幽鬼ジル
リヴァインオルド領から西へ抜ける街道がある。
辺りは人を寄せ付けぬ森が点在しており、王国内地へ行くのであればここを通る他ない。
その一本道の街道を、黒い執事服に身を包んだ白髪の老人が馬を走らせている。
彼の腰には一本の黒いサーベルが下がっており、久しく使っていなかったのか、出番を感じ震えているようにも見える。
そんなサーベルを宥めるように手で触れる老執事ジルは、できうる限りの速度で街道を西へ西へと走っていく。
彼は時折、街道に残っている馬蹄と車輪の跡を確認しつつ、脇道に逸れた跡がないか注意を払っている。
彼が追っているのは無論、アリスを連れ去ったジェード様と、その一味である奴隷商だ。
王国東端に位置するリヴァインオルド領から出たとなると、この街道を進む以外の道は無い。
しかしあと数十キロほど進むと、街道がいくつも交わる場所へ行き着く事になる。
そこへ到達されてしまえば、どこへ向かったのか予想する事が困難となり、リタ様が自分に命じられたアリス様奪還が難しくなってしまう。
ジェード様がリヴァインオルドを出られたのが昼前で、自分はその数時間後に出発した。
すでに追跡を開始して数時間が経過した。
単騎である自分と、馬車を伴っているジェード様一向の速度を鑑みても、街道が分岐する場所までに追いつけるかどうかは、五分五分といった所か。
この辺りに出没する魔物は比較的強力なモノが多い為、街道を逸れて森へ入る事は考えにくい。
ましてや臆病者のジェード様……失敬、慎重なジェード様において、森へ入られる確率は限りなく低いと言ってよい。
つまり今は時間との勝負なのだ。
これが街道の分岐にまでもつれ込めば、新たに運を相手にせねばならない。
ゆえに今はできるだけ速く馬を走らせる事にだけ専念していればいい。
さすれば自分の左腰で唸りを上げるボロ刀も、その役目をきっちり果たしてくれる事だろう。
そんな事を考えているのも束の間、ジルは前方に馬車を伴う集団の姿を確認する。
「おや、案外近くにいましたな……」
馬車は木製で座高の高い、一般的な作物運搬用の商業車のようだ。
しかし馬車が揺れる度、ガチャガチャと金属の擦れ合う音が響き、揺れを見ても荷を満載している様子は無い。
その様子を見たジルは目を細め、中身が何であるのか大方の予想をつけていた。
低温続きの現状、リヴァインオルドの主な産業である根菜類は痩せに痩せており、捨て値同然の野菜をこの時期に輸送費まで払って売りに出す卸売りなど存在しない。
ましてや端境期で収量の落ち込むこの時期に、あのように騎兵を伴ってまで仰々しく輸送するなど奇妙としか言えない。
それもたった1台の作物運搬車に対してだ。
どう考えても利益と費用の勘定が合わない。
基本的に地場野菜だけで何の問題もなく回っているリヴァインオルドに、穀類含め外から食料品が入ってくる事はほとんどない。
あるとすれば一部の富裕層が別途買い付けた領外の嗜好品くらいのものだが、そんなものは例外中の例外である。
ゆえにリヴァインオルドで荷を降ろした後というのも考えにくい。
つまり考えられる事は一つ。
馬車の運んでいる中身、あの中に入っているものが付加価値の高い何かであると言うこと。
その中身は作物運搬車に扮してまで隠さなければならない代物である。
見つかってはならず、価値が高く、あの様な形状の馬車にしか積めぬモノ。
そんなものはほぼ一つしかない。
――違法な奴隷。
つまり国から認定を受けてない法外な奴隷である。
いわゆる"裏奴隷"と言われるもので、それらはもっぱら水面下で取り引きされ、国を通さない事で多額の利益を上げる事ができるとされる。
無論、"裏奴隷"を扱っている事が公になれば、業者は厳しい罰を受ける事になる。
前方の彼等は、十中八九その業者で間違いないだろう。
食料運搬車ただ一台に、それを囲む様に軽鎧を着た騎馬が5騎も伴っている。
あんなもの、どう見ても怪し過ぎる。
馬車には商会紋章も書かれておらず、騎兵の風体も荒々しく、真っ当な集団では無いのが一目で分かるのだ。
