇で感じた。


 フワリと何かが頬を触る。

 優しく、それでいて力強い包容の温かみを感じた。


 思わず身体が仰け反り、未知の感覚に骨まで揺さぶりを受けた。

 その答えはすぐさまフラリと視界に入り、リタと重なり、落ちていく――。




 ――羽?




 長剣を振り上げるリタの背後。

 妖美で美麗な赤い光が淡く彼女を包み、抵抗する間も無く目を奪われた。


 この世で最も柔らかな柔毛で包まれた様な心地が身体の芯を貫き、この世の凡ゆる甘美で甘い愛しみを煎じた湯に全身を浸かったような――。


 筆舌し難い感覚がリノアをゆっくりと包み込んでいく。


 なんと優しく、どこまでも慈愛に満ちた光だろうか。


 だがそれでも、身体のどこかで正気に戻らねばと意識が叫んでいるし。

 何度も何度も呼び起こす。

 が、頭はついに思考放棄の意を示す。


 業魔と初めて会い見えた時以来の、……いや以上の衝撃。


 業魔は伝説であり、最強と言えどやはり生物なのだ。

 理解は出来るし、その強さを前にしても何とか正気でいられた。


 だが、目の前の存在は、


 分からないのだ。

 自分が何を見ているのか。

 何と向い合っているのかすら――。


 そこにいる存在そのものを認識しつつも、頭がその存在を肯定そのものを一蹴してしまう。



 と、その時――。


 ズキリと、背に刻まれた傷が痛みを発した。


 その傷はリタが操られている時、彼女から最初に受けた斬撃の傷痕。


 瞬間、リノアは好機とばかり自分の舌を噛む。途端に何かに頭を引き戻されるように、リノアは無理やり意識を現実へねじ込んだ。


 忘れていた時を取り戻すように、視界の焦点を合わせていく。


 ピタリとピントが合い、淡く赤く染まっていた視界に夜が溶け出し、より鮮明になっていく――。


 見開く双眸。


 動悸を覚える身体。


 息を飲み、信じられないと言うように、僅かに口元が綻ぶ。


 眼前に捉えたのリタの背後。


 そこにあったのは、赤黒く淡い光を放つ翼。


 それは両翼には存在せず、片側に生えた一筋の片翼。


 彼女の周りには無数の羽が乱舞しており、それらは先程の技の余波で生まれた風に巻き起こされている。


 舞い散る羽の中、リタはあの光を寄せ付けない無情の瞳をピタリとリノアへ向けている。

 手にはあの折れた長剣を司り、既に魔技は発動寸前。


 世界が一時停止するように、1枚の切り取られた絵画のように――、


 禍々しい真紅の羽が夜の闇に絢爛の華を咲かせ、リノアに死の宣告を突きつける。





 ――【連鎖魔技:強振斬撃 天級】





 舞い散る羽を縫う用に、リタの長剣が躊躇なく振るわれた。


 風を切る音すら無い。世界の認識を逸脱した無音の殺意が、赤い光により長剣へ乗せられる。


 まるでそれが最初から決まっていたかのように、世界に定められているかのように、時すら塗り潰したこの世で最も美麗な一閃。


 それを目にした瞬間、リノアは反射的に目を瞑った。


 そして思い出し、念じるように叫びを上げる。


 あまりに理不尽な世界に、必死に必死に抵抗する。

 その意思と意味を、決して忘れない為に、屈しないように――。


 これまで最も強く握り締めた剣柄。

 確定した死を前に、世界に定められた結末を前に、リノアはがむしゃらに剣刃を差し出した。


 その抵抗は眼前の運命に対するにはあまりに貧弱で小さい。


 吹かれれば飛び、チリとなって消える。

 比べてしまえばリノアのボロ剣などそんな所だ。


 だが――、









「――」











 ――プツリと、何かが切れた音がした。


 世界の先を行くような、時間の理を嘲笑うかのような、あれほどの極限下にいたと言うのに。


 今は何故か、眼前に広がる世界がとてつもなくゆっくりと過ぎていく。


 狭まる視界、動悸を増す呼吸――。


 感覚が意識と決裂し、揺ら揺らと形を崩していく。


 ネットリとした生温かいモノが背面に広がり、小さな視界は朱に染まっていく。


 目まぐるしく変わりゆく景色の中で、自分が中空へ浮かんでいるのだと、何となく分かった。




 ドンっと、小さな音が辺りへこだました。


 余りに軽すぎる小さな身体は、水を含み、スポンジの様になった土を跳ね、転がっていく。


 赤く黒い血を撒き散らしながら、血の斑が点々とリノアを追っていく。




 やがて小さな身体はやっと動きを止め、うつぶせになり動かなくなる。


 月に照らされた赤黒い池が、少しずつ、少しずつ広がっていく。

 その中心でリノアは、最早微動だにしない。








 ◇◇◇







 フワリと、剣姫と呼ばれた少女は地に舞い降りた。


 いつしかあの翼は消えており、くらりと頭を右に揺らす。


 そして数瞬動きを止め、忘れていたように呼吸を始める。



 追うことすらせず、リタはジッとリノアを見ている。


 その表情は髪に隠れ、窺い知る事は出来ない。


 やがてリノアが動かない事を確認すると、長剣を大きく斜めに薙いだ。


 血潮が泥に半円を描き、リタは長剣を鞘に納めると、最後にもう一度だけリノアを一瞥し、ゆっくりと背を向けた。


 そして一歩、二歩と、その場を後にしようとリタは歩み始める。


 行くアテなど無く、何処に向かうでもなく、およそ数分ほど歩いただろうか。


 リタは歩みを止めた。


 感情を知り得る筈の無い虚な瞳が、柄にも無く見開かれている。

