ジェードくんご乱心
「あんのクソアマがああぁぁぁああ!」
ここはリヴァインオルドの本邸。
最上階のジェード・リヴァインオルドの部屋である。
その一角にある執務室で、ヒステリックな男の声が屋敷中にこだましていた。
ジェードは執務室の机を乗っていた書類ごと力任せにひっくり返していた。
部屋の端っこに控えていたいつもの腰巾着2人組が震え上がる。
机は物凄い勢いで部屋の外へぶっ飛んで行き、近くを通り掛かった屋敷の使用人の女性が悲鳴をあげる。
ジェードはハアハアと肩で息をしながらも歯を剥き出しにしながら、あのギルドでの屈辱的な一幕を思い返していた。
「絶対に……! 絶対に許さんぞ! あんの潰れかけの貧乏伯爵の小娘がぁ! こ、こ、こ、このジェード・リヴァインオルドをこけにしやがって! 必ずだ! 必ず後悔させてやる! あの痴れ者めがああぁぁぁ!」
ジェードは立て掛けてあった実剣を思い切り書斎の本棚に叩きつけた。
途端に派手な音が響き渡り、本がバラバラと落ちて山を作っていく。
「ギタギタのぐちゃぐちゃにしてやる……! 無論! あの薄汚い空魔奴も一緒にだ! 引き裂いて引き千切ってこの世の全ての苦痛を味合わせてやる!」
ジェードの視線はもはや焦点が合っていない。
怒りで街の一角を魔技で吹き飛ばしてしまおうかといった所を、慌てて腰巾着2人に止められたばかりである。
このリヴァインオルドの嫡男であるジェード。
彼は何よりも屈辱を受ける事を嫌い、そして自らが全ての上に立っていなければ気が済まない。
自分の欲しいものは全て手中に収め、気に入らないものは全て排斥する。
それを可能にしてきた彼を取り巻く環境こそ、この怪物を生み出した原因であるとも言える。
それはもはや哀れですらあった。
ジェードは現在齢18歳。
この歳で大変な好色家である。
彼は辺境伯の嫡男という立場を利用し、これまで気に入った女性はどんな手を使ってでも手に入れてきた。
そして飽きては捨てるといった身内すらドン引きの行為を平然と繰り返している。
そんな彼だが、唯一手に入れる事が出来なかった女性がいる。
その女性の名前はリタ・シェールブルク。
親同士の決めた政略結婚の相手で、彼の婚約者である。
しかし婚約者が手に入らないなどとはおかしな話である。
だがジェードにとっての女性というのは、自分の言いなりになる都合の良い玩具でしかない。
いつでも好きな時に好きな事をやらせてくれた上、何でも言うことを聞いてくれる。
ジェードはそれこそが自身の側に仕えるべき伴侶であると心から思っていた。
『触らないでって言ってるでしょう!』
リタからそう怒鳴りつけられ、彼女の持っていた長剣の柄で殴り飛ばされたあの日の事を、ジェードは未だに根に持っていた。
綺麗に並んでいたジェードの歯は、今や三分の一が入れ歯である。
リタは見目麗しい女性であった。
まだ少女といって差し支えない歳ではあるが、その立ち振る舞いや言動には年齢以上の風格があった。
そしてかの有名な"剣姫"の称号を最年少で与えられた若き剣の天才でもある。
そんなリタを周りの野郎達が放っておく筈はなく、彼女へ近付いては一蹴される者が後を絶たない。
ジェードはそんなリタを一目見た時から心に決めていた。
妻ではなく、本当の意味で自分のモノにしてやる。
ジェードはそう舌なめずりをしていたのであった。
だがその思惑は見事に外れた。
理由は至極簡単。
リタはジェードには手に余ったのだ。
極め付けは今回の冒険者ギルドでの一幕である。
ジェードは、力試しなどという訳の分からん事を言いながら屋敷を飛び出して行ったリタを追いかけ、強引に屋敷に連れ帰ろうと思っていた。
だがジェードはリタを追いかけて向かった先のギルドで、信じられないモノを見てしまう。
ジェードがいくら迫ろうと全く相手にしなかったリタ。
そんな彼女が自分にすら見せた事の無い笑顔で自分以外の誰かと仲睦まじく話しているでは無いか。
そしてジェードはそんなリタが話している相手を見て驚愕の表情を浮かべる。
なんと、ソイツはいつもジェードが弄んでいる卑しい空魔奴であったのだ。