あれで誤魔化せると本気で思っているのなら、同情すら覚えるレベルの浅はかさである。
しかし、万が一という事もある。
最初は事を荒立てずに平和的に接する方が良いだろう。
下手な気を起こされてアリス様に何かあれば、自分がお嬢様に八つ裂きにされてしまいかねない。
ゆえにここは焦らず、慎重に。
ジルは確認するように下を向き、昂ぶる心を抑え込み、表情を無理矢理に優しげな老執事へと変えた。
速度を上げ、ジルは一団に迫った。
ジェード様の姿を探すが、ここからではよく確認ができない。
と、思った矢先、馬車の御者台からチラリと見慣れた金髪が見える。
(間違いありませんな――)
ジルは心の中でそう確信し、腹に息をためて大声で言った。
「ジェード様! ジルめにごさいます! 火急の知らせがござりますので、失礼ながら一度停止の号令を!」
老人とは思えぬ野太い声が辺りに響き、驚いた業者一団が後方へ視線を向けた。
御者台の金髪、ジェードも慌てて身を乗り出し、後方へと視線をやる。
すると唖然とした表情がみるみるうちに悍ましいものへ染められていく。
知ったことか。ジェードは目でそんなセリフを投げかけてくる。
「……無駄でしたか」
それを見たジルは小さくため息をつき、仕方なしと言ったようにサーベルを抜刀する。
しかし彼は「無駄だった」とは言いつつも、心のどこかで歓喜に震える自分がいる事に気づいている。
サーベルを抜いたジルを見ながら、ジェードが小さく鼻を鳴らす。
気でも狂ったか?とでも言うように。
「あの老いぼれ、屋敷で大人しくティーカップでも磨いておれば良いものを。戻って良からぬ事をアレに吹き込まれても面倒だ……おい」
ジェードは御者台で自分の隣に座る奴隷商の男へ、嬉々と声をかけた。
奴隷商はビクッと身体を一瞬震わせ、チラリとジェードを見る。
「貴様の部下どもであの老いぼれを嬲り殺せ。あの老愚は以前から目障りであったからな。――惨たらしく地に打ち捨て、あの卑しい貧乏伯爵の小娘、奴の悲壮に駆られ歪んだ表情を拝んでやる……!」
目を見開きながら歪んだ笑顔を浮かべるジェード。
そのセリフはジルにも聞こえたようで、彼の眉根がピクリと動いた。
奴隷商はそんなジェードを見ながら返事もせず、慌てて御者台から身を乗り出し、散っている5騎に命令を下した。
騎兵はそれを見て小さく笑うと、各々頷き合い、ゆっくりと速度を落としながら騎首を下げていく。
するとジルは待っていましたとばかりに手綱を引き、自分から1番近い騎兵目掛けて馬を走らせる。
騎兵もそれに気づき、タイミングを見計らうよう、更に速度を落としていく。
ジルの司るスラリとした細身のサーベル。
鈍い銀を纏った剣刃が淡く輝き、その時を待っている。
軽鎧を着込んだ騎兵の武装は短い騎馬槍。
機動性重視の簡素な武装であるが、鎧も纏っていない老人一人を殺すのには、十分すぎるほどの代物だ。
ジルと騎兵の間が数メートルに差し掛かった時。
騎兵は手慣れた手つきで手綱を絞り、流れるように騎首を後方へ向け、ジルの正面へ向き直る。
鼻息も荒くジルの眼前に躍り出た騎兵。
彼の目端に早くも魔技発動の文字が浮かび上がる。
――【魔技:腕力強化 初級】
騎兵が騎馬槍を上段に構え、ジルへ鋭い槍撃が襲いかかる。
踵を返してからの迎撃。
それは余計な動きの一切無い、お手本のような攻撃。
ジルから見れば、前を走っていた騎兵が急に振り返り、一瞬で槍を突き出した様に見えるだろう。
騎兵の男が口端を吊り上げて勝利を確信している。
しかし対するジルは騎兵を見もせず、ただただガッカリとした表情を浮かべていた。
「――話になりませんな」
「ぁがぁああ!」
ブシッという何かが千切れた音が響いた。
続けて騎兵の断末魔が重ねられる。
騎馬槍はジルの後方、何も無い場所で穂先を地面に突き立てている。
騎兵はその真横で首から赤い鮮血を撒き散らし、血潮を伴ってべチャリと馬から崩れ落ちる。
ジルは槍を躱す素振りすら見せておらず、何事も無かったかのように平然としている。
だがいつの間にか、ジルのサーベルには一筋の血が滴っていた。
