幼馴染メアリー・スー
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最初にメアリー・スーという名称が世に出てきたのは1973年のことだ。『スタートレック』の二次創作小説「A Trekkie's Tale」に登場したヒロイン、それがメアリー・スー大尉である。作中においてメアリー・スーという女性は「艦隊で最年少の大尉」や「年はまだ15歳と半分」など非現実的な描写をされている。しかしそれこそがメアリー・スーという概念の大本なのだ。
最年少かつ最優秀、登場人物たちから敬愛される、驚くべき能力で活躍する、他人と違う出生など秘密がある、死ぬときは劇的に死に仲間たち全員が悲しみに暮れる等々非現実的要素をてんこ盛りした存在はいつしかメアリー・スーという名の二次創作用語として今まで世間に広まってきた。
もちろんそんな最年少かつ最優秀だとか非現実的すぎる存在は現代の社会においているわけがない。いるわけがないのだが、もし類似するような女性をあげるとしたら彼女がそれにあたるのだろう。
年があけ、冬休みが終わり、学校が始まる。休み明けの教室は談笑する女子生徒や終わらなかった宿題に必死に取り組む男子生徒の咆哮に近いかけ声などで喧騒に包まれていた。
その中でも取り分け騒がしいグループを半田香奈は苛立たしげに見つめていた。グループの中心では1人の少女が周りの生徒の話に耳を傾け、微笑んでいた。
長いまつげ、大きな瞳、日本人にしては高めの鼻、一つ一つのパーツが整っている彼女は誰が見ても美少女と言うに相応しい容姿と言えよう。実際彼女は入学してから今に至るまでの9ヶ月程の間で何十、下手したら百を越す数の生徒に告白されてきた。その度に彼女は幼馴染である香奈に相談をしてきたが、そんなの香奈の知ったことじゃない。毎回適当に「断っておいたら」と言っていた。
そのせいで彼女は未だに彼氏も彼女もいなく、いつの間にかできていたファンクラブではどうすれば難攻不落の彼女をおとすことができるか議題にあがるほどの話にまでなっていた。
「おはよ~香奈~」
香奈が彼女のことを見つめていると教室の後ろのドアから1人の女子生徒がポワポワとした雰囲気をかもしだしながら入室してきた。香奈には振り向くまでもなくその声の主が誰か分かった。女子生徒の名は田中燐、香奈の数少ない友人で同じ文芸部の生徒だ。
「おはよう、燐」
「朝から凄いね~冴木さん」
「まぁあいつは昔からだからな」
「幼馴染は慣れてるね~、それよりもうすぐ始業式始まるけど体育館行かなくて良いの?」
「!?…そんなわけないでしょ、燐を待っててあげたの、早く体育館行こ」
待ってたというのは当然嘘で香奈は始業式のことなど完全に忘れていた。しかし認めるのも癪だから適当に言い訳をして燐と共に体育館に向かう。
体育館はまだ空いていて燐のことを咎めようと思ったが、次第に一箇所の出入り口に生徒が集中して人ごみとなった様子を見てその気はなくなった。
やがて全ての生徒が体育館に入り、進行役が始業式の始まりを伝えて始業式が始まる。始業式自体はなんてことなく、普通に進んだ。校長先生の30分近い長話も生徒指導部の先生のうざったい注意もいつも通り普通だ。一点を除いては。
「次に生徒代表の言葉、生徒会長の冴木マリさんお願いします」
「はい」
彼女の透き通るような声に体育館が一瞬ざわめいた。腰まで伸びた長い黒髪を揺らしながら登壇する彼女の姿にますます体育館が沸いた。と言っても沸いた生徒が注目しているのは胸だろう。
ただでさえ整った顔立ちをしているのに170という女性にしては高い身長、肉付きが良く、出るところは出ていて、引き締まるところはよく締まっている肉体は男性、下手したら女性ですら魅了してやまない。現に香奈自身も見惚れていたが、同時に妬ましく思っていた。
高校生にもなるのに140しかない身長、よく睨んでいると勘違いされる一重瞼、長さは同じほどだがくせの強い髪、そして貧乳、まさに彼女と正反対といったような体と比較してしまい嫌気が差す。
冴木マリ、1年生にも関わらず生徒会長と陸上部の部長を務め、成績は常に学年トップ、教師や生徒からも信頼が厚く友達も多い。物心ついたときから一緒にいる幼馴染。
