第693話 再演劇の幕切れ
――自動車が停止した直後、ガーネットは歪んだ扉を内側から全力で蹴破り、血塗れのルークを車外へと引きずり出した。
「くそっ……! おい、ルーク! 馬鹿野郎……何でテメェが俺を庇うんだよ……しっかりしろ、さっさと【修復】しやがれ!」
返事はない。呼吸の気配すら感じられない。
ルークは若い姿に変えられたまま、全身のそこかしこから鮮血を流しながら、人形のように横たわっているだけだった。
「……おい。起きろよ。何やってんだ」
「申し訳ありません」
代わりに身を起こしたのは、ルーク以上に弾丸を浴び、全身を穴だらけにされたヘルであった。
夥しい量の血を垂れ流しなていがらも、表情に苦痛の色は全く浮かんでおらず、それどころか痛みを感じている様子すら見受けられなかった。
「ロキ様のご記憶との繋がりを強めた結果、その御方は肉体に宿る力を引き出せなくなっております」
「……っ! テメェ!」
ガーネットは目にも留まらぬ速度でヘルに肉薄し、襟首を掴んでその背中を半壊した自動車に叩きつけた。
轟音を立てて陥没する車体。
ヘルは首元を掴まれて鋼鉄製の車体に押し付けられ、部品の破断面に血肉を引き裂かれながら、落ち着き払った態度を微塵も崩しはしなかった。
「ご安心ください。この世界での死は現実への強制送還に過ぎません。完全に予定外の事態ではありましたが、失われるものは何一つ……」
「それがどうした! 後でどうにかなるからってな! はいそうですかと割り切れるわけねぇだろうが!」
ガーネットがヘルと額を突き合わせて吠えた瞬間、一発の銃弾が頬を掠めて車体に穴を穿った。
憤りに顔を歪め振り返るガーネット。
日没後の薄暗闇の向こうに人影が――襲撃者の輪郭がゆらりと動く。
次の弾丸が放たれた瞬間、ガーネットは即座に身を屈めて路面を蹴り、一瞬のうちに襲撃者達へ肉薄した。
黒尽くめの装束で唯一露出した目が驚愕に見開かれる。
振り向けられる長銃。
しかしガーネットの反応は遥かに早く、銃身を掴んで射線を逸らすと同時に、眼前の腹部に渾身の拳を叩き込んだ。
水の詰まった革袋を殴りつけたような鈍い音が響き、襲撃者の体が不自然な角度で二つに折れて崩れ落ちる。
背後にいたドワーフの襲撃者が何事か叫びながら発砲する。
ガーネットは息絶えた一人目の襲撃者を盾に銃撃を防ぎ、瞬間的な踏み込みで間合いを詰めて、もぎ取った長銃を棍棒代わりに首を殴り折った。
衝撃でずれ落ちた覆面の下の素顔は、イーヴァルディとは別人のドワーフであった。
遠ざかっていく情けない悲鳴。
三人目――最後の襲撃者は車を蜂の巣にした大型銃器を置き去りにし、幾度も転倒しそうになりながら逃走を図っていた。
だが、今のガーネットはそれすら見逃そうとせず、咆哮じみた叫びを上げながらその背中に飛びかかり、後頭部に拳を叩き込んだ。
「ふー……ふー……」
痙攣する襲撃者を一瞥し、ガーネットは歯を食いしばりながら立ち上がった。
「この日、命を奪われたのはシギュンでした」
背後からヘルの声が投げかけられる。
ガーネットは振り向こうとすることもなく、骨が軋むほどに力を入れて拳を握り締めている。
「襲撃者がイーヴァルディの差し金であったのか否か……それは最後まで分かりませんでした。しかし、イーヴァルディと考えを同じくする者達であったことは間違いありません」
「……オレには関係ねぇよ」
「ロキ様を亡き者にせんとする企みは失敗に終わり、世論はむしろロキ様に同情的となり、却って研究が支持される結果に終わりました。イーヴァルディも表向きには哀悼の意を……」
「関係ねぇっつってんだろ!」
ガーネットは叫びながら振り返り、ヘルをまっすぐ睨みつけた。
今にも涙を滲ませそうになる衝動を必死に噛み殺し、不用意な一言があればヘルにも拳を振るう心積もりでいたが――当のヘルはここに来て初めて、人間的な表情を、悲しみの色を滲ませていた。
「貴女にはお詫びを申し上げなければなりません。私はアルファズルにロキ様の苦悩を伝えたかっただけなのです。貴女を巻き込んだことも、庇われる立場が逆になったことも、完全に想定外の出来事でした」
「……地上の文明を滅ぼした神獣のくせに、何を真っ当ぶってやがる。ロキもテメェも、この恨みをぶち撒けて大勢ぶっ殺したんだろ」
「はい、可能な限りの力を尽くし、可能な限りの殺戮を遂行いたしました」
一切悪びれる様子もなく、ヘルは古代人を殺戮し古代魔法文明を滅ぼした事実を肯定した。
これは紛れもない本心であったようだが、この後に続けた言葉もまた、それと同程度には偽らざる本音のようであった。
「しかし、貴女方は違います。現行人類が本当にリーヴスラシルの末裔であるのなら、それはロキ様とシギュンの末裔にも等しい。少々比喩的な、いえ、詩的な表現ではありますけれど」
ヘルの口元にうっすらと微笑が浮かぶ。
その笑みに込められた感情は、嘲笑ではなく肯定的な、むしろ喜びに近いものであるように思われた。
「大部分の神獣と魔獣は、創造主ロキに対して忠誠と呼べるほどの感情を抱いてはいません。本能のままに暴れまわるだけで事足りましたので、忠誠心の付与よりも生産数を重視いたしましたから……ですが私達三体は例外です」
「……何が言いてぇんだ」
ガーネットはヘルの意図を掴みかね、怒りよりも困惑が強くなりつつある頭を横に振った。
すると、ヘルはガーネットにそっと手を伸ばし、一歩前へと踏み出した。
「不要な苦痛を与えた補償……あるいはリーヴスラシルの末裔に贈る餞別。どちらで解釈していただいても構いません。どうか私からの贈り物を受け取ってください」
「贈り物……?」
「今の私は形而上的な疑似人格。形あるものはお渡しできませんが、情報であれば話は別です。もしもイーヴァルディの後継者と争っておられるのなら、きっとお役に立つことでしょう――」
ヘルの手に小さな光の球が出現する。
それを受け取るように促されたガーネットは、幾度となく躊躇しながらも、それを指先でつまみ上げた。
直後、視界が光に包まれる。
ガーネットは全身が光に溶けていく感覚に襲われながら、自分が現実へと送り返されつつあるのだと直感した。
手にした光の球はいつの間にか掌に溶けて消えていた。
それに込められていた記憶の断片は、確かにガーネットの内側へと染み込んで、共に現実へと浮かび上がっていくのであった。




