第670話 三つの枷、不可逆の代償
――枷を外す、戻れなくなる。
大いに不安を掻き立てる言葉選びだが、不思議と俺の気持ちは落ち着いていた。
何となく察しはついていたからだ。
予想外のことがあるかといえば、アルファズルが抑え込んでいたと自称し始めた程度だろう。
「戻れないっていうのは、お前に乗っ取られて自我をなくすってことか? だったらこれまでと変わらないな」
「……それならば良かったのだがな」
アルファズルに意味深な反応をされ、俺は思わず眉をひそめた。
一から十まで懇切丁寧に説明してもらえるとは到底思っていない。
けれど露骨に不十分な説明で済まされてしまうのは、さすがに不愉快さを覚えずにはいられないものだ。
「また『情報は順番に伝えないと云々』とか言い出すつもりなんじゃないだろうな」
「いくら私でもそこまでの不義理はしないさ。詳しいことが分からないだけだ」
「はぁ……?」
余計に意味が分からない。
だったら今の発言は何だったんだ。
実際にそう言い放つよりも先に、アルファズルはより詳細な説明を語り始めた。
「枷を一つ外すたびに、その時点で心の底から必要としている力が手に入り、代償として肉体の変質を生じさせる。一つ目の枷を外した際、右眼球の復元不能の代償が生じた――この体はその段階の姿を模しているものだ」
アルファズルは白く変色した右側の前髪をかき上げ、砕けたガラス細工のように割れた右眼窩と、そこから溢れ出す青い炎のような魔力を見せつけた。
「試料は私一人しかいないのだが。代償の内容は確定したものではない。故に、枷を外した先に何が待っているのかは、現状では私にも読み切れんというわけだ」
「だから詳しいことは分からない、と……まったく、厄介なもの押し付けやがって」
「けれど、必要だっただろう?」
「まぁ……それはそうなんだけどな」
そこを突かれると弱いものだ。
手に余る代物ではあるが、それに何度も助けられてきたことは事実であり、今後のことを考えれば手放すという選択肢もありえない。
「先程まで再現されていた『私』は『叡智の右眼』を得る前の段階だ。遠からず『右眼』を得るに至った事件が起こる時期ではあるが……さて、奴はそこまで再現する気があるのかどうか」
「……? さっきのお前の右眼も、何かよく分からない力が宿ってたぞ。あれは『叡智の右眼』じゃないのか」
「あれは単なる魔眼の類。珍しくはあるが、まだ真っ当な魔法の範疇に留まっている代物だ」
その魔眼とやらがベースとなって『叡智の右眼』が生まれ、そこから更に一つ目の枷とやらを外した結果が目の前の姿……といったところだろうか。
想像が正しいかどうかを本人に確認する暇もなく、アルファズルは一方的に言葉を重ねてきた。
「肉体の変質は私自身でも元には戻せなかった。魂そのものが書き換えられ、この形こそが最初からあるべき姿であったと記録される。故に君の【修復】であっても、変質を起こす前には戻せないだろう」
「……【修復】は、対象に宿った過去の記憶を元にして、かつてと同じ形に復元するスキル。確かに、物質の記憶そのものが上書きされたらお手上げだ」
「これは『右眼』にも同じことが言える。君は『右眼』を得る前の肉体に【修復】できないか試みたことはないか?」
言われてみれば、試したことはなかった。
何だかんだで『右眼』は有用極まりない能力であり、今後も魔王ガンダルフやアガート・ラムと衝突することになると考えると、手放せるとしても当分は手放したくない代物だったからだ。
しかしアルファズルの証言が正しいなら、俺の【修復】でも『叡智の右眼』を得る前には戻れないと考えるべきだろう。
「……ああ、そうか。そういうことか」
俺はアルファズルが言わんとすることを理解し、背もたれに勢いよく体重を預けた。
再現された架空の肉体ではあるが、普段よりも小さく軽くなっているせいか、ぶつかった反動もまるで本物の子供のように小さかった。
「『右眼』の覚醒も、枷の解放も、そのたびに不可逆で魂が書き換えられる。ドワーフのイーヴァルディが言うには、魂こそが人間の証明、人間の本体だったらしいな。最後まで外しきってしまえば、人間ではなくなってしまう――さてはそう言いたいのか?」
「可能性は否定しきれない。私の場合、三つ目の枷を外した直後の戦いで、神獣フェンリルと相打ちになって命を落としたからな。最終的にどうなってしまうのかは闇の中だ」
アルファズルは遠い昔を懐かしむような視線をどこかに送り、それから改めて俺に向き直った。
「人間と呼べなくなるかはともかく、魂と肉体に不可逆の変質が起こることは確かだ。現状、一つ目の枷を三割ほど外した状態で留まっているが……そこから先は全て君の心次第。残り七割も君が望めばたちどころに消え失せる」
「その代わり、大きな力が手に入るんだろ?」
「……必要とあらば、躊躇なく使うつもりのようだな」
「当たり前だろ」
俺はアルファズルの目をまっすぐに見据え返しながら、テーブルに片足を乗せて大きく身を乗り出した。
「そんな『必要』が生じるとすれば、手段を選ばないと死ぬような局面か、もしくはガーネットの一大事だけだ。迷う理由なんかどこにある。むしろ『望むだけでやれる』と教えてくれて感謝したいくらいだな」
心の底からの本音を宣言する。
アルファズルは意外そうに左目を丸くし、それから口元に楽しげな笑みを形作った。
「……なるほど。君と私は価値観が違うらしい。羨ましいものだ」
すると、アルファズルの肉体がまるで蜃気楼のように揺らぎ、どんどん薄くなって消え始めた。
「ま、待て! 聞きたいことが山程あるんだ! まだ消えるな!」
「今回はここまで。案ずるな、またすぐに再会することになる」
静止も虚しく、アルファズルの体が跡形もなく消え失せる。
しかし声だけはしばらく残り続け、虚空に反響するかのように言葉を紡ぎ続けた。
「再び世界が動き出せば、恐らくは全く別の場面が再現されることになるだろう。申し訳ないが、しばらく我が友の趣向に付き合ってくれたまえ。私は常に傍で見守っている。最悪の事態にだけはならないと思ってくれて構わないさ――」