彼女がただのクラスメイトならきっと比較することもなく、他人だからと割り切ることもできただろう。だが15年近く一緒に生きてきた香奈の頭の中には冴木マリという存在が根を張り、様々な感情を実らせていた。
いつの間にか始業式は終わり、生徒たちは続々と教室に戻り始めていた。
ボーっと突っ立ったままのマリのことを考えていたため、気づくと体育館は香奈と燐、それと片付けをする生徒会や教師達だけになっていた。
「香奈?戻らないの?」
「ん?あぁ戻るよ」
体育館を出て、1年生の教室がある4階までの階段を上っていく。
「いや~やっぱり凄い人気だね~生徒会長」
「またその話?飽きたんだけど」
「だって凄いじゃんか、もう百回近く告白されてるのに何で彼氏作らないだろうね~」
「私が知るか」
当然、香奈が毎度「断れば」と適当に答えるためである。
「もしかして女の子の方が好きなのかな?」
「女?」
「なに?今のご時勢に女同士なんてありえないなんて言うの?私は偏見なんて無いよ?」
燐が茶化すように訊ねる。別にそれを知って何か意味がある訳ではない、ただ香奈の反応を見たいだけなのだろう。
「は?私だって無いよ別に」
「私も無いよ~」
2人だけで上っていたはずの階段にいつのまにか3人目の人影があった。香奈と燐が振り向くとそこには先ほどまで全校生徒を相手に話していたマリの姿があった。
「冴木さん!」
「メア!」
「やっほー、2人で私の陰口?」
燐だけではなくマリまでも香奈を茶化す。そんなに自分の反応は見ごたえがあるのだろうかと思いながらマリの質問に答える。燐は驚いて声をあげたはしたが、それ以降は極度の人見知りと緊張のため黙りこくってしまった。
「別にそんなつもりじゃないわよ、ただ噂話をしてただけ。それよりメア、用事があったから追ってきたんじゃないの?」
「うん、文芸部の先生が香奈と田中さんに話があるからあとで来てくれって」
「教室同じなんだから急ぎの用事でもない限りここまでしなくてもいいじゃない」
「いや~香奈さんには急いで伝えないと後が怖いですから~」
燐は黙ったまま香奈とマリ2人だけで会話が続いていく。香奈の前だけではマリも冗談を言ったり、茶化したりする。その光景を燐は、人見知りを遺憾なく発揮しながら見守っていた。
「茶化すな、まぁ、ありがとうね、後で先生のところには行っておくから」
「どういたしまして、それじゃまたね、田中さんもね!」
「ひゃい!!」
いきなり声をかけられた燐が素っ頓狂な声を上げたが、マリがいなくなった途端に目を輝かせ、勢い良く香奈に飛びついてきた。
「凄いよ!学校のマドンナの冴木さんとお話しちゃったよ!これで私もリア充の仲間入り!?」
「騒ぐな陰キャ」
「ひどいよ!なんで冴木さんにはデレ度5割り増しなのに私には冷たいの!?」
「そんなデレてないよ、ほら幼馴染特有の~ってやつ、それだよ」
「へ~…じゃあさっきのメアってのも幼馴染特有のやつ?」
「秘密」
そこで会話を打ち切って教室に戻る。燐は終わらせる気はなく、その後も問いただそうとしたがホームルームが始まったため否応なしにその話題は終わることとなった。
その日の授業は午前中は始業式、ホームルーム、冬休み中にたまった汚れを落とすための大掃除という勉強嫌いな学生が喜ぶ時間割だった。香奈もその喜ぶ学生の1人であった。まぁ午後は普通の授業だから一時の喜びに過ぎないのだけど。
それでも普段よりも早く午前授業を終わらせ、燐と机を合わせて弁当を食べる、のだが、ホームルーム中や大掃除中、そして現在も燐がチラチラとこちらを覗いてくることに香奈はいい加減突っ込むべきかと悩んでいた。
「なんなのさっきから」
「…なんの話ですか?」
気づかれたことに焦って敬語を話しているが、本当に気づかれていないつもりだったのだろうか。
「さっきからチラチラ見ていたでしょ」
「…だってさっきのメアっての話してくれないんだもん、そりゃ気になって見ちゃうよ」
「まだそれ?」
ちらり、とマリの方に視線を移す。朝と変わらずクラスメイトに囲まれ楽しそうに談笑するマリの姿がそこにはあった。
――そんなにメアと私の仲が気になるものなのか?