ジルがそれに気づき、サーベルを一振りし、鬱陶しげにその血を払う。
ビシャりと地面に血が半円を描く。
「ッ!!」
途端に驚愕に顔を染める2騎目がジルへと迫り、騎馬槍を正面から投槍する。
ジルは少しだけ身体を傾けて槍を躱すと、続けて剣を振り上げて突進してきた騎兵を上段から斜めに斬り裂いた。
「ッ……ヅォぉ……ぁ」
2騎目の騎兵は軽鎧もろとも身体を裂かれ、スイカの様にパックリと割れて辺りへ散らばった。
糸のほつれた操り人形のように、騎兵はその亡骸を打ち捨てられる。
よく見れば彼の持っていた剣も真ん中からポッキリと折れており、強靭な一撃を貰ったのだと分かる。
そしてジルは彼を確認するでもなく、ただジッと前を見据えている。
「「――!」」
直後、タイミングを計ったように左右からの挟撃がジルを襲う。
さらにジルの前方、短弓を持った騎兵が、ジルへ矢を放った所であった。
三方からの一斉攻撃。
違法な奴隷業者の護衛にしては、中々の練度を誇っている。
しかしジルは顔色一つ変えず、感嘆の意を示すに留まった。
「ほう、攻め手切り替えの早さは中々」
――【魔技:風刃斬撃 中級】
ジルの目端で文字が光ると、次の瞬間、弓を持っていた騎兵へ袈裟懸けの斬撃が刻まれる。
ジルの眼前に迫っていた矢も、いつしか木片となってその姿を消している。
ジルの右手には軽く振り抜かれたサーベルが握られており、斬撃を放った直後であることが分かった。
悲鳴をあげる暇すらなく、騎兵は両断された弓と共に崩れ落ちる。
尚も左右から咆哮を上げる騎兵が迫り、2つの銀閃がジルへ叩き込まれる。
ジルはその攻撃を見ることすらせず、少しだけ笑みを浮かべて魔技を発動させた。
――【魔技:一刀二刃 中級】
途端にジルがサーベルを右の騎兵へ撫でるように振る。
するとその瞬間に白刃の斬撃が左にも放たれ、ほぼ同時に両側から絶叫が上がった。
例に漏れず、それは軽鎧をも食い破る不可視の斬撃であった。
2騎は一瞬で真紅に染め上がる。
ジルは防御の姿勢など一切見せる事は無かった。
彼は斬撃だけでその全てを上書きしている。
槍であれば槍撃ごと。
剣であれば剣撃ごと。
とでも言うように。
彼はただ1度の鍔迫り合いすらなく、自身に迫った攻撃の全てを斬っただけに過ぎない。
剣を交えるまでもない存在。
ジルにとって彼等はその程度の認識でしかなかった。
後方で聞き飽きた崩れ落ちる音がすると、ジルは再びサーベルを薙ぎ、血を払う。
「騎馬と息が合っておりませんな」
ジルは横目で街道に転がる彼等をみながら、言い残すようにそう呟いた。
ふと街道の先を見ると、予想通り慌てて速度を上げ始めた馬車が見える。
ジルはそれを見るなり、やれやれとため息をついた。
何とも往生際の悪い事である。
鈍重な馬車が軽快な騎馬から逃げ果せる道理はない。
すぐにでも追いつく事は可能だろう。
そしてジルは先ほどジェードが口走っていたセリフを思い出す。
(老愚――。ははは、全く言い得て妙ですな。しかし――)
この歳になっても未だ執事の仕事1つマトモに出来ぬとあれば、そのような罵りを受ける事もあるだろう。
いつまでも主人やリタ様の温情に甘えている訳にはいかない。
シェールブルクの筆頭執事として、自分は誰よりも手本たる存在としてあらねばならない。
それがこうして出来てない以上、その誹りは甘んじて受けよう。
自身の全身全霊を持って受け入れよう。
だが――
ジルが返り血で滲んだサーベルの柄を握り締める。
眉間には皺がより、瞑目してはいるがその怒りを隠すことができていない。
「――リタ様の歪んだ表情、でございますか。いやはや笑えない冗談ですな」
ジルはそう言いつつも全く笑っていない。
積りに積もった何かが湧き出るのを必死に心の奥底へ抑え込み、平静で表面を固めていく。
だが、それが崩れるのはもはや時間の問題であろう。
(――長時間ぬるま湯に浸かりすぎたか)
久方ぶりの"人斬り"の感覚。
あまりにも長い間ご無沙汰であったこの猛りが、ジルを掴んで離さない。
熱くなっていく身体と頭は思考を制御する事を放棄し始める。
もういいのではないか?
