第713話 作戦開始直前の一幕 前編
冒険の準備というものは、どれだけやっても足りない気がするものだ。
もっと万全を、もっと安全を。
そんな風に考えて続けてもきりがなく、完璧を求めていたら永遠に出発できなくなってしまう。
しかも今回の作戦は敵拠点への攻撃が目的だ。
防衛用の二体の魔獣を撃破した事実が、アガート・ラムに気付かれていないという保証がない以上、のんびりしていたら逆にあちらから手を打たれる恐れもある。
――だから、ここが潮時だ。
アレクシアやノワールの進捗を確かめてから一月も経過していないが、
絶え間なく続けた作戦準備はこの辺りで切り上げて、いよいよ第三階層攻略戦に取り掛かるときがきた。
そして今日は陽動作戦に携わる冒険者が支部に集められ、パーティーを指揮するトラヴィスから演説にも似た訓示を受けている。
彼らは既に探索準備を整えており、この集会が終わり次第速やかに『元素の方舟』に潜り、中立都市で最後の準備を整えて、アガート・ラムに対する陽動を仕掛けることになる。
俺は堂々としたトラヴィスの語りを途中まで見届けてから、集会場の隣の部屋で待機する団員達のところへと足を運んだ。
「いよいよだな。準備はできてるか?」
「できてなかったら、こんなところに来ちゃいない……なんて言えないのが宮仕えの辛いとこですよねぇ。こっちの都合で延期できないのが困りもんだ」
枯れた雰囲気の中年騎士、ユリシーズが皮肉げな笑みを返してくる。
「まぁ、やれるだけはやりましたよ。貸していただいたメダリオンもちゃんと仕込めましたしね。これで駄目ならどうしようもないとしか言えません」
ユリシーズはいつもこうして皮肉げに話すのだが、これはあくまで自信のなさの裏返しというか、自分に役目を果たせるのかという不安感の表れだ。
ここで『お前の船は陽動作戦の要だ』なんて言えば、余計に気負わせてしまうだけだろう。
「お前が万全を尽くしたっていうなら、それで充分だ。完璧なんて求めてたらキリがないからな。皆がやれるだけやって、それでも駄目だったら、お前が言う通り最初からどうしようもなかったんだろうさ」
最善手を完璧に打ち続けることを期待するなんて、そんなノーミス前提の机上の空論は作戦でも何でもない。
ギャンブルの連勝で借金を返そうとする試みと何も変わりはしないだろう。
理論上の最善、完璧な行動ではなかったにせよ、本人にとっては万全を尽くしてやれるだけやった――そうした結果を積み上げて成功に導くようにしなければ、それはただの賭けになってしまう。
だからユリシーズが本人なりに全力を尽くし、できる限りの準備を整え、そして作戦に臨むというのであれば、これ以上は何も望むべくもなかった。
「へへっ、うちの団長はお優しくてありがたいね。こういうときに無駄なプレッシャーを掛けてくる指揮官ってのも、世の中には割といますからねぇ」
「反面教師にしたいところだな」
「そうしてくださると。じゃ、その調子であっちの新人にも何か一言」
ユリシーズが視線を向けた先では、マークが俯き気味に椅子に座ってぶつぶつと呟いていた。
ソフィアがあれこれと声を掛けて緊張を解そうとしているようだったが、今のところ功を奏していないらしい。
何だかんだでベテランのユリシーズとは違い、こちらは正真正銘の新人騎士だ。
しかも俺のように、別分野で経験を積んできたわけではなく――最底辺を経験と呼べるかは疑問かもしれないが――まだまだ実戦経験にも乏しい。
俺は緊張に青ざめたマークに呆れを感じたりせず、むしろ昔の自分を思い返して懐かしさすら感じていた。
「マーク」
「……っ! な、何ですか!」
ビクリと激しく肩を震わせてから、マークは青ざめた顔を引き締めて俺を見上げた。
その目には意地と強がりの色が宿っている。
ダメ兄なんかに弱いところは見せたくない、なんて思っているのが丸分かりだ。
「俺も初めて高ランクダンジョンにアタックしたときは、緊張と吐き気で溺れ死にそうだったな。パーティー編成のときには『やってやるぞ!』とか『これで名を挙げてやる!』なんてイキってたんだが、いざダンジョンを前にすると……な?」
俺はマークから椅子二つ分ほど距離を置いて腰を下ろした。
向かい合う形ではなく、視線が重ならないように同じ方を向いて、あくまで過去の思い出話を語る雑談として。
「……万年Eランクだったくせに、高ランクダンジョンなんかに潜れたんですか」
「潜れるさ。ダンジョンアタックの認可は、パーティーリーダーの冒険者ランクが基準だからな。大規模パーティーには低ランクの新人の雑用係が必要不可欠なんだよ」
「新人の雑用係……ですか」
こいつの場合、きっと偉そうな薫陶は逆効果だ。
上から目線で『昔の自分はこうだったんだからお前も云々』なんて、ろくに耳を傾けてもらえないに決まっている。
「で、探索自体は一応成功したんだが、俺も含めた新人共は散々でな。地上に戻る頃には、ソフィア卿の前じゃ言いづらい無残な有様だった」
実際はソフィア卿を気にしているというよりも、ガーネットに聞かせるには情けなさすぎる思い出なのだが。
「だけど、一緒に無様を晒した奴の何人かは、今じゃ押しも押されぬ高ランク冒険者だ。新人の頃なんてのは……」
「失敗なんか気にするな、ですか? まったく……露骨すぎますよ。いい話風の昔語りで部下の緊張を解すつもりなら、もっとさり気なくやってください」
「……バレてたか」
呆れ混じりのリアクションを返されてしまい、笑って誤魔化すことしかできなかった。
やはり慣れないことはするものじゃなかったのかもしれない。
「でもまぁ、多少は気が楽になりましたよ。いい話で諭してやろうと思って失敗したのを見せつけられたお陰で」
「はは、手厳しい」
思っていたのとは違ったが、とりあえずマークは余計な肩の力を抜くことができたようだ。
これはこれで結果オーライなのだと納得し、ガーネットと苦笑を交わしあったのだった。