疑問を抱きながらも頭を悩ませた末、話すこととした。
「別になんてことないただのあだ名だよ」
「ふーん、でもメもアも名前に入ってないよね?なんで」
「それは、あいつがメアリー・スーだから」
「メアリー・スーってあのメアリー・スー?」
流石は文芸部員と言ったところだろうか、最初からメアリー・スーの説明もしなければいけないつもりだったが燐が博識だったためその心配は杞憂に終わった。
「だってそうだろ、1年生で生徒会長、部長を務めていて、誰からもチヤホヤされている。まるでメアリー・スーみたいだからメアって呼んでるの」
確か最初に呼び始めたのは中学1年生の時だった筈だ。進学祝でスマートフォンを貰ったことをきっかけに様々な知識に触れるようになり、ある日メアリー・スーという言葉とその意味を知った。その時最初にマリみたいだと思って、それをマリに話して…とトントン拍子で話が進んで、以来ずっとそう呼んでいる。
「それ冴木さんは嫌がってないの?だってあんまり良い意味として使われてないじゃんその言葉」
「全然気にしてないみたいだよ」
「本当に気にしてないの?影では泣いているかもよ?」
「本人がそう言ってたし気にしてないんじゃない?」
「そうかな…」
そう言って考える素振りをしながら燐は黙りこんでしまったが余計に追求されるのも面倒だから話はここ終わりとなった。
「ねぇお昼の話なんだけどさ!」
筈だったのだが、場所は変わって放課後の文芸部の部室、燐が唐突に話を蒸し返してきたことに驚き、持っていた本を落としそうになった香奈が聞き返す。
「昼ってメアの呼び名の話?」
「うん!思ったんだけどさ冴木さんはメアリー・スーじゃないんじゃない?」
「なんで?若くして優秀、誰からも愛されている、完璧にメアリー・スーじゃないの?」
「そこ、誰からもじゃなくない?だって私も含めて学校全体が冴木さんにメロメロになってるのに香奈だけ全然惚れてないじゃん。もし冴木さんがメアリー・スーなら香奈は何者なのってことになるよ?」
「あれ…確かにそうだな…」
今まで考えたこともなかったこと指摘をされ頭が真っ白になる。
――メアリー・スーには幼馴染がいたような描写も、敵がいたような描写もされていない。
本来であれば「それもそうだな」で軽く流せる筈の内容なのだが冴木マリがここに絡んでくると香奈はてんで駄目になってしまう。それだけマリのことで頭がいっぱい、と言ってしまえば簡単だが、香奈のマリに対する執着はもはや生まれ持った性に近いレベルで大きいものだった。
――それならば私は、一体誰なんだ?
◎
今日は休み明けということもあり陸上部の部活動はミーティングだけで終わらせ、16時半には全員帰らせることとした。
軽い足取りで文芸部の部室がある方角へと向かう。目的はもちろん文芸部員である香奈と一緒に帰るためだ。しかし着いたときには電気は消えていて、部室の前で同じく文芸部員の田中燐が鍵を閉めているところだった。
「あれ?田中さん1人?香奈はどうしたの?」
「ひゃぁ!冴木さん!?ど、ど、どうしてここに!?」
いきなり声をかけたためだろうか、燐は声を上ずらせ早口でマリが何故ここにいるのか訊いてきた。
「陸上部が早く終わったから香奈の迎えに来たんだけど、香奈いないの?」
「か、香奈さんでしたら頭が痛いとかで急に帰ってしまいましたので、冴木さんがよろしければ本日は私がお供――」
「そっか、じゃあいいや、それじゃあね田中さん」
燐が何か言いかけていたが珍しく香奈が体調を崩したのが心配で自分も急いで帰り、お見舞いへ向かうこととした。
学校から自宅までの数キロを駆け足で帰り、準備をする。準備をするといっても看病に必要な荷物なら香奈の家にもあるだろうし、足りなければ取りに戻ればいいのだからすることと言ったら邪魔な通学用の鞄を玄関に投げ捨てることだけだった。
「いってきまーす!」