そんな自問自答がジルに積み重なっては消えていく。
ダメだ、それだけはダメだ。
そう分かっていても本心は自分を誤魔化すことはできない。
見ないフリをして来たというのに。
ここまで歯を食いしばって何もしてこなかったというのに。
これではまた、執事としてのあり方を損なう事になってしまう。
主人に顔向けできなくなってしまう。
だが――
抑えきれなくなった何かがジルの胸を少しずつ侵食していく。
途端に覆い隠していた自分の感情が姿を現し始める。
そしてあの光景を、あの時の醜態を。
斬り捨てた死体を背後に、ジルは騎馬の上で記憶を手繰り寄せて行く――。
あの淀んだ泥の城。
あの何もかもが腐りきった強欲の砦。
リヴァインオルドの屋敷、誰もいない小部屋の片隅で。
彼女はいつも泣いていた。
何がキッカケになったのかは分からない。
何を思ったかなど自分には想像もつかない。
リタ様はいつもの小部屋に数分篭られると、必ず目元を真っ赤にして出てこられた。
隠すように。
逃げ込むように。
人目を憚ってそうしておられるのだ。
剣姫として。
シェールブルクの女として。
決して他人に涙を見せる訳にはいかないから。
『何でもない』
『ちょっと目にゴミが入っただけ』
言い訳は呆れる程いつも同じで、部屋から出てきたリタ様は絶対にそれ以上涙を見せる事は無かった。
だから自分は知らない、見ないフリをしたのだ。
そうしなければならなかったから。
それはリタ様と自分が最初に屋敷に訪れたあの日――。
ジェード様が、リタ様に殴り飛ばされたあの日も、例外ではなかった。
あの体躯の大きなジェード様に、想像も付かない事を迫られたのだ。
覚悟してリヴァインオルドに来たとは言え、12歳の少女にとって、その恐怖は計り知れないものだったろう。
声を押し殺して泣くあの悲痛な声を、自分は生涯忘れぬだろうし、自らの恥として背負って行くつもりだ。
向き合うつもりはない。
結婚するつもりはない。
そう口で言いつつも、リタ様はいつも苦悩しておられた。
このままではダメだと、逃げているばかりではいけないと、何かと思い詰められている様子だった。
しかし当の本人であるジェード様は、いつも邪な目でリタ様を見ていた。
お互いに尊重し合う夫婦としてでは無く、何か別の歪んだモノとしてリタ様を見ているのだ。
彼女もそれに気づいており、それにどう対して良いかがわからず、彼と向き合う事に苦悩を感じていたのだろう。
何もリタ様は初めからジェード様を拒絶しておられた訳では無い。
初めて会った時、嫌々ながらも向き合おうとされたリタ様に対し、それを完膚無きまでに踏みにじったのは他でも無いジェード様なのだから。
しかしそれでもリタ様は未だにあの歪んだ屋敷におられるのだ。
やろうと思えば無理矢理にでもリヴァインオルドの屋敷を後にし、シェールブルクに戻る事だってできるのだから。
もちろん伯爵からはこっ酷くお叱りを受けるだろうが、伯爵はリタ様を再び送り返すなんて事はしないだろう。
確かに両家の仲は悪くなるだろうし、資金援助の話も流れるだろう。
だが財政再建のやり方は他にもある。
リヴァインオルドとの縁で資金援助が受けられ無くとも、直ぐに家が潰れる訳ではないのだから。
リタ様もそれくらいは承知の筈だ。
だがリタ様はどれだけ口では嫌がっても、決してリヴァインオルドから逃げようとはしなかった。
自分のせいで婚約が破談になってしまえば、シェールブルク領内全ての人々に迷惑がかかってしまう。
その重責がリタ様に重くのしかかり、逃げる事を決して許さない。
そうして彼女に少しずつ、少しずつヒビが入っていったのだ。
『――歪んだ表情を拝んでやる』
再びジェードの言葉が脳裏を過ぎり、ジルがずっと閉じていた目をゆっくりと開けた。
ジルの顔に、あの優しげな執事の表情は既にない。
鋭い剣呑な眼光が馬車を捉え、睨み付けるようにジェードを見る。
それはかつて、ジルが"幽鬼"と呼ばれた剣豪のそれと同じである。
これまでは自身の立場を弁え、ジェード様の目に余る行為にも目をつぶってきたが――
ここは誰の目も及ばぬ僻地の街道。
何をした所で証拠などいくらでも隠蔽できよう。
ジルは自分が何をしようとしているのかちゃんと理解していた。
だが、いつもであればそれを止める筈のストッパーが全く働いていないのだ。
ジルは馬の腹を脚で叩き、少しずつ馬を走らせ始める。
そして恐ろしく低い声で、こう呟いた。
「――その傲慢極まる性根。俺が手ずから引き摺り落としてやろう」