第700話 『元素の方舟』――第三階層
ダンジョンの階層間に生じた亀裂の隙間、道とも呼べぬ苛烈な経路を抜けた桜を待ち受けていたのは、第四階層とは全く違う類の暑さであった。
「なっ……! これは、何という……まるで濃霧のようだが……」
亀裂を抜けた先の空間はまるで熱湯のように熱い霧――らしきものに満たされていて、数歩先を目視することすら困難だった。
霧、靄、霞。
いずれでもないように思われたその白煙の正体を、桜はすぐに理解した。
「……湯気か、これは」
「その通り」
魔将スズリは熱気を微塵も感じていないかのような態度で、声色一つ変えることなく桜の前に進み出た。
「第二階層から流れ落ちた水は第三階層を巡り、最終的に最下部で第四階層の灼熱を受けて蒸気と熱水に姿を変える。第四階層とは異なる意味で生物を寄せ付けぬ環境だ」
「はぁ、はぁ……そ、そう言えば……」
何とか第三階層までついて来たメリッサが、これまでの疲労と蒸し風呂じみた環境にへばりそうになりながら、か細い声をどうにか絞り出す。
冷却機能を持つ耐熱装備がなければ、とっくに倒れてしまってもおかしくない状態である。
「『元素の方舟』の各階層は、四大元素を象徴しているという仮説がありますね……土の第一階層、水の第二階層、火の第四階層。そして第三階層は風、あるいは空気……」
「蒸気か湯気の階層の間違いじゃないのか」
梛が不快そうに周囲を見渡しながら口を挟む。
湿度、熱気、加熱されぬかるんだ足元と、桜達がいるこの場所は、不快感を与える要素の塊のような環境だ。
じっとりとした湿度がない分、第四階層の方がまだ快適だとすら言えるかもしれない。
「メリッサ。とりあえず湯気を何とかしてくれ。視界が塞がれたままじゃ偵察どころじゃないぞ」
「う、うん……風魔法で吹き飛ばせば……」
「規模は最低限に収めろ。広範囲の蒸気を除去すれば奴らに気取られかねん」
スズリからも無視できない忠告を受け、メリッサは緊張に顔を強張らせながら、自身を中心とした風のドームを慎重に発生させていった。
「こ、これくらい……?」
「許容範囲だ。ひとまず高所まで移動する。そこからなら第三階層の全貌を目視できるだろう」
視界を塞ぐ湯気を風の魔法によって除去しながら、雲海の向こうに突き出した岩の先端を目指して移動を再開する。
その間、桜は絶え間なく周囲の様子を窺い、浮かんできた疑問点をスズリに投げつけ続けた。
「頭上も蒸気が深くて天井がよく見えない……発光機能は働いているようだが……ところどころ光が弱いのが気になるな。本当にお前達はこんな環境で暮らしていたのか。古代人の生き残りもいたのだろう?」
「こうした環境は第三階層の中でも最下部だけだ。人間共と魔族はもっと高い場所で暮らしていた。アガート・ラムの拠点もそこにあるはずだ」
「……だから、ここにはろくな見張りも置かれていないが、広域に渡って湯気が晴れれば上から目視される、というわけか。道理であの亀裂が気取られていないはずだ」
第三階層の底部を同階層の上部から見下ろせば、さながら山の頂上から雲を見下ろすが如く、白い海のような光景が広がっているように見えるのだろう。
地下深くにありながら、地表の最上部にも似た光景が再現されているのだとしたら、空気の属性を象徴した階層を名乗れる体裁は整っていると言えそうだ。
「もしや……グリーンホロウ・タウンの温泉もここから……?」
「さぁな。第二階層から流出した水と第四階層の灼熱の行き先は、何も第三階層のみというわけではない。ダンジョン周囲の地層にも達しているはずだ」
「グリーンホロウの源泉はそちらが由来かもしれないと」
桜はスズリの先導でぬかるんだ斜面を歩きながら、怒りと悲しみを抑えて平静を保った声色で、ダンジョンともアガート・ラムとも関係のない話題を語り始めた。
「そういえば、私の父上も温泉が好きだった。私の故郷には火山が多く、山中には温泉もよく湧いていたからな」
「……無駄な話だ」
「貴様はどうだ、魔将スズリ。父上の影響は受けていないか?」
スズリからの返答はない。
しかし、桜はこれを言葉にできただけで満足したように、それ以上同じ話題を繰り返そうとはしなかった。
桜達はやがて当面の目的地に――蒸気の雲海から突き出した岩の先端にたどり着く。
そこから見渡す光景は、白い湯煙にどこまでも覆い尽くされているばかりで、建造物の輪郭すら見当たらなかった。
「どういうことだ。何もないぞ」
「上を見ろ」
焦りを滲ませる桜に、スズリが短く冷徹な言葉を向ける。
桜は言われるがままに天井を仰ぎ、そして口を開けたまま絶句した。
遅れて視線を上げた梛とメリッサも、驚愕のあまり声を上げることすらできず、ただ呆然と立ち尽くすことすらできなくなってしまった。
「ば……馬鹿な……」
ようやく桜が言葉を絞り出す。
「島が、浮いている、だと」
それは『浮遊島』と呼ぶ以外に、表現の余地がない存在であった。
巨大な匙で地面をくり抜いたかのような浮島が、これまでのどの階層よりも高い第三階層の空中に、さも当然のように浮遊している。
しかも一つや二つではない。
目視しただけで十を超える島々が、ある程度の距離を保ったまま空中で静止し、蒸気の雲海に幾つもの暗い影を落としていた。
島々の間には道らしき人工物が架けられ、それらのうち幾つかは天井に向かって伸び、第二階層から流れ落ちる水を受け止めて、まるで宙に浮いた川のように島々の間を巡っているようだ。
そして受け止められていない流水は滝の如く流れ落ち、空中で白いヴェールさながらに霧散して光を弾き、浮遊群島に神秘的な彩りを与えていた。
「理解したか。これが第三階層、古代都市の残滓を保管した方舟。あれらのいずれか、あるいは全てがアガート・ラムの居城……我々が挑むべき存在だ」
今回で第十七賞は完結、そして記念すべき第700話となります。
ランキングタグと目次ページに書籍&コミック新刊の情報を追加しましたので、是非そちらもお確かめください。