聞こえていたかどうかは知らないが親に伝え、隣の香奈の家へ向かう。チャイムは鳴らさない。というより鳴らす必要もない。香奈とマリの間であれば足音で分かるし、お互い無断で家に入ることもよくある。そのため咎められることもない。
少々乱暴だが香奈の部屋の扉を開ける。部屋の様子は小学校入学当時から使っている勉強机、キャスター付きの椅子、大きな本棚などが並べられた、なんてことない普通の部屋だ。その部屋の端にあるベッドで香奈は眠っていた。
静かに近づき香奈のおでこに手を当てる。少し熱いようにも感じるが見たところ寝苦しそうにも見えないしそんな重症ではないようだ。安心したせいかため息が漏れる。
「?…あれ?メア?」
「ごめん、起こしちゃったね、頭痛くて帰ったんだって?大丈夫?」
眠りが浅かったのか、ため息の音がうるさかったのか理由は分からないが香奈が目覚めてしまったことを軽く詫びて燐から訊いたことを確認する。
「…うん、ただの知恵熱みたいなものだよ、考え事のしすぎ」
「そっか…じゃあ明日欠席ってことにはならなそうだね」
マリが驚いたのはあまり物事に対して執着を見せない香奈が知恵熱を出すほど考え事するなんて初めてだったからだ。そして驚きは同時に疑問へと変わる。
「それで…何について考えていたの?好きな人でもできたの?」
「それは、秘密」
茶化すようにして訊いた質問だったのだが、肯定でも否定でもない反応に困惑する。もし本当に好きな人ができたのだとしたら今度は自分が寝込む番だなとさえ思ったがどうやら違うらしい。
教育が行き届いていると言うべきなのだろうか、香奈は普段から話すときは真っ直ぐな眼差しで人の目を見つめるところがあるが今回はやたらと視線を合わせようとしない。どうやら自分のことなんだろうなとマリは直感で理解した。
「私のこと?」
「ち、違う、自分のこと――」
「じゃあ私と香奈のこと?」
「!?」
香奈は図星と言わんばかりに視線をキョロキョロと動かし、仕舞いには俯いて黙ってしまった。
「今日、燐になんでマリのことをメアって呼ぶか聞かれて話したんだ」
「へぇ、そうなんだ…」
――またメアリー・スーか
香奈がマリに対して様々な感情を抱いていたのと同じようにマリも香奈に対して、というより香奈とメアという呼び名に対してある感情を抱えていた。端的に言ってしまうとマリはメアという呼び名に嫌気が差していた。
最初こそ香奈が冗談で言った「今日からマリじゃなくメアって呼んでみようかしら」という提案に対して乗り気だった。それはあだ名というものに憧れていたというのもあるし香奈が親愛を込めてそう呼んでくれるのが嬉しかったからだ。だが今の香奈はメアという呼び名を通してマリじゃなくメアリー・スーを見ているとマリは感じていた。
そして周りの生徒や教師も自分をメアリー・スーのように偶像として見ているのでは?本当の私を見ている人はいないのでは?いつしかマリはそう思っていた。
当然香奈に相談しようと思った。しかしメアリー・スーとして弱みを見せるわけにはいかない、完璧でなければいけない、といつしか自分自身が偶像に縛られていると気づいたときにはもうこの状況から抜け出せないでいた。
「その時に燐に香奈は何者なのって聞かれてそれで私が分かんなくなってきて、それで悩んでいたの」
「そう…」
結局、悩みを打ち明けることもできず1人なままのマリは香奈の相談に乗れる状況ではなかった。
「…私にはそれは、答えられないや、ごめんね」
「え?どうしたのメア」
「メアじゃない!!あっ…ごめん」
普段は意識していなかったが久しぶりにメアリー・スーという名前を聞いて意識していなかった自分の現状、他者からの視線、抜け出せない自分の不甲斐なさ、それらを思い出し、怒りから意図せず香奈を怒鳴ってしまったことをマリは咄嗟に謝る。
香奈は怒鳴られたことに怒ってはおらず、どちらかと言うと驚き、動揺しているようだった。
「私、もうやめたいよ…全部、投げ捨てて、またただの冴木マリに…」
「メア…」
「…ごめん、今日はもう帰るね」
これ以上いたらまた怒鳴ってしまうような気がしたマリは身を翻し、家まで戻った。
