第667話 フラクシヌスの喫茶店
「いませんか、フラクシヌス。何でもいいのでジュースをお願いします。できれば酸っぱくないのがいいですね」
するとカウンター奥の織物のカーテンが動き、流麗な衣装に身を包んだ樹人が姿を現した。
かつて静止した記憶世界で目撃した、アルファズルの友の一人――あれがフラクシヌスの過去の姿で間違いないだろう。
樹人は動物のような性別を持たない種族であるため、フラクシヌスもまた男とも女ともつかない容姿をしていたが、それでも『美しい造形だ』と感じずにはいられない。
現在のフラクシヌスは中立都市を支える大樹と化しているが、果たしてそれは長い時の流れによるものだったのか、あるいは何らかの必要に応えて自ら姿を変えたものだったのか。
あんなに長生きをした樹人を他に見たことがないので、俺には判断することができない領域の話である。
「まったく、喫茶店を給水所か何かと誤解しているようですね」
「そこは友達の誼ということで」
「誼を頼るのはもっと大事なときに取っておきなさい。徒に消費するものではありませんよ」
フラクシヌスは苦言を呈しながらも、ガラス製と思しき容器に果汁を注いだものを三つ、カウンターの上に用意した。
「私は少し出かけてきます。もしも何かあれば従業員に伝えてください」
「分かりました、ありがとうございます。ところで、他の皆はまだ来ていないのですか?」
「ええ、さすがにもう終わっているはずなのですが。なので少し様子を見に行こうかと」
そう言い残して、フラクシヌスはカウンターに置かれていた箱状の機巧のツマミを捻ってから、すぐに店を出ていってしまった。
すると店内にどこからともなく流れていた音が、全く別の音色に切り替わる。
店の外で誰かが演奏でもしていたのかと思っていたのだが、まさかあの機巧から音楽が流れていたのだろうか。
残された炫日女は当たり前のようにカウンター席に腰を下ろし、ガラスのコップに注がれた果汁を一口飲んで、俺にもそうするよう促してきた。
言われるがままに着席してコップを傾ける。
――凄く甘い果汁だ。
砂糖が添加されているわけではなく、果物そのものの甘みが違う。
環境のせいか技術力のせいかは分からないが、この文明は農作物も現代と質が異なっているのかもしれない。
そんなことを考えていると、冷気の発生源で涼んでいたエイルが戻ってきて、喉を鳴らして一気に果汁を流し込んだ。
「んっ、んっ……ふぅー、落ち着いた。ところで、ルーク君だっけ。どうしてあんな場所に転がってたのか、よかったら聞いてもいい?」
予想通りのもっともな質問だ。
確認するつもりがないなら、わざわざ声を掛けてこんな場所に連れてきたりはしないだろう。
しかし、本当のことを語っていいものか。
これが過去の記憶が再現された世界だとしても、本人達にその自覚があるとは限らない……というか、あると考えるべきじゃないだろう。
ならばここは、なるべく違和感を与えない方向で誤魔化すべきだ。
「……覚えてないんだ。自分の名前以外、何も」
「えっ、本当に!?」
「それは困りました。私達の手に余ります」
二人揃って困惑の表情を浮かべるエイルと炫日女。
騙しているようで気が引けるが、下手にこの世界の人間の振りをするよりも、記憶喪失を演じた方がボロを出しにくいに違いない。
古代魔法文明の常識に疎いのは本当なのだから、普通に振る舞ってもそう受け止められるはずである。
「やはり皆の帰りを待つしかなさそうですね。一体どこで道草を食っているのやら」
「あの……ところで、皆っていうのは?」
「それはですね……」
「よくぞ聞いてくれました!」
エイルがいきなり立ち上がり、胸元に手をやって自慢気に身を反らす。
声を張り上げているようでありながら、他の客に配慮してか声量自体は抑え込んであるあたりに、このエルフの少女の性格が伺える予期がした。
「私達は新進気鋭の賞金稼ぎ! その名もワイルドハント! これでも結構活躍してるんだからね?」
「まぁ実際は、新進気鋭過ぎて知名度はイマイチなのですけどね。マトモな戦力になるのはリーダーと私と、後はガンダルフくらいでしょうし」
「そこ、水を差さないの!」
ガンダルフ――やはりその名を聞き流すことはできなかった。
奴がアルファズルの旧友であり、かつて迷い込んだ記憶世界でも、エイルやフラクシヌスと並んでアルファズルの傍にいたことを確認している。
現代のガンダルフは人間を特別視せず、不要なら無視するが必要とあらば牙を向くことを厭わないスタンスで行動している。
果たしてそれがいつ頃からの態度だったのか……願わくばこの時点では人間に甘くあってもらいたいものである。
そうでなければ、見知らぬ赤の他人に過ぎないこの俺を、冷酷に切り捨ててしまうかもしれない。
少しでも情報を集めなければならない現状、彼らから突き放されることだけは避けたいところだ。
……そして、気になったことがもう一つ。
「リーダー……というと?」
炫日女がさり気なく口にした一言に、俺は引っかかりを覚えずにはいられなかった。
これまでに得てきた知識からごく普通に考えれば、リーダーとはアルファズルのことだと考えるのが妥当である。
しかしそうすると、今度は逆に俺が経験しているこの出来事を、アルファズルの記憶の再現と考えることが難しくなってしまう。
アルファズルが既にバウンティハンターグループのリーダーとして彼女達と関わっているのなら、俺が追体験しているこれは一体――あるいは、何らかの過去の追体験であるという想定から間違っていたのか。
「私達ワイルドハントのリーダーはですね……っと、噂をすれば何とやら」
炫日女が表情を明るくして店の玄関に視線を向ける。
その直後、俺達が入ってきたときと同じようにドアベルを鳴らし、複数の種族からなる四人組の集団が入ってきた。
一人はさっき出ていったばかりのフラクシヌス。
後ろにいるのは髭面のドワーフとしかめっ面のダークエルフ。
彼らの姿も以前に目撃したことがある。
恐らくは在りし日のイーヴァルディとガンダルフに違いない。
――そして、最後に姿を現した人間の男を目の当たりにしたことで、俺はこれまでの考えが根底から間違っていたことを理解した。
頭髪を白い右側と黒い左側のツートンカラーで二分され、革の眼帯で右眼を隠した青年――
「おかえりなさい、アルファズル。今日は一体どこで道草を食っていたんですか」