 左手は今しがた納めたばかりの長剣の鞘をカチリと握りしめており、右手は剣柄を掴む素振りを見せている。


 リタは確かな手応えを感じていた。


 先程放った自身最高の【強振斬撃】は、間違いなく(リノア)に直撃したはず――。


 竜の鱗ですら斬り裂くリタの【強振斬撃】は、自身の持つ最強の技である【疾刃一刀】に次いで自信のある魔技である。


 それもチェインを重ね、練りに練り上げた必殺の一撃であったのだ。


 あの完璧な一撃で殺せぬ敵などいるはずがない。


 だが、あの敵が恐るべき反応速度を持っていたのは認めるべくも無かった。


 18連撃から【強振斬撃】へ繋ぎ、更に敵の攻撃を誘ったところでの【瞬歩】の逆撃、そして本命の【強振斬撃】。


 最後の最後で致命打を与える事が出来たものの、その最後を含め、こちらの攻撃全てを防御されている事は驚愕を禁じ得ない。


 最後の【強振斬撃】ですら、敵は的確に鉄剣を滑り込ませてきたのだから。


 だが、タイミングと力の差を鑑みても、あの敵にまともに【強振斬撃】を受ける程の力は無い。


 鉄剣で辛うじて防がれたとは言え、身体を真っ二つに出来なかった事は甚だ遺憾ではあるが、死に至らせるには十分の一撃であったと確信している――。


 が、……何故であろうか。


 僅かに戦闘の記憶が欠落している。


 その上、確実に殺した筈であると言うのに、何故か、その事実を飲み込む事ができない自分がいる。


 何故そんな事を感じているのか。

 何故そんな事を知っているのか。


 まるで最初から、あの敵の事を知っているかのような。

 いや、そんなはずは無いと頭を振るも、やはり自分は何かを知っているようである。

 だが、肝心のそれが何なのかが一向に分からない。

 歪で不明瞭な記憶。

 形の無い何かが記憶の奥底でユラユラと蠢いている。


 何度も自身に答えを求めるも、モヤモヤとした何かが脳裏を過るだけで、明確な回答は何一つ得られる事は無い。


 いや……、止めよう。


 何も考える必要など無いのだ。


 あの敵を全力で殺す事。


 それが自分の使命である。

 それさえ分かっていれば後は何も必要無い。


 憎むべき敵が、忌むべき存在がそこにいる。


 それで十分ではないか――。



 一瞬、鞘を握り直した左手が震え、躊躇する自分がいる事を感じた。


 途端に何かに引き戻されそうになったが、狙い澄ました様に強烈な頭痛に見舞われる。


 そして数瞬瞑目したリタは、既にあの虚な目へと戻っていた。


 これも自らの未熟さゆえの事か。


 あのような脆弱な敵を前に、葛藤する事などあってはならない。


 立ち止まり、些事に気を取られ、頭を引きずられるようでは剣筋に迷いが出てしまう。


 迷いは即ち、弱さ。


 それが得体の知れぬ感情であるとすれば、尚更質が悪い。


 ならばそれを断ち切る他無いだろう。


 自らの技に疑問を覚えるほど、あの敵の生死を気にするのであれば、この目に確実な死を見せつけてやれば良い。


 心臓を貫き、頭を穿ち、身体を八つ裂きにしてしまえばいい。


 それだけの話だ――。



 自らにそう言い聞かせ、リタは踏ん切りをつけるように小さく何かを呟いた。

 なおも震える右手を無理矢理抑え込み、小さく細い指先で長剣の柄を再び握りしめる。


 そして、振り返るように半身をリノアの方へ向けたリタは、何の躊躇いも無く再び長剣を抜刀する。


 そんなリタの背後に、赤黒い翼のような残像が一筋、淡く揺らめいていた。






 ◇◇◇






「こりゃあいったい、どうなってやがる――」


 精霊王を倒し、リノアの元へ駆け付けてきた巨漢とノノ。

 2人が目にしたのは、想像していたどの結末よりも最悪だった。


 真っ赤な血の池が広がり、薄く、雨に濡れた地面に流れて行く。

 その中央に横たわる者が1人。

 側には見た事のあるボロボロの鉄剣が転がっている。

 背中に大きな怪我を負っているようで、動く気配を見せない。


 赤い斧を持った巨漢は、状況が見えず少しばかり困惑するも、自分を救ってくれた少年――リノアが倒れているのを見ると、目の色を変えた。



「アイツ――」



 巨漢は隣にいるノノに話しかけるも、彼は既に走り出した後である。

 無論、ノノが駆けていった先にはリノアがいる。


 全力で走っていくノノをポカンとした顔で見ていたが、何の躊躇いも無く行ってしまった事に巨漢は半ば呆れ顔。


 が、すぐに「ったくよ」とため息交じりに一言挟み、仕方なしにノノを追う。


 ノノは小さくグスリと鼻を鳴らすも、何くそと首を横に振り、脇目もふらず、縋るように泥へ滑り込んだ。


 涙目でリノアを確認し、ノノはすぐに言葉を奪われた。

 リノアの元へ駆けつけたはいいものの、余りの惨状に頭が真っ白になっていく。

 しかし茫然としている場合ではないと、無理やり意識を叱咤し、リノアに覆い被さり口元に耳を当てる。


 呼吸の有無を確認する。

 しかし、何も聞こえない。

 思わず、小さく悲痛な声が漏れた。


「息……、してない」


 遅れて駆け付けた巨漢。

 リノアを挟むようにノノの正面に立ち、彼を見下ろした。


「……」


 巨漢は眼下に広がる惨状を目にし、痛々し気に目を逸らした。


 流れ出た血の量。

 背中に残る袈裟懸けの傷痕。

 誰がどう見ても、状況は絶望的だった。

 血を流し過ぎている。

 原因は明らかに背中の傷だ。

 あれが致命傷であろう。