残された香奈は先ほどまでの悩みを忘れ、マリのことを案じていたが初めて見たマリの怒った姿とその要因を自分が作ったことのショックで動けずにいた。
「頼りにしているよ生徒会長!」「よろしくね陸上部部長」
「やめて!!…夢?」
喧嘩別れするような形で香奈の家から帰って不貞寝したはずのマリだったが悪夢によって目を覚ました。最近ではこの、周りからの期待の目で見られる夢ばかり、いっそのこと全て夢だったら幸せなのに、と思わない日は無い。
寝ている最中にかいた汗を流しにシャワーを浴びに浴室へ行く。その後キッチンでコップ一杯の水を飲み干す。ふと時計を見ると針は深夜3時を指していた。眠りすぎとも思ったが、それほど疲れていたのだろう、肉体的にも精神的にも。
自分の部屋に戻り、スマートフォンを見る。通知が数件、くだらない内容ばかり。その中に香奈からのメッセージは無かった。
――怒っているのかな、急に怒鳴っちゃったんだもんね、明日謝らなきゃ。
気になって香奈の部屋と向かい合った窓のカーテンをめくってみる。意外なことにカーテンの先では香奈も自分と同じようにカーテンをめくりこちらを伺っていた。
こちらが香奈の存在に気づくとすぐさまカーテンを戻し、隠れてしまったが。一瞬だが目が合ったのが分かった。
――あの後、何回も気にしていてくれたのかな?だとしたら嬉しいな。
ブーと手元のスマートフォンが振動し、新たな通知が画面に表示される。新しくメッセージが来たことを知らせるもので送り主は香奈だった。急いでアプリを表示する。
画面には短く「今日はごめん」と一言だけ書いてあった。見る者が見れば謝る気はあるのか、と憤るかもしれないがマリにはこれが、心からの謝罪であることが理解できた。
他の友達どうしの喧嘩がどれほど長いものかは分からないがマリと香奈は喧嘩してもすぐ仲直りして、次の日には何もなかったかのように登校するのが常だった。理由は簡単、意地を張って疎遠になるよりも1秒でも早く仲直りして一緒に過ごすほうが精神衛生上良いからだ。
――これを打つためにこんな時間まで起きてたんだ、嬉しい。やっぱり好き。
「ううん、こっちこそ怒鳴ったりしてごめんね」と打ちこみ、謝罪用のスタンプと共に送信する。既読がつくのに1秒とかからなかった。香奈はきっと明日目元にクマをつくって登校するんだろうな、など想像をしているうちにマリの悩みは頭の中から消えていた。
その後、マリは数時間に渡って眠ったにも関わらず床に就いた。しかし今度は悪夢を見ることもなく安らかに体と心を休め、翌朝元気そうに香奈の家の前にいた。それとは反対に香奈はと言うと、予想通り目元に大きいクマをつくって家を出た。普段となんてことない、変わらない朝、違うのは目元のクマとあと一つ。
「おはよう香奈!」
「おはよう…メ、マリ」
中学校から3年近く呼び続けていたためそうすぐには直せないだろうが、香奈がメアリー・スーとしてではなく普通の幼馴染の冴木マリとして自分を見てくれるようになった。
「慣れないなら無理しなくていいのに」
久しぶりに香奈に名前で呼ばれた嬉しさを誤魔化すように茶化してみるが、そんなの見透かしているかのように香奈は微笑む。
「嬉しいなら認めなよ、貴女が喜ぶなら私はなんでもしてあげるよ?」
「そっか…じゃあ次私が昨日みたいに困っていたら助けて頂戴ね」
「…ん」
意趣返しとばかりに茶化す香奈に対してマリは「へへへ」と困ったように笑って言ってみせた。それに香奈は短く、けれど真剣な様子で返した。数秒ほど2人の間に気まずい空気が流れる。
「じゃあ行こっか」と沈黙を破るようにして放たれたマリの言葉と共に2人は学校へ歩きだした。
◎
学校に到着後はお互いの席に着き、マリは周りの生徒と、香奈は燐と会話を弾ませる。
「それで結局メアからマリに戻ったわけ?つまんないな~」
「あのなぁ、誰の発言が原因でマリと揉めたと思ってるんだよ」
燐の発言に呆れながら言葉を返す香奈だが心の中では燐に対して感謝していた。
