第719話 嵐の前の静けさ
――そしていよいよ、突入部隊が第三階層を目指して出発するときが来た。
ホワイトウルフ商店製の耐熱装備を身に纏った集団が、魔王軍によって示された第三階層への侵入経路を目指して、灼熱の第四階層を進んでいく。
この段階ではまだ問題が発生する余地はなく、ドラゴンとの不意の接敵にさえ気をつけておけば、さしたる問題もなく侵入経路までたどり着くことができるだろう。
灼熱の地下空間を通り抜け、最奥の壁に自然発生した亀裂を通り抜けた先に広がる、高熱の蒸気に満ちた空間――それこそが『元素の方舟』第三階層。
厳密には、その最下層部の環境だ。
水の第二階層から流れ落ちる水流と、火の第四階層から上昇してくる熱の狭間に存在することから、両者の影響を同時に受けているのである。
「……ふーっ、サクラの言ってた通りだな」
ガーネットが耐熱装備のフードの下で汗を拭う。
「まるで温泉みてぇに……いや、むしろ地上の温泉の大本がここなのかね」
「さて、どうだろうな。第四階層が温泉の熱源になってる可能性は高そうだけど」
高熱の蒸気に周囲を包まれているせいか、耐熱装備の冷却機能をフル稼働させていても、なかなかに不快感が強い。
もしもこれが少人数パーティーでの行動なら、すぐに涼しい場所へ移動しているところだったが、今回は大人数の部隊規模の行動なので、そういうわけにはいかない。
第四階層からの抜け道はかなり狭く、数十人どころではない部隊全員が一斉に通り抜けることは、物理的に不可能である。
なので、通過は少しずつ順番に。
小さな穴から砂がこぼれ落ちるかのような牛歩の歩みで、一人また一人と第三階層へと上がってくる。
「しっかし、右を見ても左を見ても上を見ても真っ白じゃ、連中の本拠地に乗り込んだっつー実感がねぇな。もっとこう……カーッと興奮してなりふり構わなくなっちまうもんだと思ってたんだが」
ガーネットは絶えず周囲を警戒しながら、声を潜めて俺に話しかけてきている。
他の連中も手分けをして索敵に取り掛かっており、緊張感で張り詰めた空気が流れていた。
突入部隊が最も警戒すべき瞬間は、都市が存在する浮遊島に乗り込むときではない。
狭い抜け道を少しずつ通り抜けていくこの瞬間である。
戦力の大部分がまだ第四階層に残っていて、第三階層まで上ってきた人数はごく一部。
ここを叩かれてしまったら、抜け道が狭いせいで即座の救援も望めず、到着した面々は間違いなく壊滅させられてしまうだろう。
その上で抜け道を封鎖されるだろうから、間違いなく詰みである。
だから俺も、さっそく『叡智の右眼』を発動させて索敵に加わることにする。
「……おい、白狼の。もう『右眼』使っちまうのかよ。今回は休んでる暇なんてねぇんだろ」
「出し惜しみはなしだ。アルファズルのお陰で負担も抑えられてるからな」
せっかくアルファズルが――正確には俺の内側に間借りした精神のコピーらしきものが、対アガート・ラム、対イーヴァルディを前提に力を貸してくれるというのだ。
ここぞとばかりに有効活用しないのは損だろう。
実際、発動させてみた直後の感覚は、かなり軽快で気分も楽だ。
今まで発動のたびに感じていた負荷も軽減されていて、普通に【修復】を発動させるときと変わらない感覚で維持できている。
「……それに、万が一のときは切り札もあるからな」
腰に下げた荷物を叩き、ガーネットに笑いかける。
アルファズルから提供されたのは、発動時の負荷を軽減するサポートだけではない。
万が一、『右眼』を制御しきれなくなったときのための抑制手段、その製法も提示してくれていた。
もちろん制御し続けられるに越したことはないのだが、もしもの場合に対する備えがあるとないとでは大違いだ。
「で、さっきの話に戻るんだけど。長年の仇を前にして落ち着いていられるっていうなら、お前も大人になったってことじゃないか?」
「大人ねぇ。まぁ、誰かさんのお陰でだいぶ価値観変わった気はするな。オレも大人にされちまったってことか」
「……変な言い方するんじゃないっての」
ガーネットは悪戯っぽく笑いながらも、絶え間なく周囲に視線を配り続けている。
俺も『右眼』で頭上を中心に観察を続けていたが、特にアガート・ラムからの干渉がある気配はしなかった。
「ここまで何もないと、却って不安になってくるな。トラヴィスの奴もとっくに陽動を仕掛けてる頃だと思うんだが……」
「『右眼』でもユリシーズの船は見えねぇのか?」
「さすがにな。それができるなら、アガート・ラムの町の様子も偵察してるさ」
動体視力は底上げされてる感があるが、千里眼のように遥か遠くまで見えるってわけではない。
あくまで俺の『右眼』は、視界に収めたものを高度に分析するものであって、視界を広げる能力ではないということだ。
……もちろん、これも現時点での話ではある。
アルファズル曰く、この『右眼』には三つの枷が掛けられていて、肉体への変化と引き換えに、三段階の強化ができるのだという。
だが、その変化は生前のアルファズルも元には戻せない、完全な不可逆の変化である。
あくまで最後の切り札と認識し、切るとしてもこの戦いの趨勢を決するタイミングに限りたいところだ。
そんなことを考えていると、耐熱装備に身を包んだサクラが【縮地】で目の前に現れる。
「ルーク殿。部隊の八割が第三階層に到達したとのことです」
「そうか。それじゃあ、浮遊島への上陸準備に取り掛かるよう、セオドアと王宮戦力の隊長にも伝えておいてくれ。それと……」
俺は一旦言葉を切り、サクラの姿を頭から足先まで一通り眺めた。
サクラは他のメンバーと変わらない外套型の耐熱装備を纏い、同様の技術で作られた耐熱カバーで装備を包んでいる。
しかしその下には、これまで実戦投入したことのない、サクラ専用の新装備の数々が隠れている。
「……悪いな、新装備をじっくり試す時間がなくて。本当ならぶっつけ本番は避けたいところだったんだが」
「いいえ、何も問題はありません。十全に使いこなしてみせますとも! それでは!」
すぐさま【縮地】を発動させて姿を消すサクラ。
俺は再び頭上に視線を移し、濃密な蒸気の向こうにうっすらと見える浮遊島を見据えた。
あの島々こそがアガート・ラムの拠点。
にもかかわらず、奴らは不気味な沈黙を保ち続けている。
まさしく嵐の前の静けさという奴か――俺は強く気を引き締め、上陸に向け改めて覚悟を固めたのだった。




