リタの激情
町の東端。
そこに一際目立つ城のような豪邸が鎮座している。
城壁のような高い塀は広大な敷地を囲っており、その中に白と薄い青を基調とした屋敷どっかりとそびえ立っている。
ジェードの実家、リヴァインオルド家の本邸である。
そんな街1番の大豪邸の中庭。
藍色の短髪を綺麗に整えた1人の少女がポーっとベンチに座っている。
傍らに長剣を携えてはいるものの、それを手に取る素振りはない。
ただ空を見上げてぐでんとベンチに身体を預けている。
辺りではそんな彼女を見ながらフリフリのスカートを穿いた屋敷お抱えの使用人の女性達が何やらヒソヒソと囁きあっている。
そんな使用人の女性達から聞こえてくるのは穏やかなものではない。
「リタ様とジェード様が破談寸前になってるって噂、本当みたいよ」
「ええ!? なんで今更そんな話になってるの!?」
「なんでもリタ様がジェード様にこっ酷く恥をかかせたそうよ。それも冒険者ギルドで、大勢の人の前でね」
「でも今回の婚約が破談になったら、困るのはリタ様のシェールブルク家の方じゃないの? 確かシェールブルク家って――」
「ええ。国境の魔物の異常発生で財政難に陥ってるそうよ。両家が結ばれればジェード様のリヴァインオルドから資金援助するって話だったけど……」
「破談になったらそれも白紙ね」
そんな使用人達の井戸端会議の元へ、1人の老執事がわざとらしく足音を立てながら近づいて行く。
かの御仁はまごう事なき老人である。
だがその出で立ちと一本の真剣のような雰囲気は、見る者が見れば相当の修羅場を潜った猛者であると分かる。
彼の眉間にはシワがより、怒りの形相が見てとれる。
彼女たちは彼の姿を見ると慌てるように散って行き、自分たちの仕事の持ち場へと戻っていく。
老執事はそんな使用人達の背中を見送りながら表情をいつもの優しげなモノへと変え、一息ため息をついた。
そしてそんな表情のまま藍色髪の少女へと視線をやると、痛々しげに目を伏せる。
藍色髪の少女が彼の視線に気がつくと、彼女はにへらと笑って手を振った。
老執事はやれやれと言ったように渋い表情を浮かべると、彼女の方へ歩み寄る。
「また黄昏れておられたのですかな、リタ様」
老執事はまったく……と言った風に困った表情を浮かべている。
「あらー、見られちゃってたか」
リタはわざとらしく舌を出しながら小さく笑う。
「……はしたのうございますぞ。もっと淑女として自覚を持った行動を心掛けてくだされといつも言っておるでしょうに……。旦那様もいつも言っておられたでしょう? 由緒正しきシェールブルクの名に恥じぬような振る舞いをせよ、と。その言葉、よもやお忘れではありませんな?」
藍色髪の少女リタは、そんなの分かってるといった表情で口を尖らせながら、脚をベンチの上でパタパタと動かした。
サラサラと流れる風がリタの髪を撫でる。
そんな風をよそにツンツンと長剣の柄を人差し指でつつくリタ。
「まだ剣を捨てる気にはなりませんかな?」
老執事がリタへそう言うと、リタはむっとした表情で彼を見た。
老執事はそんなリタの反応を始めから分かっていたようだった。
予想したかのように肩を小さくすぼめて、「左様ですか」と言う。
するとリタは何も言わずにプイっとそっぽを向いた。
老執事は決して意地悪でそんな事を言ったのではない。
リタもそれくらいは分かっている。
だが老執事は定期的にリタへ剣を捨てる気になったのかと尋ねている。
それは最早恒例の会話となっており、リタの返事はいつでも無愛想な表情による否定だった。
リタも分かっている。
シェールブルクの女である自分はいつか剣を捨てねばならない、と。
貴族に生まれたからには自らの人生を自分で決める事はできない。
実家に命じらればそれに従う他ないのだ。
老執事は小さくコホンと咳払いをすると、話題を変えるように言った。
「そういえば現在ジェード様はどこかへお出かけになられているようですな。お戻りになられましたら、たまにはリタ様の方からご挨拶に行かれてはどうですかな?」
「嫌よそんなの」
