第660話
第二階層に夜が訪れたその頃。
無人の大議事堂は明かりが落とされ、フラクシヌスの魔力の輝きだけが静かに周囲を照らしている。
そこに音もなく姿を表したのは、フラクシヌスの御使いである樹人のポプルスだった。
ポプルスは静かな足取りで輝きを帯びた壁の前に進み出ると、恭しく頭を下げた。
「フラクシヌス様。本日の庁舎業務は全て滞りなく終了し、夜間警備体制への移行も完了いたしました。フラクシヌス様もお休みを……フラクシヌス様?」
主君からの反応がないことを訝しがり、ポプルスは様子を窺うために一歩前に踏み出した。
『……おや、ポプルスでしたか。すみません、考え事をしていました』
「考え事……もしや、第三階層のアガート・ラムのことを……?」
『当たらずとも遠からず、ですね。メダリオンを使うアガート・ラムではなく、メダリオンを生み出した人物のことを思い出していました』
ポプルスは表情に乏しい人形のような顔を傾け、主の発言の意味を理解しようとしばし黙り込んだ。
『ロキ――我らの友の一人だった男。メダリオンを作り、魔獣と神獣を生み出し、古代魔法文明の滅亡の引き金となった錬金術師――彼のことは長らく考えないようにしていましたが、メダリオンの存在がこうも重要になった以上、どうしても思い返さずにはいられません』
若木に過ぎないポプルスにとって、古代魔法文明の繁栄と滅亡も、ロキとメダリオンの存在も、全ては歴史どころか神話にも等しい過去の出来事だ。
主にして神話の生き証人たるフラクシヌスの口から――もはや肉体は人の形を成していないが――語られない限り、それらの真実についてほんの一片でも知ることはありえない。
「その……ロキなる人物は何者なのですか? 何故メダリオンを生み出し、古代魔法文明を滅ぼしたのですか?」
ポプルスが発した問いは当然の疑問だ。
当時を生きた者でなければ、誰もが同じ感情を抱くに違いなかった。
しかしフラクシヌスが返した答えは、その謎を解消するには程遠いものであった。
『分からない……そう答えるより他にありません』
「フラクシヌス様ですら……?」
『まず、彼が何者であるか。それは彼自身も知りえないことでした。ロキは自らの出自を知らず、種族すらも遂に判別することができずに終わりました』
この場合の終わったとは、ロキが神獣を解き放った咎で処断されたことを意味しているのか、それとも古代魔法文明が実質的に滅亡したことを指しているのか。
ポプルスはそのように些細な疑問を差し挟むことはせず、フラクシヌスが語る言葉に静かに耳を傾けている。
『次にメダリオンを生み出した動機ですが、これも他者である私には知り得ないものです。彼は錬金術師として、無秩序に数多くのアーティファクトを製造していましたから』
「その一環だと言うだけで、充分な説明になっていた……」
『ええ、恥ずかしながら。当時の我々は、メダリオンの誕生に何らかの意味があるとすら思っていませんでした。唯一、アルファズルだけは思うところがあったようでしたが』
遠く遠く――遥かな過去の出来事を語るフラクシヌスの声からは、良い思い出を振り返るかのような色合いが感じられた。
かつて世界を滅ぼした存在を、今もなお『友』と呼ぶことに込められた思いの強さは、決して浅いものではなかったのだろう。
『……そして、神獣を解き放って世界を滅ぼした理由もまた、明らかにはなりませんでした。捕らえられた後もロキは最期まで真相を語らず、黙したまま死を受け入れてしまったのです』
「だから、地上の人間の方々にも多くを語っていないのですね」
『彼らがロキとメダリオンに関して欲するであろう知識は、全くと言っていいほど持ち合わせていませんからね。友人としての思い出話など、聞かされたところで困るだけでしょう』
神獣とメダリオンを生み出した理由。
世界と古代魔法文明を滅ぼした理由。
それらの答えはフラクシヌスの中にはなく、あるのはただ友人としての思い出ばかり。
過去も種族も謎に包まれ、本人すらも知り得ないながら、確かに友人として有り続けた――それがフラクシヌスにとってのロキという人物の全てであったのだ。
「もしも……ルーク・ホワイトウルフを始めとする地上の方々が、友人としてのロキについてお聞きしたいと仰ったら、フラクシヌス様はどのようになさるのですか?」
『彼らが望むのであれば語りましょう。もっとも、退屈な時間になってしまうかもしれませんが』
本気とも冗談とも付かないその口振りに、ポプルスは先程とは逆の側に小首を傾げた。
フラクシヌスは御使いのそんな反応を気にする素振りもなく、もしも人間に近い体が健在だったなら遠くを見やって呟いていたような声色で、静かに落ち着いた声を響かせた。
『これは何の根拠もない予感なのですが。遠からず、彼らがロキの真相に触れるときが来るのだろうと思っています。ロキが抱いた思い、願い、それらの全てを――そのときは、私の方こそ彼らに話を聞きたいと希うのでしょうね』
ひとまず本章はここで一区切りとしまして、次回からは新章として地上での話に戻る予定です。