第665話 記憶の底へと落ちていく
とある日の営業終了後、事前に約束しておいた通り、ヒルドがホワイトウルフ商店を訪ねてきた。
「お邪魔します。お仕事はもう終わられましたか?」
「ああ、いらっしゃい。片付けも終わったよ。ノワールとアレクシアも奥で待ってるから、さっそく始めようか」
ヒルドを屋内に迎え入れて、店舗ではなくリビングの方へと案内する。
その横顔が楽しげに見えたので、本当に何気なく横目を向けていたところ、ヒルドもそれに気付いてこちらを見上げてきた。
「実を言いますと、例の件をもう一度試したいとは前々から思っていたんです。陛下と魔王ガンダルフの謁見からずっと、状況がそれどころではなかったので、言い出すに言い出せなかったのですが……」
「確かにやることが山積みで大変だったな」
けれどそれも一時的に落ち着いてきている。
陽動の突入作戦と本命の作戦の準備に注力することで、それ以外の分野に払う労力が相対的に少なくなり、タスクをこなすに従って時間的な余裕も戻ってくる。
準備が全て終われば、今度は作戦の実行でたっぷり時間を取られることになるわけだが、少なくともそれまでは気を緩める余裕も生まれるわけだ。
恐らく、俺達が私的に『右眼』の秘密を探れるタイミングは、この時期をおいて他にない。
さもなければ、一連の作戦が終わるまで持ち越しとなってしまうだろう。
「と、いうわけで。今日は私も全力で頑張りますので、よろしくお願いしますね」
「そいつは頼もしいな」
心の底からそう思いつつ、ノワールとアレクシアが待つリビングへと足を踏み入れる。
さっそく挨拶を交わし合う三人の女達。
何だか妙に他人行儀だなと思ってしまったが、よく考えれば彼女達は俺を介した間接的な関係であって、仲良く打ち解け合っているような間柄でもなかった。
「……さて、ヒルド卿。ルーク君の『右眼』を調べるにあたって、何か注意すべき点はありますか?」
「そうですね……強いて言うなら、現地には王宮が非公開と定めた情報があるかもしれません。それらについては、私の判断で検閲を加えさせていただくことになりますので、ご了承ください」
「ええ、構いませんとも。余計なことを知り過ぎたら長生きできませんしね。命あっての物種ですし」
「さ、さすがにそこまでは……」
アレクシアが飛ばした際どい冗談に、ヒルドは反応に困った様子で戸惑いを浮かべている。
この辺りは両者の性格的な波長の違いというべきだろう。
「それではまず、皆さんとご一緒に調査する前に、意図した通りのことができるかどうか確かめるとしましょう。ルーク団長、そちらの椅子に座っていただけますか」
「あ……あの……私、も、近くで……見て、も……」
「ええ、構いませんよ。どうぞどうぞ」
一方ノワールに対しては、ヒルドもかなり接しやすく感じているようだ。
落ち着いた気弱な性格だからか、それとも分野違いとはいえ魔法使い同士だからだろうか。
「それでは失礼します」
三人のやり取りの間に発動させておいた『右眼』にヒルドが両手をかざし、少しずつ魔力を浸透させていく。
眠りに落ちる直前にも似た感覚が湧き上がり、意識が奥へ奥へと沈んでいく。
しかし本当に眠るときのように意識が薄れることはなく、意識そのものはハッキリとしたまま、体から遊離して自分自身の裏側に回り込んでいくような――ああ、言葉にしようとすると訳が分からない。
『ルーク団長、聞こえますか』
ヒルドの声がぼんやりと響く。
意識がこんな風になっているせいで、耳に届いた音の聞こえ方まで妙になっているようだ。
『多少ではありますが、奇妙な反応が見受けられます。一旦、団長の意識を引き上げて仕切り直しを――』
その瞬間だった。
周囲が突如として凄まじい光に満ちたかと思うと、眩い光の奔流がまるで滝のように流れ落ちていく。
俺はその激流に抗うこともできず、瞬く間に遠ざかっていくヒルドの声に腕を伸ばし、成す術もなく落ちていくことしかできなかった。
『――! ――! ――――!?』
もはや音としても聞こえなくなるヒルドの声。
視界も真っ白に染め上げられ、もはや五感が機能しなくなっていき――
――気がつくと俺は、見知らぬ都市の裏路地に、仰向けになって倒れていた。
青い空、狭い空。
三方向を高い建物に取り囲まれた袋小路。
額縁のように切り取られた空は青く晴れ渡っていて、太陽も中天に達しようかという頃合いだ。
「(あ……あれ……?)」
地面は固い石のようなもので覆われている。
鼻腔に届く空気は自然に乏しい都会的な臭気を微かに帯びていて、土や緑の匂いが全くしない。
そして路地の外から聞こえてくる小さな音は、何台もの車両が忙しなく道路を往来する騒音のようにも思える。
復帰した五感のうち、味覚を除いた四つまでが、ここがグリーンホロウではないと如実に告げていた。
「(……力が、入らない……とにかく、起き上がるくらいはしないと……)」
仰向けで横たわったままでは現状の把握すら不可能だ。
例の記憶世界に俺だけが引きずり込まれてしまったのだとしても、まずは状況を確認しなければどうしようもない。
けれど不思議なくらいに体が重く、思い通りに動いてくれなかった。
「(いや、ちょっと待てよ。ここがあの世界だとしたら、どうして物音がするんだ?)」
以前のケースでは、再現された古代魔法文明の世界に住人は存在せず、必然的に人の営みもなかったため、街は不気味に静まり返っていた。
しかし今回は明らかに違う。街が生きている。
異常事態に対する焦りに突き動かされ、どうにか上半身を起こしたところ、左右から見知らぬ少女達が――否、一方的に見知った顔の少女達が声を掛けてきた。
「あっ! よかった、気が付いた?」
「わざわざ人を呼びに行かせる必要はなかったですね。顔色も悪くないようです」
唖然として声が出ない。
だが更に畳み掛けるように、信じがたい現実が襲いかかってくる。
「……あの、ここは……」
自分が発した声に驚いて言葉を失ってしまう。
何だ、今のは。あまりにも声が若すぎる。
反射的に顔を顔を触り、掌を見つめ、そしてもう一度顔に触れる。
旗から見れば奇行と映ったかもしれない俺の行動を、エルフの少女は意識を取り戻した直後の混乱だと解釈したらしく、優しく微笑みながら折りたたみ式の手鏡を取り出して俺の前で広げてみせた。
「大丈夫、怪我なんかしてないから。ほら、平気でしょ?」
そこに映った俺の姿は、明らかに本来の年齢の半分以下の姿に変わり果ててしまっていた。
著しい混乱に叩き込まれた俺を他所に、少女達は俺を見知らぬ少年として保護する前提で話を進めているようだった。
「とりあえず、ケイサツに連れて行った方がいいかな」
「その前に皆のところに連れていきましょう。ひょっとしたら身内の方を見つけているかもしれません」
「うーん、そうね……ねぇ君、立てる?」
微笑みを浮かべて手を差し伸べるエルフの少女。
そしてエルフの少女の後ろには、むすっとした顔で佇む東方人の少女。
俺は彼女達を知っている。声や人柄は知らずとも、顔だけは記憶に刻まれている。
エイル・セスルームニルと火之炫日女――かつて静止した世界の中で目にしたアルファズルの盟友が、確かな現実感を伴ってそこにいた。