 しかし、よくよく見れば傷痕は背中の傷だけでは無い。

 左腕は欠損し、耳は取れ、目に関してはほとんど機能していない。


 そして身体全体に散りばめられた大小様々な切り傷。

 これだけの怪我を負っているのだ。

 見えてはいないだけで、身体の内に蓄積されたダメージは相当なモノだろう。


「バカ野郎が……」


 目を瞑り、ポツリと巨漢は呟いた。


 だが、すぐにふと思い出したように、自らの腹部に手をやる。

 そこは少し前まで業魔によって穴を空られていた箇所。

 既に傷一つ残っておらず、穴が空いていた形跡はどこにも無い。


 このトンネルを綺麗に埋めてくれたのは目の前のベレー帽の子供、ノノである。

 精霊術という奇跡の力を持つ、精霊使いである。


 簡単な話だ。

 リノアが大怪我を負っているのなら、精霊術で治癒を施してやれば良いのだ。


 だが――、どうも様子がおかしい。


 少し前から、ノノはリノアへ手を翳し、緑色の柔らかな光を幾度と無く彼へ当てている。

 治癒系精霊術、【妖精の治癒】を使っているのだろう。


 ……が、

 何度やっても傷は一向に塞がる気配を見せない。

 ザックリとやられた剣創は塞がる素振りすら見せず、傷や切り口は何の反応も示さない。

 当然、瞳に再び生気が宿る事も無い。


 その光景を黙って見た巨漢は、ギリリと悔しげに歯を食いしばった。


 あれ程の効果があった精霊術だ。

 そんな奇跡の力を何度も使用して効果が無いとなると、それが何を意味しているのか――。


 それくらいは、精霊術を使えない"斧使い"であっても簡単に察しがついてしまう。


 魔技だろうが精霊術だろうが、治癒系の技はあくまで傷を癒すのであって、死者を蘇らせる事はできない。

 その術が奇跡を施すのはあくまで生者。

 死体に治癒系の技を使用した所で、何の効果もないのだ。


 もちろん、そんな事はノノも承知のはず。


 だが、ノノは一向に精霊術をかける手を休める素振りをみせない。


 縋るように。

 まるで何かに一抹の望みを託すように――。


 ひたすらに。

 がむしゃらに。


 その背中はまるで、駄々をこねる小さな子供のようであった。


 もはや効果を確認する事すら忘れ、リノアにしがみ付き、緑の光を当て続ける。

 傍にはポロポロと、透明の雫が落ちていく。


 やがて術を止め、身体を震わせながら顔をリノアの背中に埋めると、声を押し殺すように嗚咽を呟く。


 だがすぐに思い直したように再び精霊術を行使し、効果が無いと分かりつつも緑の光を何度も繰り出す。


 息継ぎすらほとんど挟んでおらず、その間隔は恐ろしく短い。

 強く輝く緑の光から、その一つ一つが力強く構築されているのも分かった。


 一体どれ程の負荷が掛かっているのか、巨漢には分からない。

 しかし、肌から血の気が引き、肩で息をするノノを見れば、無理をしているのは嫌でも分かる。


 これは精霊術に限らずであるが、治癒系の技は、通常の技と違い大きく力を消耗する。


 おいそれと連発できるようなモノではないのだ。


 自棄になっているのか。

 それとも現実を受け止め切れていないのか。

 どちらにせよ、ノノの身体に掛かる負荷は尋常では無いはずだ。


 自らも経験がある。

 限界まで魔力を消費した時の苦しみが、どれほどのモノなのか。

 疲労、倦怠感、頭痛、吐き気。

 他にも色んな苦痛が纏めてセットで襲い掛かってくる。


 あれはもう2度と味わいたくはない。


 最悪の場合、死に至る事もある。



「ッ……リノア、ねぇ……ねえったら――」



 リノアの身体を力任せに揺さ振り、ノノは涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、リノアへそう話しかけた。


 そして尚も、真っ白な髪を揺らしながら、ノノは小さな身体で精霊術を使い続ける。


 もう止めろと手を伸ばしかけた巨漢は手を止め、行き場を無くしたようにゆっくりと引っ込める。


 あまりにも哀れで切ない後ろ姿に、思わず目を逸らしてしまう。


 しかし頭を左右に振り、すぐに思い直し、見ちゃいられないとノノの腕を掴んだ。



「もうやめろ。お前の方がくたばっちまう」



「――」



「おい……! いい加減にしねえか! ソイツはもう――」



 巨漢の手を荒々しく振り解き、ノノは睨むように振り返った。


 その瞬間、巨漢はピタリと動きを止める。


 向けらた表情。

 返ってきた激情と悲壮に駆られた瞳。

 その全てに思わず言葉を奪われ、目を逸らすこともできない。


 そこにあるのは、行き場を無くしたひたすらの悲しみだった。


 硬く結ばれた唇は泣き叫ぶ事を必死に抑えているのか、小さく震え、瞳は今にも決壊しかねない程の涙を抱えている。


 心を掻き毟られ、炙られ、捻じ切られたかのような、――人の感情の極致。


 ゴクリと唾を飲み、巨漢は目を細める。


 一体どんな想いがこんな悲し気な表情を生み出すのだろうか、と。



「っがは! ッゥぐ……」



「!?」

「リノア!」



 巨漢とノノ。

 2人して飛び上がり、声のした方を見ると、リノアが苦しそうに顔を歪めていた。


 リノアが息を吹き返したのだ。


 一瞬何を見ているのか理解できなかったノノだが、悲壮に駆られていた表情を掻き消すように、少しずつ顔が綻びだし、遂に我慢が限界を迎えたのか、大声で泣きながらリノアへ飛びついた。