燐の発言が無ければ香奈は自分の存在に頭を悩ませ早退することはなく、早退していなければマリがお見舞いに来ることは無く、お見舞いに来ることがなければ2人は揉めることもその後さらに仲を深めることもなかったからだ。
そしてさらに言うならば仲を深めたことでマリをメアリー・スーと思わなくなった。それは香奈の頭の中を埋め尽くしていた巨大な感情をマイナスなものからプラスなものに変えることへと繋がった。
――私の悩みは無くなった。でもマリは?マリは今もこうして生徒会長や部長の責務に頭を悩ませている。
ちらりとマリの方に視線を移す。今までは巨大なマイナスの感情が邪魔をして正しく見ることはできなかったが今の香奈には分かる。マリが学校のマドンナとしてちやほやされることを嫌がっていると。
――いつかはマリのことも救わなくちゃいけないよな
「まあ別に呼び名が戻った程度で付き合うとか変わる訳じゃないよね、いつも通り冴木さんは学校のマドンナだし」
「そう、いつも通り、一緒に登下校して、休日はお互いの家に行くかショッピングするかで一緒に過ごす、ただいつも通り、なにも変わらない」
「ちょっと待って、それ付き合ってるのと変わらなくない?」
「え?」
そう、いつも通り。たかが呼び名が変わったからと言って何か変わる訳じゃない、いつも通り過ごすだけ。しかし時間の力は偉大なもので、いつも通りがいつも通りじゃなくなる日がいずれは来る。そして、それはすぐに訪れた。
2月14日、バレンタインデー当日、当然といえば当然なのだが、学校に着いたときすでにマリの下駄箱は扉を閉じることができないほどチョコレートが大量に押し込まれており、靴は取り出せそうにないマリは自信なさげに「どうしよ…」と言うことしかできなかった。
「紙袋いる?」
「…うん」
見かねた香奈が鞄の中から折りたたまれた状態の紙袋を差し出した。当然自分がチョコを大量に貰えると予想した訳ではない。マリのことだから、と2つほど用意しておいたのだ。
ありがたくいただいたマリは乱雑にチョコを下駄箱から掻き出し紙袋に入れる。チョコに埋もれる形でラブレター――きっと放課後にチョコを渡すから来てくれという内容だろう――も数通入っていたのだが今日ばかりは荷物をこれ以上増やしたくないだろうからマリも読まずに帰るだろうと香奈は予想した。
「はぁ…」
「食べきれる自信が無いなら帰った後で一緒に溶かしてチョコケーキでも作ろっか」
これが一日中続くのか、と言いたげにため息を吐くマリに香奈が助け舟を出す形で提案する。もちろんマリが頭を悩ませているのはチョコの処理の方法ではなく、全校生徒と言っていい数から好意を向けられることにだ。それを解決できる訳ではないが気を紛らわせれば、とばかりに放った提案にマリは快く応じた。
「でもこのチョコきっと高いのも含まれてるよね」
「そうだな、溶かして混ぜたらケーキがおいしくなるな」
そうこうしている内に教室の前まで到着したが、教室の外は人に溢れていた。その全員がチョコを持っており、マリを見るや否やゾンビのようにマリに集まってきた。
「生徒会長これ受け取ってください!」
「部長これ日頃のお礼です!」
「冴木さんこれ食べてください!」
押し寄せてくる人の波に香奈は弾かれ、一瞬の内に隣にいたマリとは離れてしまっていた。弾かれている最中、目に映ったのは人ごみの中心、不安そうな表情をしてこちらを見るマリの姿だった。
それと同時に動き出す。人ごみを掻き分け、中心にいるマリの方へと。気のせいだったかもしれない。だが人ごみの中でマリが消えそうな声で「たすけて」と言ったように見えた。なら助けないわけにはいかない。約束したのだから。
「マリ来て」
「…うん!」
マリの元に行き手を差し出す。マリは何かしら問いかけようとしていたがやめ、次の瞬間には力強く香奈の手を握り2人で昇降口へ走り出した。当然チョコを渡そうと廊下に来ていた者達は追いかける。
「ねぇ!どこに行くの!」
