第668話 在りし日のワイルドハント
「おかえりなさい、アルファズル。今日は一体どこで道草を食っていたんですか」
「悪い悪い。協会の連中に捕まってさ」
「なるほどです。話が長いですからね、あの人達」
さっきまでと比べて、炫日女の表情と声色が数割増しで明るさを増している。
何とも分かりやすい反応の変化である。
すぐにエイルも会話に混ざってきて、話し相手の立場を奪い合うような勢いで、アルファズルに話しかけている。
しかし当のアルファズルはそんな二人の手綱を上手く握り、少女達の勢いに押されることなく話題をずらしていった。
「――ところで、何か俺達に用事があったんじゃないのか?」
アルファズルの左目だけの視線が俺を迷いなく捉える。
俺はこのアルファズルにとって見知らぬ人物であるはずだが、エイルや炫日女と席を並べて同じ飲み物を手にしている時点で、全く無関係な客でないことは一目瞭然だろう。
「そうそう! 実はね……」
エイルが一連の出来事を簡潔に説明する。
彼女達の視点に立てば、さほど込み入った事情ではなく、記憶喪失の子供を見つけたので連れてきたというだけのことだ。
説明の間、俺はさり気なく視線を巡らせて、アルファズル以外の面々の様子を観察した。
見たところ、他の三人はこちらに注意を向けていないようだ。
無関心というよりは気付いていないというべきだろう。
エイルと炫日女がアルファズルに執着するのは、恐らくいつものことなのでいちいち注意を向ける意味がなく、そのついでに俺の存在も見過ごされてしまったといったところか。
ドワーフのイーヴァルディは店主のフラクシヌスに酒を要求し、昼間からは出さないと断られている。
そして若きガンダルフは少々離れた席に腰を下ろし、不機嫌な顔で新聞に目を通していた。
何か不快がことがあったというわけではなく、きっとこれがこの時代のガンダルフの平常なのだろう。
ちょうどそのとき、音楽を流していた機巧が不調を来したのか雑音を吐き始め、イーヴァルディが自然な態度でその機巧を手にとって弄り始めた。
「なるほど、記憶喪失ね。そいつは大変だ」
「原因とか『右眼』で分かったりしない?」
「魔法が原因ならどうとでもなるけど、普通に怪我や病気が原因ならお手上げだぞ。そいつは医術師の領分だ」
アルファズルはそう言いながら、右目を覆う革製の黒い眼帯をずらし、覆い隠されていた右の瞳を露わにした。
意外にも、それは普通の眼であった。
俺の『右眼』のように眼球としての形を喪失しているわけではなく、瞳の部分だけが青い魔力の輝きを帯びている。
「……特に魔法が使われた形跡はないな。普通の……と言ったら変かもしれないけど、誰かが意図的に記憶を奪ったとか、そういうわけじゃなさそうだ」
「そうですか。でしたら医術師様に連れて行った方が良かったかもしれませんね。後は警察辺りでしょうか」
「連中に解決できるとは思わないけど、相談くらいはしておいた方がいいかもな。後で妙な疑いでも掛けられたら面倒だ」
彼らのやり取りから察するに、警察とは銀翼騎士団のように治安維持と犯罪捜査を担う機関なのだろう。
しかし決して全幅の信頼を置かれているわけではないようだ。
まぁそうでなければ、賞金稼ぎなどという職業は成立しないのかもしれないが。
「とにかく、まずは腹ごしらえでもしようか。せっかくだからお前の分も奢ってやるよ。持ち合わせもないんだろ?」
「あ、ありがとう、ございます」
ひとまず俺の扱いも決まったようで、アルファズルがフラクシヌスに適当な軽食を注文する。
その後ろを従業員の女性が通り過ぎていき、湯気の立つ黒い飲み物をガンダルフのテーブルに配膳する。
カウンターに目をやれば、イーヴァルディが音楽を流す機巧を弄りながら、しきりに蓄えた髭に手をやっていた。
「ふぅむ、こりゃあ機械の故障というより伝波の問題だな。伝波塔の不具合なら俺にもネームレスにも手は出せんぞ」
「ちょっとイーヴァルディ! まだそっちの名前で呼んでるの!?」
「どの呼び方も渾名だろうに。同じだ同じ」
イーヴァルディがアルファズルを名もなき者と呼んだことに噛み付くエイル。
しかしイーヴァルディは心底どうでもよさそうで、当のアルファズルもそのやり取りを笑いながら眺めていた。
アルファズルは本名すら定かではないと聞いていたし、周囲から数多くの呼び名を与えられていたとは聞いていたが、それらに対する仲間達の反応はなかなかに新鮮な印象だ。
――こうして見ると、目の前の人々と現代の彼らの存在が、容易には結びつかなかった。
特にエイルの人間性の変化は相当で、長命種のエルフといえど長い年月の影響からは逃れられないのだと実感してしまう。
「おっと、そうだ。君の名前を聞いてなかったな。俺は……そうだな、呼ばれ方は色々あるんだが、最近は――」
その瞬間、突如として世界が静止した。
機巧から流れる音楽が止まり、どこからか漂う冷気も消え失せた。
エイルはカウンターに身を乗り出したまま動きを止め、イーヴァルディは機巧の裏蓋を開けたところから動きもせず、ガンダルフは白いカップを傾けたまま微動だにしない。
フラクシヌスがコップに注ごうとしていた飲み物は、波飛沫のような形で空中に縫い留められ、それを受け取ろうとしていた炫日女は、小走りの途中で両足を床から離した状態で落下もしなかった。
まるで最初に記憶世界を訪れたときの再演だ。
「な……どうして、またこんな……」
何の前触れもない異変に言葉を失う。
最初の時点で予想していた状況でありながら、これまでずっと生気溢れた光景が続いていたせいで、余計に大きな衝撃に襲われてしまう。
だが、静止した世界の中でたった一人、俺以外にも意識を保っている者がいた。
「久しぶりだな、ルーク」
まるで別人のように落ち着いた声色が、目の前のアルファズルの口から発せられる。
瞳を青く輝かせた魔力が右眼全体を延焼させていき、眼窩を飲み込み、そして眼窩の周囲に走った亀裂からも青い魔力の炎が溢れ出す。
俺が知る『叡智の右眼』と同じ光を湛えた眼差し――依然として若々しい肉体を保ってはいたが、正面から俺を見据えた存在は、紛れもなくあの不可思議な老人に他ならなかった。