 服にシワがよるほど抱きしめ、「良かった」と何度も震える声で口走り、大きく大きく口を空けながら、ノノは泣き叫ぶ。


 傍でその様子を見ていた巨漢は「やれやれ」と呟くと、ため息を一つ。

 そして一気に身体の力が抜けたのか、ドッとその場に腰を下ろした。


 斧の柄を地面に刺し、バランスを取りながら「ふぅ」と再び気の抜けたため息をもらす。



 まあ……リノア(コイツ)の事だ。

 もしかしたらもしかするんじゃねーかと思ったが、まさか本当にそうなっちまうとはよ。


 だが、……生きていたのなら、何で精霊使いの回復術が効かなかったんだ?

 まさか半殺しだと効かねーとか言うんじゃねーよな。



 ひとしきり泣いて落ち着いたのか。


 ノノはリノアへ優し気な表情で笑いかけ、慈しむように小さな手で数度彼の頭を撫でると、再び精霊術で回復術を使用し始めた。



 ――【精霊術:妖精の治癒】



 すると先程同様、翳した手から緑の光がリノアに注がれ、治癒が始まる――かと思われたが。


 やはりと言うか何と言うか、一向に快方に向かう気配がない。


 傷はおろか、体力ですら回復しているのかほとんど判断がつかない程に、何の変化もないのだ。


 と、思いきや、どうやら僅かに顔色が良くなってきている……ように見える。

 かなり微妙な変化ではあるが。


 術は正常に機能している事は間違いないのだろう。

 かなり効きが悪い、と言う事なのだろうか。


 実際に自分の腹に空いていた穴を塞いで貰った時、同じ緑の光を見たのを覚えている。


 【妖精の治癒】――。


 効果は恐ろしく抜群で、あれよあれよと言う間に傷は塞がり、オマケに失った体力まで回復している特典付き。

 改めて回復術の有用性と効力に驚かされたものだ。


 だが、目の前に倒れているリノアにはその効力がほとんど発揮されていない。

 自分の時と比較するのであれば、効力は1割を切っている。


 寧ろ【精霊の治癒】を使えば使う度に、効力が落ちているようにも見える。


 それはノノも感じているようで、一向に変化の無いリノアの傷痕に困惑しているようだ。


「どうなってんだ」


 巨漢の独り言を聞いたノノが顔を上げ、腫らした目をゴシゴシと腕で擦りながら首を振って返事をする。


 一先ずはリノアが生きている事に感謝すべきなのだろう……が、状況が良くない事に変わりは無い。


 依然リノアは瀕死状態のまま。

 治癒系精霊術【妖精の治癒】もほとんど効いていない。

 恐らく、いや確実に、このままリノアを放っておけば彼は今度こそ命を落とすだろう。


 手をこまねいている時間は無い。

 何が原因かは分からないが、ノノの【妖精の治癒】が効かないのであれば、他に治癒系の技を使える者を探すしかない。

 ここは森の浅瀬と言えど、町までは徒歩でおよそ1時間ほどかかる。


 今からリノアをおぶって走って戻ったとしても、20分は時間を要するはずだ。

 さらにそこから治癒系術師を探すとなると、ギルドへ向かわねばならないだろう。


 そこまでリノアの体力と気力が持つかであるが……。


 巨漢はリノアの傷を見ながら顎に手を当てる。


 正直、厳しいと言わざるを得ないだろう。


 だが、何もせずに手をこまねいているつもりはない。


 そこに可能性が存在するのなら、そこに全てをかけるまで。


 それにリノア(コイツ)は、恐ろしくタフだからな。

 案外何とかなるんじゃないか?



