第758話 穏やかな朝の終わり
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――その日、グリーンホロウ・タウンは久々に穏やかな朝を迎えていた。
ここ最近、グリーンホロウはダンジョン『元素の方舟』で行われる大規模作戦の準備拠点となっており、町が持つ余力の殆どをそのために注ぎ込む日々が続いた。
しかし、それもつい数日前に終わりを迎え、作戦の準備の後片付けも昨日ようやく一段落したのである。
「よっ、シルヴィア。今日から通常営業だっけ?」
春の若葉亭のエントランスで掃除をしていたシルヴィアに、私服姿のエリカが声をかける。
ホワイトウルフ商店で勤務しているときの態度とは違う、気のおけない友人と喋るときの砕けた雰囲気で、これまた店長には見せないような遠慮のない笑みを浮かべている。
口調も一切取り繕うことがない素の喋り方で、武器屋で働くエリカしか知らない者が見れば、よく似た別人なのではと誤解しそうなくらいだった。
「まぁね。しばらく兵隊さんの貸切状態だったから、普通のお客さん相手の接客の勘も取り戻さなきゃ」
「大変だよなぁ、シルヴィアんとこ。武器屋は店長達が帰るまで縮小営業中だから、ちょっと暇になっちゃってさ」
エリカは当然のように布巾を手に取り、シルヴィアを手伝って宿のインテリアの拭き掃除を始めた。
シルヴィアとエリカは幼少期からの友人であり、こうした手伝いは昔からよくやってきた当たり前のことであった。
「そういやさ、店長が大勢引き連れてダンジョンに潜ったと思ったら、またすぐに部屋が埋まってたよな。あれって何だったんだ?」
「私も詳しくは知らないんだけど、確か後詰とか言ってたかな」
「ゴヅメ?」
「後方で待機する予備部隊ですね」
それはシルヴィアの声ではなかった。
二人が揃って声のした方に目を向けると、赤い瞳の少女が宿の玄関付近に佇んでいた。
「あれ? レイラも今日休みだっけ」
「支店の子から予定を変わってほしいと頼まれたので」
ルークを始めとした本店の主要メンバーが抜けた現在、ホワイトウルフ商店の業務は支店に集約されていて、エリカ達残留組もそちらで勤務する形になっている。
グリーンホロウ在住の有力冒険者も軒並み作戦に参加しているので、今は支店だけでも問題なく回るようになっていたのだ。
「一度に全戦力を最前線に送り込むと、何かあったときに柔軟な対応ができませんから。そのための余剰戦力が少し遅れて到着したんでしょう」
「なるほどー……一度に来てたらグリーンホロウがパンクしてたかもな。いや、だからわざとタイミングずらしてくれたのか?」
「だと思いますよ。そろそろ現地に到着してる頃じゃないでしょうか」
緩い態度で頷き納得するエリカとは対象的に、レイラの方はどこか不安そうに表情を固くしている。
「やっぱり、トラヴィスさんが心配だったりするのか?」
「そ、そういうわけでは! あの人のことだけじゃなくて、皆さんのことを心配してますからね!」
「ははっ、あたしも同じ。ノワールさんも店長も、みんな無事に帰ってきてほしいよねぇ。あたし達は祈るしか……って、どうしたのさシルヴィア。そんな渋い顔して」
エリカは自然な会話の流れで視線をシルヴィアに移したが、何やらシルヴィアが難しい顔をしていることに気がついて、怪訝そうに首を傾げた。
宿の従業員ではなく手伝っているだけのエリカと、たまたま顔を出しただけのレイラとは違い、シルヴィアは他ならぬ宿の看板娘。
開店準備の手を止めて考え込んでいる時点で、周囲から不思議に思われるのも当然であった。
「……えっ? あっ、ごめん。ちょっと考え事してた」
「大丈夫? まさか宿のことで問題とか……」
「ううん、そういうのじゃなくってね。この前の後詰……だっけ。今思ったら、あの人達って何となく普通じゃなかったかなって」
シルヴィアの返答を聞いて、レイラと顔を見合わせるエリカ。
レイラは無言で首を横に振り、自分には思い当たる節がないと言外に答えた。
「最初の人達と比べたら、警備が厳重だったっていうか、従業員が貸切フロアに入るのも一苦労だったっていうか」
「ああ、そういうことでしたら、どこかの貴族が指揮官を務めていたのかもしれませんね。それなら警備の厳重さも納得――」
――そのときだった。
グリーンホロウ・タウン全体が――否、町どころか周囲一帯の山林すら含めた全域が、まるで地の底から突き上げられるかのように揺れ動いたのは。
揺すぶられる建造物。音を立てて震える窓ガラス。
シルヴィアは反射的に食器棚の扉を押さえ、エリカは上ずった悲鳴を上げて間近にいたレイラにすがりつき、そしてレイラは敵襲に備える騎士の如く身構える。
賑やかだった大通りの喧騒も一瞬のうちに途絶え、少しばかりの沈黙を挟んだ後で、悲鳴と混乱が街中に響き渡った。
「な、ななな、なあっ!? い、今のなんだよぉ!」
「地震? シルヴィア、グリーンホロウは地震が起きる土地でしたか?」
「いえ、こんなの初めてです!」
地元で生まれ育ったシルヴィアとエリカが軽くパニックを起こす中、他の地方から来たレイラはむしろ冷静に状況を観察し、そして顔を青ざめさせて視線を足元に落とした。
これまで地震など起きたことのない土地で生じた大地の激震。
しかも一度だけで終わる様子はなく、二度、三度と大きな揺れが町を揺るがし続けている。
「まさか……ダンジョンで何か異変が……!」
レイラは自分が思い至った仮説に慄き、容赦なくしがみついてくるエリカの肩を強く抱き寄せた。
落ち着いて状況を整理すれば、恐らく誰であっても同じ結論に至ったことだろう。
思い当たる原因はそれしかない。
ルークを始めとする大部隊が乗り込んだダンジョンで、想定外の『何か』があったのだ。
「……どうか、ご無事で……」
穏やかな朝は突如として終わりを告げた。
自分達は祈ることしかできない――この日。グリーンホロウの人々はただの一人の例外もなく、否定のしようもない現実に直面した。
その原因が世界を滅ぼした神獣の一体にあるなど、夢にも思わずに――
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