その時、ジェードの中で何かがふつふつと燃え上がった。
ジェードは当初、適当に親の話でもチラつかせてリタを連れ帰ろうくらいに考えていた。
だがそんな2人の様子を見てどす黒い感情がふつふつと彼を支配していった。
続いて怒りと殺意が彼を包み込み、ゆっくりと侵食していく。
だが怒りのままリタに詰め寄ったジェードは、更に驚愕し、恐怖へと顔を染める事になる。
リタは今までジェードがどんなに迫ろうとも1度たりともジェードに向けて剣を抜く事は無かった。
だがリタは空魔奴を庇うためにあっさりとジェードに剣を突きつけたのである。
意味がわからなかった。
なぜこの女はここまで自分の思い通りにならないのか。
なぜこの卑しい空魔奴などというゴミクズを守り、自分に対して怒りに震えているのか。
理解できない。
なんなのだこの女は。
実力では剣姫に到底敵わないジェード。
彼は困惑しながらその場から去るしか選択肢は無かった。
そして現在。
リヴァインオルドの屋敷に戻ってきた彼は我に返り、怒りを抑えきれずに暴れまわっているという訳である。
そんな事があった次の日。
リヴァインオルドの屋敷に1人の少女が訪ねて来た。
あいにく父は留守であったが、聞く話によればただの薄汚い平民であるとの事。
だがジェードはそれが若い治癒術師の少女であると聞いてピクリと反応する。
さらに詳しく話を聞けば、町の孤児院で働いており、ほとんど歳の離れていない兄がいると言う。
ジェードはそれを聞き、顔を歪めて笑みを浮かべた。
そしてジェードはそんな知らせを持ってきた男に抑えきれぬ笑みを見せ一言。
「通せ」
そう言った。
◇◇◇
「アリスと申します。突然の来訪、誠に失礼と存じますが――」
「あーよい。面倒な挨拶は抜きだ」
ジェードは飛び上がって小躍りしそうになるのをグッと堪えて平静を装っていた。
何せあの空魔奴の妹が自ら手の平に舞い込んで来たのだから。
リタのお気に入りであるあの空魔奴の妹である。
どう利用してやろうかと考えただけで口角がつり上がっていく。
そんなジェードの内心など知る由も無いアリスは、不思議そうな顔で本や木片が散らかっている部屋を見ている。
しかしジェードはギルドでの騒動で、アリスを奪うとは言ったもののそれが困難であることは承知だった。
アリスはこの町でかなりの有名人である。
美麗な容姿もさることながら、希少性の高い治癒系魔技の使い手であり、孤児院で働いている数少ない治癒術師だからだ。
そして極め付けは兄である空魔奴の存在が大きいと言えよう。
まあこちらは悪い意味で有名ではあるが、名が知れている事に変わりはない。
さすがのジェードもこれ程にまで有名なアリスを強引に手中に収めるとなると難しいと言わざるを得ない。
ただでさえ好色家として名が広まってしまっているジェードである。
アリスを強引に連れ去りなどすれば、疑いの目を向けられるのは容易に想像できる。
だがアリス自ら屋敷に来たとあれば話は別である。
アリスがここに来るまでに多くの者が目撃しているであろうし、屋敷の中であればどう料理しようとなんの証拠も残らない。
あとは適当に町を去ったなどと噂を広めればいい。
重要なのはアリス自らが屋敷に訪れたという事実なのだ。
それさえあれば、あとは多少の疑いをかけられた所でどうとでもなる。
だが冒険者ギルドで頭に血が上り、公然と「アリスを奪う」などと言ったことは本人はとうに忘れていた。
ジェードはそんな浅はかな考えを頭で整理しながらニヤニヤとアリスを見た。
アリスはそんなジェードを見ても特に表情を変えるでもない。
ただただ作ったような笑みを貼り付かせている。
だが一向に何も言ってこないジェードにアリスは内心に怪訝なものを感じていた。
そしてアリスは貼りついたような作り笑みを浮かべたまま、言葉を選びながらジェードへと尋ねた。
「失礼を承知で申し上げます。ご容赦下さい。書面を確認したいのですが、よろしいでしょうか?」
ジェードはそのアリスの言葉を聞いても表情を変えなかった。
だが、内心に芽生えたのは「?」である。