「――俺が街まで連れて行く。治癒系術師は少ねえが、心当たりが無い訳じゃねえ。何とかする」



 巨漢はそう言いながらリノアを抱えようと腰を下ろした――、その時である。


 ノノがピクリと何かに反応し、顔を上げる。


 何事かとノノを見た巨漢は、すぐにそれが何であるのか理解した。


 ゾワリと全身の身の毛がよだつのを感じた。


 業魔に初めて会った時と同じ、どうしようもないあの感覚。

 突然、絶望の渦中に突き落とされたような、そんな心地。


 汗が首筋を伝い、動悸は耳に届くほどの高鳴りを見せている。


 途端に我に返り、警戒するように戦斧を携える。


 辺りに視線を配るも、何も見えない。


 夜の暗闇が全てを覆い隠し、その存在を視界に入れる事を拒んでくる。


 だが、確実に何かがいる。

 それだけは確かだ。


 そこで巨漢は自分の犯した過ちに気がついた。


 少し考えれば分かったはずだ。

 血塗れでリノアが倒れていた時点でなぜ気が付かなかったのか。

 リノアが誰にやられたのか、なぜこんな傷を負っているのか、一度でも立ち止まって考えるべきだっだ。


 危険を予測する力は冒険者にとって無くてはならないものである。

 普段であれば絶対に犯さない過ちだ。


 何がベテランだと、ふつふつと苛立ちが湧き上がってく。


 だが、後悔するにも反省するにも遅すぎる。


 何かは分からないが、ソイツはどんどん近づいて来ている。

 それが明確に分かってしまい、思わず固唾を飲んだ。


 心の臓を鷲掴みにされ、身体の芯である肝を引きちぎられるような畏怖の心地。


 もはや生物ですら無いのではないかと。

 そう疑うほどに、空間を歪ませるほどの異質な空気を醸し出している。


 そしてそれは何の前触れもなく、暗闇からゆっくりと姿を現した。


 白具足にチュニック。

 長剣。

 そして藍色の短髪。


 血塗れで佇んでいるソレの正体は、まだ幼い少女であった。


 手繰り寄せた記憶の中。見覚えのある少女の姿を思い出す。


 見間違えなどではない。

 あれは、――かの有名な剣姫そのものだ。


 "赤い斧"と言う冒険者パーティのリーダーである巨漢は、町のギルドに所属している冒険者の中で、最もクラスの高いC級冒険者である。

 30年に渡り、冒険者として生計を立てて来たベテランだ。


 数え切れない程の魔物を仕留めてきた巨漢であるが、その彼をもってしても、剣姫には足元にも及ばないだろう。

 巨漢本人も、目の前の少女がどれほど逸脱した非常識な存在であるかを知っている。


 ここ1か月ほどだろうか。

 彼女がリヴァインオルドの屋敷に住み始めた事は、町ではあまりにも有名な話だ。


 実際巨漢も町で彼女の姿を目にした事がある。

 自身が熟練の冒険者であったからか、巨漢はハッキリと彼女の纏う空気を肌で感じたのを覚えていた。

 剣姫と言う非凡な才に恵まれた彼女の持つ空気は、まさに"武"を体現した鋭敏な刃のようであった。


 だが――、


 今の剣姫の纏う空気は、まるで別物だ。

 まるでこの世のモノでは無い何かが取り付いたように、異次元の存在が入り混っているかような、かつて感じた事の無い未知の輪郭がそこにあった。


 何者であるかなど、誰が分かろうはずもない。

 しかしただ一つ。

 一目見て確信した事がある。



 あれは、――人が手を出していいレベルの存在ではない。



 今までであれば、巨漢は間違いなく全力の撤退を選択したであろう。


 できる事ならば、今すぐにだってこの場を後にしてしまいたい。


 冷や汗と悪寒がゾワゾワと巨漢の全身を駆け抜ける。


 相手にしてはならないと、関わり合ってはならないと、30年に及ぶ経験が全力で警鐘を鳴らしている。


 理不尽とは、彼らのような存在の為にある言葉なのだろう。

 自らが積み上げてきた力など、そんな奴等からしたらただの誤差のようなものだ。



 ――シェールブルクの剣姫。


 彼女の領地では領民に慕われ、優しく凛とした人物であると聞いていたが……。


 今見ている存在が同じ人物であるとは到底信じる事ができそうもない。


 剣姫、と言うよりは、未知の怪物……と言ったところか。


 間違っても、自分のような凡夫が相手にしていい存在ではない。




 巨漢は一度瞑目し、そんな拭う事のできない恐怖を無理やり喉へ押し込める。


 だがすぐに、何故そんな事をする必要があるかと自分自身に問われた。


 なぜ恐怖を受け入れてしまわないのかと――。


 極端な恐怖とは。


 即ち、ヒリヒリとした現実を肌で敏感に感じる事に長けている。


 緊張感は緩んだ心胆を叱咤し、生きている実感と死の足音をより鮮明に理解させてくれる。

 萎縮した心は火事場の馬鹿力を生み、臆病な精神は撤退の活路を見出す。


 逃げに徹するのであれば、どれも無くてはならない。


 恐怖とは何も、自らの足を引っ張るだけのものではないのだから。


 敢えてそれを投げ出すと言う事は、つまり――。



 自らが無意識に()()と戦うと言う選択を視野に入れていると言う事か。


 あの怪物と自分が?


