第749話 過去と未来を想って
――俺とガーネット、そしてサクラの三人は、申し合わせたとおりにトラヴィス達の部隊を離れ、方舟の城へ帰還するべく移動を開始した。
建物の死角や裏路地を駆使しながら、中央島の無人の市街地を人知れず走り続ける。
周囲からは絶え間なく戦闘の音が聞こえてきている。
単なる喚声や剣戟の音に留まらず、友軍が使う魔法や敵軍が使う古代機巧の爆発音に、メダリオンの力を引き出した者達が繰り出す規格外の攻撃の轟音まで多種多様。
耐えることなく飛び交う騒音は、立ち並ぶ高層建築の間で激しく反響して、市街地のどこで戦闘が行われているのかの判別を難しくする。
「今んとこはバレずに移動できてるみてぇだな。できればこのまま最短ルートで突っ切りてぇところだが……」
「こういうときこそ、急がば回れです。焦らずに確実な移動経路で行きましょう」
「分かってるって。もしもできるもんならって話だよ」
ガーネットとサクラの護衛はこれ以上なく心強く、並大抵の相手なら切り抜けられると信頼しているが、今回は前提条件が普段と違う。
たとえ襲撃を退けることができたとしても、敵に襲われて足止めを食らったり、時間を稼がれたりすることすら避けなければならないのだ。
「それにしても、こんな風に三人だけで立ち回っていると、出会って間もない頃のことを思い出しますね」
サクラが周囲を警戒しながら、不意にそんな言葉を漏らした。
眼差しの油断のなさとは裏腹に、落ち着いた柔らかさのある声色だった。
「ルーク殿が武器屋の経営を始めたばかりの時期です。今のように生死や命運が懸かってはいませんでしたけれど」
「ああ、従業員がオレしかいなかった頃だよな。んでもって、お前がいつも手伝いに来て……クソ忙しい毎日だと思ってたけど、振り返ってみりゃ気楽なもんだったな」
小声で笑いながら同意を示すガーネット。
あの頃の俺達は、これまでと全く違う環境に翻弄され続けていて、目の前に積み上がった問題に対処するだけで精一杯だった。
未来のことなんて誰も分からないから、きっと今が人生の激動の頂点なんだろうと信じ込んでいて、こんな大事を背負い込むことになるとは夢にも思っていなかった。
慣れないだけで内容自体はごく普通の仕事に追われた過去。
ウェストランド王国どころか、地上に生きる全人類の未来すら左右しかねない作戦の中枢に立つ現在。
果たしてどちらが幸福だったのか――そんなものは考える意味もない。
なぜなら、俺にとってはどちらも大切な時間だからだ。
どちらが幸福で、どちらが不幸だなんて、優劣を付けられるはずなんてあるはずがなかった。
「まぁ……あのときと何が違うかっていえば、シルヴィアがいるかどうかだよな」
俺が何気なく呟いた一言に、ガーネットとサクラも揃って首を縦に振った。
「シルヴィアがいればあの頃と同じだったかもしれねぇけど、さすがにあいつを連れてくるわけにはいかねぇからな。若葉亭の風呂と飯が恋しいぜ」
「作戦の参加者全員がそう思っているでしょうね。私も同感です」
小声でそんな会話を交わしながら、裏路地を走り続ける。
「そうそう。今回はグリーンホロウの有志が、慰労の準備をして待ってくれてるって話だぞ」
「マジか? そいつぁ俄然やる気が出てくるな」
「帰還後の楽しみが増えましたね」
万が一にも帰還できないという可能性は、二人とも最初から言葉にしようともしていない。
縁起でもないから考えないようにしているのか、それとも絶対に地上へ帰還できると確信しているのか。
どちらにせよ、今は作戦の成功を目指して前だけ見据えるべき頃合いだ。
「……っと」
しかし、こんな心安らかな会話は、いつまでも続けていられるものではない。
俺は『叡智の右眼』の超常的な視野の隅に、遠くからこちらへ近付いてくる数体の人形の姿を認め、事前の打ち合わせ通りに無言の手振りで合図を出した。
すかさずガーネットが俺の腕の下に肩を差し入れ、力強い跳躍で高層建築の壁に飛びついた。
そこから更に壁を蹴って跳び、比較的背の低い建物の屋上へと移動してから、肩を離して警戒態勢へと移行する。
「上手くいったか? 見られてねぇよな」
「あまり立ち上がるなよ。姿勢は低くして……あっちには空を飛べる奴もいるんだからな。遠くから見つかったら面倒だ」
「分かってるって。さっきの連中をやり過ごしたら、さっさと下に戻るぞ」
建物の屋上の縁で身を伏せながら、道路を見下ろして人形達が通り過ぎるのを黙って見送る。
それから視線を上げ、別の建物の屋上に【縮地】で逃れていたサクラと目配せを交わし、あちらの視点からも安全が確保されたことを確かめる。
俺達に油断や気の緩みは全くない。
懐かしい思い出話や帰還後の楽しみについて語り合っている間も、意識は常に周囲を警戒し続け、何かあればこうして即座に対応できる備えを固めているのだ。
「……オレさ、アガート・ラムを壊滅させた後、どんな風に振る舞えばいいのか、実はよく考えてなかったんだ」
ガーネットが俺にだけ聞こえる大きさの声で囁く。
「思いっきり騒いで祝えばいいのか、静かに余韻に浸った方がいいのか……あいつらを討ち果たすことばかり考えて、その後のことは何にも考えてなかったってことだろうな」
「けれど、その目標の達成が目前に迫っているわけだ」
「ああ。だけどそれでも、やっぱり終わった後のことはよく分かんねぇ。だからさ、ルーク。この戦いに勝った直後は、きっと感無量で何にも考えられなくなってるだろうから……」
「請け負った。誠心誠意、リードさせてもらうとするよ」
最後まで聞くことなく了承の返事をする。
ガーネットは期待通りの返答だとばかりに、身を伏せたまま満面の笑みを浮かべたのだった。




