第759話 破滅の大蛇に挑む者
鎌首をもたげた頭が第三階層の天頂に届かんばかりの大蛇――神獣ヨルムンガンド。
大地を揺るがす巨体を声もなく見上げ、身じろぎもできずにその場に立ち尽くす。
大蛇が巨体を広大なダンジョンの天井に叩きつけ、凄まじい激震を引き起こしながら内壁を削り、第三階層に岩石の豪雨を降り注がせる。
地下空間の底で何重にもとぐろを巻いた長大な胴体も、第三階層の地表を覆う蒸気の中で動き回り、まるで大海をかき混ぜる大波のようにのたうち回っている。
しかし思考は不思議と明瞭で、驚きと同じくらいに大きな納得感がこみ上げてくるのを感じていた。
俺達はヨルムンガンドの存在を、知識としてはずっと以前から知っていた。
ロキが生み出したメダリオンの試作品――既存の生物を利用した三体の神獣のうちの一体。
古代魔法文明の滅亡期において、炫日女達によって打ち倒された後、メダリオンが海中に沈み回収されずに終わったとのことだった。
ここまでは俺が垣間見させられたロキの記憶と、当時を知る者達からの証言を統合した結果。
そしてつい先程、アガート・ラムの拠点で発見した資料から、海中に沈んでいたメダリオンが引き上げられていたことまでは把握していたのだが――
「何てこと……まさかここまで常軌を逸していたなんて……!」
ハイエルフのエイルが愕然とした声を漏らす。
「いけない! ルーク・ホワイトウルフ! 部隊を撤収させなさい! このままだと第三階層が……いえ、ダンジョンそのものが崩壊するわ!」
これまでに見たこともない焦りを露わにするエイル。
例の資料はその場に居合わせたエイルにも目を通してもらったが、彼女の判断は『自滅にしかならないから実体化させるはずがない』というものであった。
ヨルムンガンドはあまりにも巨大であり、ただ暴れ回るだけでも全ての浮遊島を破壊して余りある。
故に、アガート・ラムにとって防衛戦であるこの戦いでは、ヨルムンガンドが解き放たれることはない――それがエイルの読みであった。
ならばこれはアガート・ラムの意図的な自殺行為なのか。
敗北が避けられないなら、できるだけ多くを巻き添えにして滅びようという魂胆なのか。
「何てこと……滅びるなら自分達だけで滅びればいいでしょうに……!」
「……いや、違う。地上奪還作戦……そういうことか……!」
俺の『右眼』はイヴの真意を、アガート・ラムの次なる目的を見抜いていた。
「ヨルムンガンドにダンジョンの階層を突き破らせて、浮遊島ごと地上に打って出るつもりだ! 自暴自棄の賭けなんかじゃない! 緻密な計算をした上で、予め計画していた通りの破壊……」
「つまり! 島まで動かしてやがんのは、巻き添えを食らいにくい場所に避難してるってことかよ!」
ガーネットが降り注ぐ岩盤の破片を注視しながら声を上げる。
「クソッ、ルーク! この場で仕留めるしかねぇぞ! あんなデカブツが地上に出てきたら、グリーンホロウは間違いなく……!」
「馬鹿なこと言わないで! 離脱して体勢を整えなさい!」
「ハッ! 散々オレ達にちょっかい出しておきながら、命の心配はしやがるんだな! だけどそいつは取り越し苦労って奴だぜ?」
抜剣したガーネットが俺の前に回り込み、メダリオンとの一体化を待つように背を向けながら、ヨルムンガンドの規格外の巨体を睨み上げる。
その隣にチャンドラーも並び立ち、剛弓に矢を添えた。
「人形共は地上に攻め込んで一発逆転を狙ってんだろ? だったら間違いねぇ。連中のいる場所は安全だ。島をぶっ壊すほどの瓦礫は避けるだろうし、あのデカブツが中央島をぶっ壊しに来ることもねぇはずだ」
圧倒的な巨体を前にして、最初こそ誰もが息を呑み驚愕に意識を塗り潰された。
しかし、最初の驚きさえ過ぎ去ってしまえば、戦いなれた彼らの順応は誰よりも早かった。
「馬鹿みたいにデカかろうと、魔獣神獣の類なら、メダリオンをぶち抜いちまえば肉体を保てねぇんだろ? ルーク! もう一度アレ行くぞ! スコルとハティ、二つ纏めて――」
「――ガーネット。ここは私に任せてくれ」
熱り立つガーネットとチャンドラーを制したのは、ヒヒイロカネの刀を手にしたサクラであった。
「巨体故に近く見えるが、ここからヨルムンガンドの肉体まではかなりの間合いがある。迅速に取り付けるのは私の【縮地】だけだ。それに……」
サクラが肩越しに俺の顔を見て、柔らかな笑みを浮かべる。
それは戦場において敵に向ける不敵な笑いではなく、グリーンホロウで日常を送る間に見せる微笑みであった。
「せっかく皆の好意で魔道具を仕立ててもらったというのに、実は今の今まで最大出力を出せていないのです。大丈夫だと頭で分かっていても、万が一誰かを巻き込んでしまったらと思うと、やはり踏ん切りがつかないもので」
「……まったく。そんなこと気にしなくたっていいのに」
「面目ありません。ですが、あの大蛇が相手ならば憂いは何もありません。私が引き出せる全身全霊をもって討ち果たしてみせます。かつて炫日女がそうしたように」
サクラの決意は固く、また客観的に考えても妥当な判断である。
メダリオンを正確に狙うなら肉薄しなければならないが、ここからではあまりにも距離がありすぎる。
あの巨体に一瞬で接近できる奴は、部隊全体を見渡しても、【縮地】が使えるサクラ以外には片手で数えるほどしかいないだろう。
「そうか……メダリオンの場所は額の中央、頭蓋骨の奥だ。いきなりピンポイントで狙うには厳しいかもしれないが……」
「待ちなさい。ヨルムンガンドの血肉は猛毒よ。対策はあるんでしょうね」
エイルも諦め混じりに、ヨルムンガンドとの交戦を前提とした意見を口にする。
サクラは少し意外そうに目を丸くして、それから自信ありげに胸を叩いた。
「私のことは信じられなくとも、私に力を預けた炫日女のことは信じてほしい。これから振るうのは彼女の力でもあるのだから」
「……ずるい返答ね。無理だって言えなくなるじゃない」
誰にも表情を見られないように顔を背けるエイル。
その横顔に微笑みを向けてから、サクラは俺達に振り返り、改めて決意を言葉にした。
「行ってまいります。ルーク殿は皆様との合流を最優先に。ではっ――!」
跳躍とともに【縮地】が発動し、サクラの姿が俺達の目の前から掻き消える。
次の瞬間、まるで地上の旭のような閃光が、地下空間の上方に迸った。