 バカな。


 誰がどう見ても、自ら棺桶に入るに等しい行為だ。


 せっかく拾った命を無駄にする気かと、自らを批判する。



 ガタガタと震える手足を苛立たしげに手で押さえた。

 だが震えを止める事は叶わない。


 はは、と呆れた笑いがこぼれ、恐怖に軋みを上げる心を何とか宥めようと、深く深く息を吸う。



「大丈夫ですか?」



 巨漢の怯えた表情を心配そうに見ながらノノが話しかけてくる。

 巨漢はハッと顔を上げると、目を手で覆いながら息を吐き出し、「ああ」と一言返事を返す。


「……悪い」


「いえ。あんなものにアテられてしまったのですから……、怖気付いてしまうのも無理はありません」


「……」


 あっけからんと言い放つノノ。


 先程まで泣きべそをかいていたというのに、今はまるで別人のようである。


「……お前は、平気なんだな」


「人外には慣れてますから」


 その答えを聞き、巨漢はフッと笑みをこぼす。


「アレは……一体、何なんだ? シェールブルクの剣姫だってのは分かるんだが……、アレ、半分は人間じゃねえだろ」


「正体まではボクにも分かりません。けれど、半分人間ではないというのは同意見です」


「あの精霊王(クソやろう)の仕業か」


「多分……違うと思います。未だに【妖霊傀儡】に操られてる事に間違いはありませんが、何と言いますか、別の何かが混じっている感じが――」


「混じっている?」


「はい。これは精霊使いだから分かる事ですが、少なくともあの禍々しい空気に関しては、精霊王の手は入っていません」


「ほう。てぇことは、魔物――」


「いえ。それも違う、と思います。あれは何て言うか――、別の次元の存在、とでも言いますか」


「……訳が分からん」


「はい。つまり、正体不明です」


「はっ、そりゃ最高だ」


 皮肉を返し、恐怖を誤魔化したかったのか、巨漢は再び小さく笑みをこぼした。


 そして数秒の沈黙を挟み、ノノがポツリと呟いた。


「……ありがとう、ございます」


「は?」


「言う機会が無かったので」


「……。今言うか、それ」


「遅くなってしまいましたが、どうしても言っておきたかったので。あのタイミングで来てくれなかったら、地面に転がってたのはボクの方でしたから」


「……礼なんざ要らねえよ。俺の方だって感謝してもしきれねぇくれえだからな。何せリノアと……、お前が助けてくれなかったら、俺ァ今ごろ業魔(あのやろう)にムシャムシャ食われてたとこだろうからな」


「ムシャムシャ……ですか、ふふっ」


「……なんだよ」


「いえ、意外とお茶目なところもあるんですね……、えっと……」


「……ゼギルだ」


「ボクはノノ。今更ではありますが、精霊使いです」


「"赤い斧"のリーダー、紅斧のゼギルだ」


「――では、ゼギルさん。1つ、お願いしてもいいですかね?」


「……言ってみろ」


「ギルドへ、援兵の打診をお願いします」


「――」


 ゼギルと呼ばれた男、もとい戦斧を携えた巨漢はそんなノノのセリフを黙って聞いていた。


 数瞬の後に意味を理解し、途端に弾くようにノノの顔を見た。


 目が合い、途端にノノがにへらと笑う。

 無理に作った笑みの奥、碧の瞳が心配するなと言っている気がした。


 ――援兵の打診。

 簡単に言えば、ゼギルにギルドへ行ってもらい、応援を呼べとノノは言ったのだ。


 それが何を意味するのか、いくら筋肉バカと言われたゼギルにもわかってしまう。



 "さっさと逃げろ――"