リタはバッサリと切り捨てるように拒否する。
顔を歪ませるほど嫌らしい。
老執事は先ほどの使用人達の噂が眉唾ではない事を薄々感づいていた。
リタとジェードは典型的な政略結婚の犠牲者である。
リタの実家であるシェールブルクは古くからある名門中の名門で、爵位は伯爵で貴族の中でも地位の高い一族である。
対してジェードの実家であるリヴァインオルドは比較的新しい新興貴族であり、辺境伯とは言えその手腕で短期間で巨万の富を築いたいわゆる成金貴族である。
対照的な両家であるが、この婚儀はシェールブルク家の資金難の解決と、リヴァインオルド家の名声の向上が主な目的となる。
近年国境付近の異常な魔物の大量発生に追われるシェールブルクは、リヴァインオルドから資金援助を受け。
反対に成金新興貴族と揶揄されるリヴァインオルドは、名門貴族であるシェールブルクの血を入れることで家格を上げる。
正に貴族同士の典型的な政略結婚といって差し支えない、どこにでもある大人の事情という訳だ。
正確にはまだ犠牲になったとは言えないにせよ、両家が決めた事であれば本人は勿論のこと、誰にも覆す事はできない。
筈であった。
元々リタ様とジェード様は相容れない様子ではあった。
高圧的で自尊心の高いジェード様と、一本の鉄のように真っ直ぐなリタ様。
2人の相性は控え目に言っても最悪であった。
リタ様とジェード様が初めて顔を合わされた日。
リタ様は誰が見てもスラっとした美人である。
ジェード様はそれを見て気持ちが逸ったのか、リタ様へ執拗に迫ってしまい、最終的にリタ様がジェード様を剣の柄で殴り倒してしまうという事件があった。
そして遂最近のこと。
2人に何やら更に決定的な決別があったのだろう。
老執事は長年の経験からそう感じ取っていたのだ。
老執事はリタの父親であるシェールブルク伯爵から、リタとジェードをくれぐれも頼むと厳命を仰せつかっている。
だが2人の溝は一向に深まるばかりである。
この広大な敷地の豪邸。
それらは全てジェードの父である"ジェノバ・リヴァインオルド辺境伯"の本邸だ。
リタはこのリヴァインオルドの屋敷で1カ月ほど滞在する事になっている。
この老執事ジルと共に。
滞在理由は建前上では"遊学"ということになっているが、主目的はリタとジェードの距離を縮める事にある。
つまり簡単に言えば正式な結婚の前に仲良くなっておけ、という事だ。
だが現状、このままでは結婚はおろか両家に修復不可能な溝を生んでしまうことにもなりかねない。
シェールブルク伯爵家の財政難を救うどころか、更なる厄災の種を蒔きかねない事態なのだ。
故に老執事ジルは頭を抱える他ないのである。
だがその反面、婚約が成立しないのであればそれで良いのではないかとも思っていた。
幼い頃からリタを見てきたジルにとって、失礼な事とは承知しつつも、リタは自分の娘のような存在であった。
ジェード様は正直に言うと人格的にも容姿的にも褒められたものではない。
常に高圧的で誰かを見下し、獲物を見つけては徒党を組んで徹底的に痛めつける。
そんな人間の風上にもおけない最低な男だ。
リタ本人が嫌がるのも当然であるし、ジルにしてみても正直なところ気が進まないというのが本音だ。
主人であるシェールブルク伯爵の厳命であるため、何とか2人をくっつけようと奔走しているものの、嫌々やっている自分にすぐに気が付いた。
そう感じた時から、ジルは2人をくっ付けるという事を積極的にはしなくなった。
基本的にはリタのやりたいようにやらせ、最近やっている事と言えば行き過ぎた行為やだらし無い所作を注意するくらいのものだ。
執事失格。
そんな烙印を押されても文句は言えないだろう。
ジルは遠い目をしながらそんな事を考えていた。
リタはそんなジルを見ながら首を傾げていた。
そこでジルは我に返り再びコホンとわざとらしく咳払いを挟む。
「嫌ともうされましても、ジェード様はリタ様の伴侶になられるお方でありましょう。 執拗にお共をしなされとはこのジルも申しませんが、そこまで邪険にされずともよろしいのでは?」
