第659話
広間の前を後にした俺達は、再び建物の外に沿った回廊を歩き、別の場所から屋内に入ることにした。
今度は足を止める必要もなく、街の喧騒からも離れていて、一息つくには丁度いい落ち着いた空気が流れている。
しかし、そんな場所にも先客が一人。
すっかり疲れ果てた様子のユリシーズが、窓辺に背中を預けて休憩を取っていた。
「おや、こりゃどうも。団長も休憩ですかね」
「今日はお疲れ。色々と無茶させて悪かったな」
「全くですよ。こちとらもういい歳だっていうのにねぇ」
そんなことを言いながらも、ユリシーズの表情はどこか清々しい。
「船をぶん回すのはまだいいとして……いや、別に良くはないんですが、脇に置いとくとしましてね? その後で蛇と半魚人の群れに囲まれたのは、さすがに死ぬかと思いましたよ。こちとら陸の上では大したことできないですからね」
俺とガーネットがマザーヒュドラとやり合っている間、残った面子は島の中央で魔獣の眷属の包囲を受けていた。
当然、ユリシーズもその襲撃に巻き込まれていたわけだが、人並み程度にしか戦えない奴がそんな修羅場に巻き込まれたらどうなるか――俺も骨身に染みて理解している。
とにかく逃げたり隠れたりするしかないというのに、そういう分野にも適性がないものだから、すぐに見つかって追い回されては味方を頼ることの繰り返しだ。
「地上に戻ったらしばらく休みでも貰いましょうかねぇ。そもそも当面はマトモに体が動きそうにないですし」
「ははは……それはもちろん。大仕事を終えた後はゆっくり休まないとな」
「坊主も若いからって油断するんじゃないぞ。若くても壊れるときは壊れるんだからな?」
ユリシーズは俺について来ていたガーネットにも視線を向け、やたらと実感の籠もった助言らしきものを押し付けた。
ガーネットは甘く見られたと思ったのか不満げだったが、俺としてはユリシーズに同意してしまう。
いくら負傷を【修復】できるとはいえ、なるべくなら無茶をしてもらいたくはないものだ。
もっとも、実際にそれを言葉にしてしまったら、お前が一番【修復】に物を言わせて無茶してるだろ、と言い返されてしまうだけなのだろうが。
「……ところで、その休みが終わった後のことなんだけどな?」
残念ながら、肩の力を抜いた雑談ばかりしていられるわけでもない。
こういう仕事の話からは、どうあがいても逃げられないものだ。
「今回はあくまで現場の下見。水路に船を下ろし、第三階層に乗り込んで無事に引き返すことが本番だ」
「だけどそのためには優れた船が要る。水路の流れに逆らって逃げ遂せられるような船が」
ユリシーズは俺が言おうとした内容を完璧に先取りし、一言一句そのままに言葉としてみせた。
「自分が指揮官だったとしても、同じ発想をすると思いますよ、ええ。一番手っ取り早いのはさっきと同じ船を使うことですからねぇ」
「俺が知る限りで一番高性能な船でもあるぞ」
「あっはっは。煽てたってこっちの返事は変わりませんからね」
ガラスのない窓辺に背中を預けたまま、ユリシーズはひらひらと片手を振りながら、背中を反らして窓の外まで顔を覗かせた。
そうして外の澄んだ空気を吸い込んでから、ゆっくりと姿勢を元に戻して、猫背気味にぽりぽりと頭を掻く。
「正直に言いますとね。今回の仕事、久々に楽しかったと思えましたよ。何年ぶりでしょうね、あんなにヒヤヒヤしっぱなしだったのは。戦争が落ち着いてからは無かったんじゃないですか?」
「ユリシーズ……」
「せっかくですから、老頭児の昔話に付き合ってもらうとしましょうか。実のところ、白狼に来る前から退屈続きではあったんですよ。ほら、うちの騎士団って西方海路の護衛やら取り締まりが仕事でしょう?」
そう嘯くユリシーズの横顔は、一言では言い表せない複雑な感情が入り混じっていて、結果的に無表情な真顔に近くなっているように感じられた。
「東方みたいな辺境でもなく、南方みたいに海賊が跋扈してるわけでもなく。普通は羨ましがられる環境なんでしょうが……生憎、当時のオジサンはまだまだ跳ねっ返りで尖ってましてね。平穏って奴が苦痛に感じる時期もあったんですよ」
アルフレッド陛下の即位から二十年余り。
大陸統一事業が加速したのはそれ以降であり、多くの土地は併合から十数年、遅ければ数年程度しか経過していない。
俺よりも年上のユリシーズにとっては、多くの国々が相争う戦乱の時代こそが青春であり、騎士として充実した時間を送ることができた時期だったのだろう。
「生まれ育った王国がウェストランドの軍門に降って、自分達は海戦に優れていた点を評価され、重要な航路の警護を任されることになった……間違いなく名誉ではありますよ。殆どの騎士は好条件での再登用に喜んでいましたしね」
「だけど、そうじゃない騎士もいた……」
「それでも人間は慣れるものです。いえ……諦めがつく、とでも言った方が正確ですかね」
ユリシーズの口元に苦笑が浮かぶ。
「牙を抜かれ骨を抜かれ。狡兎死して走狗烹らるってのは東方の言い回しでしたかね。そういう目に遭わなかっただけマシだと割り切って。海と船の上で生きていられるなら充分だと自分に言い聞かせて……そんなこんなで、捻くれたオジサンが形成されるに至ったんですがね」
その末に待っていたのは、懲罰目的だったとも噂される内陸部への転属だった。
本人は自分に咎があったことを否定しているし、あちらの騎士団長からもそういう連絡は来ていないが、ネガティブな理由から選出された人員であることは想像に難くない。
「で、今回のお話が持ち込まれたわけですが。そりゃあ、最初はどうなることかと思いましたよ。マトモな実戦はもう何年もブランクがありましたし、技術も体力も間違いなく衰えてましたしねぇ。前日なんか柄にもなく眠れなかったくらいですよ」
「だけど、楽しかったんだな」
「ええ。死ぬほど焦って死ぬほど疲れましたけどね。不謹慎かもしれませんが、戦場のスリルに酔っていた若い頃の気持ちを思い出しましたよ」
今の時代、決して褒められるような感性ではないのかもしれない。
それでも俺は、何だかユリシーズを羨ましく感じてしまった。
「続きがあるのなら、是非とも参加させてもらいたいと思っていましたよ。もちろん別に候補があるならお譲りしますがね」
「……ありがとう。今後も頼らせてくれるか?」
「こんなボロ船で構わないなら。だけど陸での切った張ったは御免ですよ。そいつはさすがに死んじまいますからね」