 要約するとそういう事だ。


 意地の悪い言い方をするなれば、足手まといは帰れ。

 ノノはそう言いたいのだ。

 無論、そんな深い意を持って言った訳では無いのだろうが。


 こんな小さな子供を置いてトンズラなど、普通であれば冒険者としてのプライドが許すはずがない。


 だが、自分とノノの実力差を鑑みれば、それは正しい選択であると思えてならない。


 考えるまでもないのだ。

 自分の脚を見れば一目で分かる。


 無様にガタガタと恐怖に震えている。

 情けなくも、ただの凡人である自分がそこにいる。


 これではまるであの時にそっくりではないか。

 業魔が現れたあの時。空魔奴のクソガキの背中を見ている時もそうであった。

 眼前で起こっている戦いの全てが、自分の生きてきた世界とはまるで違う、別世界で起きているような――。

 触る事すら許されない、異次元での出来事のようだった。


 そのあまりに隔絶された世界は、何の躊躇いもなく自らにこう告げたのだ。



 凡夫は凡夫らしく、夢など見ず、凡庸な存在であり続けよ、と――。



 それが凡庸な生物である自らの最適解であると、弱者の自分は疑うべくもない。


 それこそが唯一の生き残る道であり、1日でも長く生きる為の弱者なりのやり方なのだと、ゼギルは納得したのだ。


 ノノから足手まといだと突き放された今とて、それを忘れた訳ではない。


 最も実力のあるノノが時間を稼ぎ、凡人の自分がリノアを担いでこの場から離れる。

 それが今できる最上の選択なのだろう。


 だが――。



 戦斧を握りしめ、ゼギルは小さく小さく笑った。


 眼前の超常の存在を忘れたかのように、フフフと声を殺し、囁くように笑みを溢す。


 そしてもはや抑え切れぬと言ったように、大空へ向け大きく大きく口を開け、高らかにガハハと笑った。


 急に豹変したゼギルに、隣でノノが目を丸くしている。


 だが、ゼギルはそんな事お構い無しに笑い続けた。


 押さえ込んでいた何かが弾け飛んだような心地。

 こんな清々しい気分は冒険者稼業を始めて以来、初めてである。


 地位名声金。

 目下色んなしがらみに囚われてきたが、今ここにあるのは何であろうか。


 今、この身にあるのはただ2つ。

 かつてない圧倒的な死の予感と、相棒の戦斧。


 笑えるではないか。


 今まで大事にしていたモノ全てが、何の役にも立たず、この場にはまるで存在すらしていない。


 人は死ぬ。

 生物は須く息絶えるのだ。

 死ねばそこで全ては終わる。

 積み上げて来た何もかも、例外なく白紙になってしまうのだから。


 恩人を救う事すら叶わず、人ひとり救ってやれぬモノに何の価値があると言うのか。


 目の前の2人に対し、自分はあまりに脆弱すぎる。



 どこの誰とも分からない誰かを、自らが死にかけてまで何の躊躇も無く助けたり。

 危険がせまると、自分の事などお構い無しにさっさと逃げろと平気で言ってのける。


 ハッキリ言って冒険者としては褒められたモノではない。

 そんな事を繰り返しては、命がいくつあっても足りないだろうし、自らにとって何の得にもならない。


 冒険者の善意など犬も食わぬと言われて久しいが、冒険者を30年やってきた今であってもその結論は変わらない。


 冒険者の上部だけの善意や助けなど今まで吐いて捨てるほど見てきたが、どれも最後は自らの可愛さにしっぽ巻いて逃げるのがオチであった。


 だが、コイツらはその中でもほんのひと握りの例外なのだろう。


 とんでもないお人好しで、とんでもない甘ちゃん。

 ――そしてとんでもなく、諦めが悪い。


 しかし何より、彼らは強い。



「――弱いのは俺だ」



 ポツリと呟いたゼギル。

 ふつふつと思い出したくも無い記憶が脳裏に映し出される。


 ――ギルドの酒場。

 自分が胸ぐらを掴み上げ、力任せに床へ押し倒した、空魔奴の少年。


 やっとの思いで、町のトップギルドに上り詰めたあの日。

 30年やって来た苦労がようやく認められ、その全てが肯定されたかのように思えたものだ。


 だがそこへあの少年がギルドの扉を叩き、冒険者になりたいと乗り込んできた。


 小さな体躯に貧弱な剣。

 ボロボロの身着に、不潔な風貌。

 身に纏っているどれもが須く薄汚い、まるで捨てられた動物のようであった。


 舞い上がっていた心は一瞬で我に返った。

 自分の目に写っていたのは、かつての自分そのもの。

 親に捨てられ、生を受け、未だに愛を知らない薄汚れた糞ガキの姿――。


 ――笑えない。


 こんなモノと同じギルドで肩を並べて仕事をするなど、まるであの時に戻ってしまうかのようだ。


 思い出したくも無い、胸糞の悪い過去の自分を見せ付けられているような心地だった。


 だから自分は見たく無い過去にフタをするかのように、あんな真似をしたのだ。


 ギルドから追い出し、自分の目の届かない所までやってしまおうと、自分勝手な激情を少年へ押し付けた。



「……」



 今思い出しても恥で目を覆いたくなってしまう。


 どうかしてたのはアイツじゃねえ。

 自分の方だ。


 子供はどちらであろうかと思うほど、恥に恥を重ねたのだから。



 ……都合の良い話だなんて分かっちゃいる。

 いくら反省したところで、やっちまった事実は変わりはしない。


 だが――、恩を返す事は出来る。


 弱くとも、足手まといでも、数秒か一瞬か、時間を稼ぐくらいはしてみせる。


 相手が化け物だろうが、剣姫だろうが知った事ではない。


 借りたモノは返す。

 そうだとも。

 バカでも知ってる言葉だ。



 怯えた雰囲気を纏っていたゼギルが急に笑い出したのを見て、ノノはゼギルがおかしくなったのではないかと心配そうな視線を送っていた。


 そんな視線に今更ながら気が付いたゼギル。


 彼は正気であると言うように、ノノと視線を合わせ、ニッと不敵な笑みを浮かべた。

 そして小さなノノの頭に、ゴツい冒険者の手を乗せワシワシと動かした。



「――バカやろう、カッコつけんなクソガキ。あんくらい屁でもねえよ」


「……クソガキじゃありません。ノノです」


「おっと、わりぃ。そうだったな」


「……」


「さっきの話な。なんだっけか、ああ、コイツ抱えてトンズラだ? ……冗談じゃねえ。こちとら何年冒険者稼業やってきたと思ってやがる。テメェみたいなクソチビ置いて逃げ帰ったとありゃあ他の連中に舐められんだよボケ。つー訳で足切りは無しだ。俺がいる限り、どっちのガキの切捨ても許さねえ。それによ、何故かは知らんが剣姫は何もしてこねーし、今ならボウズかっぱらってズラかれるんじゃねーか?」


「……」


「てな訳で――」


「ゼギルさん」


「……なんだ?」


 今だにワシワシと頭を撫でてくるゼギルの手をパチリと握り、もう十分とゼギルへ返すノノ。

 そして小さく息を1つ吐くと、ノノは真剣な表情でゼギルへ言った。


「先程も言いましたが、彼女は未だに精霊王の術が解けていません。なぜすぐにでも襲ってこないのかはボクも疑問ではありますが、ボクらがリノアを連れて行くのを見逃してくれる事は無いと思います」


「……わあってるよ、んなこたぁ」


「安易な楽観は死を齎します。万全には万全を期したい」


「同感だな……」


「ご理解いただけて何よりです。ではゼギルさん、リノアを連れて――」


「やなこった」


「……」



 ゼギルが反発する事が分かっていたのか。

 ノノは再びゼギルの両眼を見ると、強く言い聞かせるようにゼギルへ言った。



「ゼギルさん。アレとやりあえば、あなたは間違いなく命を落とします。今度はボクにもあなたを援護する余裕はない。全力を出したとしても、彼女の足を止めるのはおろか、時間を稼ぐ事すら厳しいかもしれない――」



「――2人でやりゃあ何とか」




「ゼギルさん。本当に死にますよ」




「――」




 嘘偽りの無いノノの言葉。


 確定した"死"。


 そんな言葉を正面から容赦なく浴びせ掛けたノノ。

 よくよく見れば、ノノは平静を装ってはいるが、肩と脚が震えているのが分かる。

 焦りを隠せていない目や汗、時折見せる歯痒さを現した表情を見れば、ノノに余裕など無い事は一目瞭然だろう。


 怖いのだ。


 いくら強がってみせても、冗談を言っても、潜在的な恐怖には抗う事は出来ない。


 忘れてしまいそうになるが、精霊使いとは言え、コイツはまだ子供なのだ。



 誰かの為に、――か。



 駆け付けてあげたくても、駆け付ける事ができず。

 何かしてあげたくても、何もする事ができない――。


 その悔しさは、自分もよく知っているでは無いか。


 業魔に惨殺されていく仲間たちを前に、自分は何をしていた?