ジルは白々しく心にもない事をリタへ問うた。
予想通り嫌そうな表情が返ってくる。
「あんなのと伴侶だなんて死んでもごめんだわ。豚と結婚した方がマシよ」
ジルは思わず吹き出しそうになるのを堪えた。
そして今度こそ自分は執事失格だと確信した。
「はっはっは。それはあんまりなお言葉ではございませぬか? ジェード様にもきっと良いところがございます。リタ様はまず、それを探す努力から始められてはいかがでしょうかな?」
嘘である。
そんなものを探す旅に出た日には絶界の大森林まで迷い込んでもまだ見つからぬだろうなと、ジルは思った。
「冗談言わないでよ。あんな自尊心と性欲の塊とっとと絶界の大森林にでも捨ててくればいいのに」
同感です。
ジルは心の中で呟いた。
「ははは。これはこれはお戯れを。まあ程度はあるでしょうが、性豪は一概に悪いこととは言えませぬぞ。英雄色を好むと言いますし、好色家は何かと成功者が多いのも、歴史が証明しておりますからな。……ああそういえば、今日も新たに奴隷を取引なされていましたな。それもなんと治癒術師の若い女性――」
リタはその言葉を聞いた瞬間、顔色を変えた。
「今何て言った……?」
「……は? 英雄色を好むですかな?」
「違うわよ! その後! 若い女性の治癒術師って、それ本当!?」
「は、はあ。確か今朝方かなり早い時間でありましたかな。10歳にも満たぬ中々見目麗しい少女でしたが、まさか治癒術師だったとは後から聞いて驚きましたな。まあこれは女中の噂であるのですがね。あの歳で治癒系魔技を習得しているとは中々の――、おお、そうでしたな。リタ様も治癒系魔技を11歳の頃に――」
「あーもう! 余計な話が長いのよ! で! その治癒術師の女の子はどうなったのよ!」
「これは失礼致しました。ええ、確かジェード様と何やら応接間にて会話を交わされたあと、昼頃でしたかな? 怪しげな奴隷業者がやってきたらしく、彼らにどこかへ連れて行かれた様でございますな。ジェード様もご同行されたと聞き及んでおります」
リタはそれを聞いて呆然とした表情を浮かべる。
呆れ、軽蔑、そしてそれは怒りへと昇華していく。
リタは奴隷業者に連れて行かれたその治癒術師の少女に心当たりしかなかった。
記憶が正しければ間違いない。
彼女の名前は確か――、確か、
「えー何でありましたかな。確か名前は、名前、……。ああ、思い出しました。噂によると確かアリスという名の少女だったと記憶しております」
リタの中でそれは確信に変わった。
思わず長剣を手に取り、爪が手のひらに食い込むほど鞘を握りしめる。
『アリスを奪う』といったジェード。
そんな彼に剣を突き付けてまで脅したのだ。
臆病者の彼には何もできやしないだろうと考えていたが、それが大きな過ちであったと理解する。
それを見たジルはリタのただならぬ様子に、アリスという少女と何かしら関わりがあったのかと疑問に思う。
だが平民の治癒術師の少女と、伯爵家のご息女であるリタ様に何の関係があるのか全く想像がつかない。
そこでジルは思い至る。
もしや先日リタ様が腕試しをすると言って出て行った際に何かしら交流があったのではないか?、と。
「ジル」
「はい。お嬢様」
ジルはリタのただならぬ様子に気を引き締め、膝を折って頭を下げつつ、リタの続きの言葉を待った。
これこそがリタ・シェールブルクであると言うように、怒りに燃えた表情は何よりも美しく見えた。
下げた頭の下で、ジルは思わず笑みをこぼす。
ジルの腰に下がったサーベルがカチリと音を鳴らす。
それは年季の入った一振りの名剣にすら見えた。
ジルの心が騒ぐ。
久方ぶりの荒事の匂いだ。
(ははは。お嬢様が燃えておる。なんと恐ろしく高貴な出で立ちよ……。この老骨のボロ刀が柄にもなく震えておるわ)
そんなジルを見下ろし、リタが言い放つ。
「リタ・シェールブルクの名において命ず。かの少女アリスを薄汚い奴隷商から何としてでも奪い返しなさい。手段は問わないわ」
「と、言いますと?」
そのジルの返しにリタはフンと鼻で笑う。
あえて言わせるの?分かってるでしょう?