「サボって帰る!」
階段を駆け下りながら簡潔に問答を済ませ昇降口を出る。駆け足で家に着くまでには15分とかからなかった。普通に繋いでいた筈の手はいつの間にか恋人繋ぎに変わり、どちらのか分からない汗が滲んでお世辞にも心地よいとは言えなかったが2人とも離そうとしなかった。
「どっちの家にすんの?」
「私の家にしよう。2人とも仕事でいないから」
香奈の答えにマリは黙って従う。
マリの部屋に入り、荷物を所定の位置の置き香奈は椅子に、マリはベッドに腰掛ける。
「それで…するの?」
「…は?違う、そんなことのために貴女を連れ出したんじゃない!」
何を勘違いしたのか、マリは頬を赤らめ、艶っぽい息を帯びながらそう問いかけた。その問いに香奈は絶句し、数秒した後に珍しく声を荒げながらマリを制した。
「だってバレンタインだし、親がいないって言うからそう意味なのかなって」
「…あんなに人が集まってて、きっと困ってるだろうなって思ったんだけど、勘違いだったみたいだね」
「そっか…うん、困っていた、ありがとうね香奈」
「うん、それで思ったんだけどさ――」
「…えぇ!!」
香奈の言葉に対し、マリは驚きのあまり部屋中に響くほどの声を上げていた。
◎
生徒会副会長である藤堂都は驚愕していた。生徒会長であるマリにチョコレートを渡そうと思い、彼女の教室の前で待機していたまでは良かった。それが何故かマリはクラスメイトと逃亡し、メッセージアプリで連絡してきたかと思えば内容は「生徒会長やめる」という唐突なものだった。
同様に陸上部キャプテンの麻上綾の元にも一言だけ「部長やめる」という内容のメッセージが届いていた。何故?という疑問はある。だが今はその驚きの内容を教室の前で集まっていたマリを慕っている者達に伝えずにはいられなかった。
「「マリが生徒会長「部長」やめるって!!」」
◎
「これで良かったのかな?」
香奈の指示でメッセージを送ったマリは今更後に引けないと分かっておきながらも問わずにいられなかった。
「良いの、貴女があんなんだと少なからず私も迷惑なの」
分かりきった言い訳を述べながら香奈は別の者を連絡しあっていた。マリと違い友達の少ない香奈の連絡する相手は決まってマリか燐なのだがこの場においては後者が連絡の相手だった。
マナーモードにしているため通知音は鳴らないが絶えず振動していることからきっと学校は多少なりとも混乱しているか、送り主は相当自分達の行方が知りたいとマリにも理解できた。
「どう?」
「凄いみたいだよ、もう全校生徒に知れ渡ってるみたい、やめること」
「やっぱりかぁ…」
後始末をどうするものかと頭を抱えるマリだったが内心大いに喜んでいた。部長と生徒会長という責務から解放されること、全校生徒からの期待や好意などから解放されること、そして、香奈が自分のためにあそこまで大胆な行動をしてくれたことに。
「いいんだよ、これで完璧にメアリー・スーから解放されるんだから」
そんなマリの感情知らんとばかりに答える香奈はいつのまにかマリの座っているベッドに移動し、横になっていた。
「メ、メアリー・スーといえば始業式の日の考え事はもういいの?」
このまま話していたら嬉しさの余り香奈への感情が爆発してしまうと踏んだマリがとれる行動は話を逸らすことしかなかった。
「んー?あぁ、あったね、そんなの」
「早退するくらい悩んでたじゃん」
「あれはマリがメアリー・スーだと思ってたことが原因だから今はもう関係ないでしょ、貴女はただの冴木マリで、私はその幼馴染の半田香奈、それで良い――」
言い終わるころにはマリと香奈の唇は触れ合い、香奈の言葉は途中で遮られた。
抑え切れなくなった感情は無意識のうちにマリの体を動かし隣で横になっている香奈に覆いかぶさるようにして、唇を奪っていた。
「…ごめん、それじゃ駄目、もう幼馴染のままじゃいられない、かも」
2人きりの静かな部屋でスマートフォンが振動する音だけが鳴り響いていた。
気づかないうちに方言が出てそうで怖い