 ただただ怒り狂いながら叫ぶ事しか出来なかったではないか?


 あの時の怒りと無力さは、言葉にしようがないどうしようも無いモノだった。


 そして遂に自分の番が来た時、自分は何を思っていた――?


 猫の手でも借りたいに違いない。


 藁をも掴む想いだろう。


 そんな中でもコイツは、――この精霊使いは、自分とリノアに対し逃げろと躊躇無く言ってのけたのだ。



「死ぬつもりか、お前」



「まさか。ボクは最強の精霊使いですよ。簡単にやられはしませんとも」



 ポンっと胸を叩きながら、ノノは自慢げに鼻を鳴らした。


 震える手足を他所に、ノノは気丈に振る舞いゼギルへ撤退を促してくる。


 そんなノノの様子に目を丸くするゼギル。

 暫く何も言わずにノノを見ていた彼は、何かに踏ん切りを付けるように小さく笑みを見せた。



 ――ベテラン中のベテラン。


 ギルドでも一目置かれていたゼギル。



 乱暴で自分勝手な一面もあった彼であるが、面倒見が良く、人を見る目は確かなものだった。


 騙し騙され、陥れ欺かれ、数多の修羅場で人の歪んだ性根を腐る程見てきた。


 あからさまでバレバレなノノの虚勢など、ゼギルからしてみれば滑稽で稚拙。

 目眩しにすらなっていない。


 だが、コイツ(ノノ)はコイツなりの精一杯を自分に見せたのだろう。


 強い力を持っているからこそ、剣姫の異常性を最も理解しているのは他でもないノノなのだ。


 間違いなく、ノノは生きて帰れると思っちゃいない。


 自らの命と引き換えに、本気で自分とリノアを逃すつもりなのだ。


 最後まで半信半疑であった。


 誰かの為に命を投げ出す奴など、いるはずがないと。

 ここまでの極限下であっても、自らの腐った性根はズルく醜く心の底を這いずり回り、底の底では信じる事ができないでいたのだ。


 30年――。

 握り続けてきた戦斧を確かめるように握りしめる。

 夜露に濡れた金属の感触。

 握り慣れたはずの相棒の身体は、暖かく、新鮮な感覚を自らに返してきた。


 とうとう自らも焼きが回ったということか。


 今まで幾人もの他人を見捨てては這い上がってきたというのに。

 非情な外道以外の何者ですらなく、最も冒険者らしい冒険者としてあり続けると誓ったというのに――。


 助けられたとは言え、是が非でもこの2人を助けたいと心の底から思ってしまっている自分がいる。


 確実に死ぬと分かっているというのに。


 これまでの全てを捨て、投げうち、彼らの助けなければと本気で思っているのだから。


 30年守ってきた矜持を、こんなクソガキ共の為にいとも簡単に捨てることになるとはな――。


 10歳かそこらの鼻垂れのくせに、色気付きやがって。


 まったく、――何がベテラン冒険者だ。




 自分こそ。






 ――冒険者失格ではないか。






「ゼギル、さん?」



「……ノノ」



「はい」



「10秒やる。ソイツ連れて隠れろ」



「は……?」



「――あばよ糞ガキ。そっちのバカにもよろしく」



「――」



 ノノが目を見開いてゼギルを見たが、彼は既に走り出した後であった。


 反射的にゼギルへ手を伸ばしたが、彼はすでにそこにいない。


 慌てて後を追おうとするも、タイミングを見計らったようにボンッと低い音がなり、辺りを真っ白な煙が包み込んだ。


 出鼻を挫かれ、思わず煙を吸い込んだノノがケホケホと咳をする。

 だが、負けじと咄嗟に手で煙を払い、ゼギルの姿を探す。



「……く」



 夜の森に風は無く、煙は晴れる気配がない。


 それどころか、先程のボンッという音が再び響き渡り、なおも視界は悪くなっていく。



「待っ……、」



 数メートル先も覚束無い視界の中、ノノは石に足を取られ地面に転がった。


 肘を思い切り地面にぶつけ、思わず身体を屈めて痛みに声を奪われた。


 うずくまってはいたが、ノノはすぐにユラユラと立ち上がる。


 尚も晴れぬ煙。

 それを手で払いながら、ノノはこの煙はゼギルが出したものだとすぐに理解した。


 ノノは彼を追いかけなければと足をひとつ踏み出したが、側にいるリノアを横目に見ると、脚を止める。


 ゼギルがあの少女とまともに戦えるとは、ノノは到底思えない。


 数秒と経たぬ間に八つ裂きにされ、地面に転がるのがオチだろう。


 このまま見捨てる事は絶対にできない。


 だが――。


 再びリノアを見たノノ。


 横たわる彼の苦し気な表情を一目見ると、冷静になれと自らに言い聞かせた。


 段々遠ざかっていくゼギルの足音は既に聞こえなくなっている。

 最早、追う事は不可能であると分かった。


 するとノノは思い直すようにギリっと歯を噛み締め、ギュッと胸の服を掴んだ。


 数瞬目を瞑り、ノノは側に横たわっているリノアへ手を伸ばす。


 苦しそうに胸を上下させ、か細い呼吸が渇いた口元から辛うじて行われている。


 それを見たノノは真剣な表情で頷き、テキパキとリノアを背中に背負うと、ゼギルが向かって行った方とは反対方向へ駆けて行った。



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