そう言わんばかりの目である。
「当然、奴隷商が抵抗するなら斬り捨てて構わない」
「ははは、そのような輩の対処は無論でございますな。して……、ジェード様は如何にいたしましょうか?」
「……好きなようにしなさい。ジル、あなたにも立場があるでしょうから」
「……」
(激情の中においても、決して冷静さと優しさをお忘れにならぬそのあり方、いやはやご成長なされましたな、リタ様)
そしてジルは恐ろしく優しげな表情でニッコリ微笑む。
「ジル。あなたのボロ刀の刀身。久しぶりに見せてもらうわ」
ジルにとってそれはこれ以上ない鼓舞であった。
そしてジルは一言返事を返す。
「御意」
そんな時であった。
1人の若い男性が転がるように中庭へ飛んできた。
顔面を蒼白に染め、縋るような顔で辺りを見渡している。
そして男性はリタとジルがいるのを見つけると少しだけ安堵した表情を浮かべ、2人の前へ飛び込むように転がり込んだ。
その後ろから兵士が慌てて走ってくると、ジルとリタを見て頭を下げ、「申し訳ありません! 止めたのですがどうしてもと聞かなくて……」と言う。
ふむ、とジルがそれを聞いて男性へ視線をやる。
ただならぬ慌てようである。
ジルは剣呑な表情をいつもの老執事の優しげな顔に変え、男性へとにかく落ち着くようにと言葉をかける。
「ああ……そんな、あれは、しかしそんな事がありえる筈が!?」
「説明せよ。何事か」
ジルの問いに、男性は少しずつ落ち付きを取り戻し、顔を上げる。
悲壮と絶望にかられた表情であった。
そしてポツリポツリと言葉を紡ぎはじめる。
「化け物です……。ありえない。こんなとこにいるはずがない! あの業を喰らう悪魔がこんなところに現れる訳がない!」
業を喰らう悪魔。
ジルはそれを聞いて思いつく候補は一つしかなかった。
言わずと知れたギルドのS級指定討伐種、"業魔"
神話の化け物を体現した存在。
その本質は正に悪魔である。
だがこの男性が言うように、"業魔"は絶界の大森林に生息していると言われる魔物だ。
ゆえにジルは疑問を持たざるをえない。
こんな辺鄙な田舎町に現れる事など果たしてありえるだろうか?、と。
答えは無論、否である。
ジルはチラリとリタを見る。
そんなリタはしばし何も言わずに腕を組み、何かを考えるように真剣な表情をしていた。
そして結論が出たと言わんばかりにジルを見ると、リタは彼に命じた。
「あの"業魔"が出たなんて信じられないけど……。まあいいわ。ただ事じゃないのは本当のようだし、私が行って確認する。だからジル、あなたは先程の命令をきちんと遂行しなさい」
「……承知しました。しかしお嬢様。もし仮に"業魔"が本物であれば――」
その言葉を聞いたリタは言葉を遮ってジルへ言った。
「まさか――。ここから絶界の大森林までどれだけ離れているか分かってるでしょう? そんな下らない心配してないであなたはやることをしなさい」
リタの言葉に、ジルはそれもそうかと思い直し、ゆっくりと頭を下げた。
そしてジルはサーベルをカチリと鳴らしながら去っていく。
リタはそれを見送る事もせず、未だに意気消沈している男性へ視線をやった。
「で、その"業魔"はどこにいるの?」