そんなジェードは今更ながらにアリスが屋敷へ来た理由を考えていた。
だが考えれば考えるほど理由らしい理由が見当たらない。
(書状? そんなもの俺は知らんぞ)
何の返事もしないジェードに今度こそ不信感を隠せなくなったアリスは、続けて質問を投げかける。
「……ご当主ジェノバ様はいらっしゃいますか? 確か今日は一日屋敷におられるとの事でしたが」
そこでジェードは何となく理解した。
この女は自分の父であるジェノバ・リヴァインオルドと何かしらの繋がりがあるのだと。
自分の知りようもない何かが。
今、ちょうど父上は緊急の用事で出ておられる。
アリスはその間にたまたま訪れたのだ。
だが少なくともアリスは自ら屋敷に来ているのだ。
つまりは両者が納得した上で何かしらの取引があったのだろう。
だがジェードはそれが心底気に食わな買った。
(この俺を差し置いてコソコソと妙な真似をしてくれる。思惑通りに事が運ぶと思うなよ)
そこでジェードは決心した。
父上には悪いがこの女は自分の好きなようにさせてもらおうと。
ただの平民の卑しい女1人だ。
なぜそんなゴミと父上に繋がりがあったのかは分からないが、たかがゴミ1匹、自分の好きにしたところで特にお叱りを受けることも無いだろう。
途端にジェードの顔が恐ろしく歪な笑みでひん曲がり、それをみたアリスが身震いした。
ジェードは相変わらず部屋の隅に控えている腰巾着2人へ目配せし、アリスを取り囲むように3人で杖を突き付けた。
それを見たアリスは唖然とした表情を浮かべ、直ぐに状況を理解し、信じられない者を見るかのような軽蔑の眼差しをジェードへ向けた。
ジェードはそんなアリスを見てキヒヒと笑う。
「まるで何の真似だと言いたげな顔だなアリスとやら。……ああそれだよそれ。俺は貴様のそんな顔が見たかったのだよ。キヒッ。失敬、笑いが収まらなくてね。いやあ愉快愉快。女共は皆最初はそんな顔をするんだがな。すぐに俺に従順になり媚びへつらう様になる。ああ、人の心のなんと絢爛なことか。こうな、絶望と希望の絶妙なさじ加減が大事であるのだがな。常に希望をぶら下げておくのがコツであるな。……ああ話が逸れたがつまるとこ言いたいことはこうだ。人で遊ぶ。この世にこれ以上の楽しみがあると思うか? んん?」
「……清々しいほどの下衆ですね。私に杖を向けるというのがどういう意味を持つのか知らないようですから、ジェノバ様から何も聞かされていないのですね」
それを聞いたジェードは怒るどころかさらに顔を歪めて笑った。
「キヒッ! 下衆? 馬鹿か貴様は。俺はそんな生易しいモノではないわ」
ジェードそう言い放つと身の毛のよだつような笑い声を上げた。
アリスの血の気が引いていく。
そんな2人の様子をアリスへ杖を構えたまま見ていた腰巾着の内の1人が、ジェードにドン引きしながらも恐る恐る進言した。
「あの……ジェード様」
「キヒヒ……なんだ」
ジェードは水を刺されたとでも言わんばかりに苛立たしげに腰巾着を見た。
腰巾着はそのジェードに身震いしながらも何とか進言を続ける。
「この者をどうされるおつもりで?」
「決まっておろうが。尊厳と人格を余すことなくすり潰すのよ」
やっぱり……。腰巾着は心の中でそう呟く。
「ジェード様。お忘れではありませんか? 現在この屋敷にはリタ様がおられるのですよ? 彼女に隠れてそんな事が出来るとお思いですか?」
「……」
ジェードはその言葉を聞きハッと思い直し、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
こんな事がリタに見つかれば今度こそ斬られるかもしれない。
ジェードはリタに殴られた時の事を思い出し、身震いする。
そして思い付いたようにニヤリと笑うと、腰巾着へ視線をやる。
「……ならば奴のおらぬ所で事に及ぶまでよ。贔屓にしておる奴隷商ならいくらでもおるからな。こやつを奴隷商に連れて行かせ、場所を俺だけが知っておれば……。そうか、そういう使い方もできるな」
嬉しくて堪らない。
ジェードはそんな心地でアリスを見た。