第658話
ルークとガーネットがこっそり立ち去った後、アレクシアは覗き見されていた事実に気が付かないまま、ぐっと伸びをしてから広間のテーブルへと足を運んだ。
「さてと、今のうちにもうちょい詰めておきますか」
卓上に広げられたのは一枚の図面。
一つの機巧装置を複数の角度から描いたスケッチに、専門的な記述や記号が添えられている。
正確な内容は機巧技師でもなければ理解できないのだろうが、大まかな機能だけはスケッチを見ただけでも伝わることだろう。
いわゆる起重機のような、重量のある物体を昇降させるための装置だ。
「あの……これって、船を下ろす機巧ですか? あの湖で使うものですよね」
レイラがアレクシアの肩越しに図面を覗き込む。
ラフスケッチながらも丁寧に描かれていることもあって、第三階層への突入経路を知る者であれば、機能のみならず用途までも即座に理解することができる。
機巧についての専門知識を持たないレイラが、一目で機能と用途を言い当てたことがその証左だ。
「もうちょっと正確に言うと、上げ下ろしする機巧だね」
アレクシアは椅子に腰を下ろしてから振り返り、背後のレイラに向けて微笑んだ。
「細かいなぁって思うかもしれないけど、今回は下ろすだけじゃ駄目なんだよね。あの縦穴から下りた冒険者達には、何が何でも同じルートで戻ってきてもらわないといけないからさ」
第二階層から地下水路を利用して第三階層に突入する――この作戦はあくまで陽動に過ぎない。
本命の第四階層からの突入に先立って、アガート・ラムの意識と防衛体制を『上の階層からの突入』に偏らせ、本命に対する備えを完全に失わせるための前哨戦。
故に、この突入作戦は最初から敗走を前提としているのだ。
「機巧装置を使って第三階層に下りる連中は、あちらさんの迎撃を受けて程よく負けて、なおかつなるべく全員無事に戻ってくることがお仕事だからね。むしろ下ろすより引き上げる方が重要かも」
「そっか……そうですよね。ちゃんと逃げてもらわないといけないんだ……」
「自分の命を粗末にするのは、本人の勝手かもしれないけどさ。他人の命は軽々しく粗末にしちゃいけないからね。追っ手がいても速攻で引き上げられるようにしておかないと」
図面に書き込まれた記述の量は、船を下ろす機能についての書き込みよりも、帰還した冒険者達を速やかに回収するための機能の方がずっと多かった。
船が第三階層に到達し、計画通りに迎撃を受けて撤退したとしても、相手が簡単に見逃してくれるとは限らない。
最悪の場合、執拗な追撃を受けながら水路を逆走し、追っ手の目の前で地上に逃れなければならない可能性すらある。
アレクシアの図面は、その点もしっかりと考慮されたものとなっていた。
往路は船を強靭な金属線で吊り降ろし、復路は船を水路内に置き去りにして、乗員だけを巻き上げ機で強引かつ迅速に引っ張り上げる。
回収時の負傷はある程度まで許容して、目と鼻の先に迫るアガート・ラムの脅威から一秒でも早く逃れることを前提とした、文字通りの脱出手段だ。
もちろん、これは追撃の可能性を考慮した手段であり、追撃がなかった場合の穏当な回収手段も設計されている。
「うーん……どうせ追撃まで心配するなら、足止め手段も用意しておいた方がいいのかも。壁とかに設置できる奴を作って、往路に取り付けておけば……ん、どうかした?」
アレクシアはレイラが自分の横顔をまじまじと見つめていることに気が付いて、何か用事でもあるのかと小首を傾げた。
「その……凄いなぁって思いまして」
「幾何学とか設計とかは子供の頃から仕込まれたからね。こういう技術職ってスキルだけじゃどうしようもないから、とにかく勉強あるのみで……」
「いえ、そうではなくって。他の人の命が懸かった大仕事を、こんな風に落ち着いてやれるなんて、やっぱり凄いことですよね……っていう風に思っただけで……」
「あはは、ありがと」
アレクシアは笑いながらペンを置いて椅子を回し、少しだけ顔を上げてレイラの赤い瞳を見つめ返した。
「機巧技師っていうのは他人の命を背負うものだから。私の故郷は、街全体が大きな建物みたいに積み上がった複層都市で、機巧がないと成り立たない代物だったんだ」
むしろ機巧があったからああなったのかもね、と付け加えて、アレクシアは柔らかい笑みを浮かべた。
「一番下以外の階層は機巧で水を汲み上げないといけないし、人も資材も昇降機で上げたり下げたりするから、機巧の故障が冗談じゃなくて人命に関わってくるの」
「な、何だか想像もできないです……」
「そういう環境で育ってきたからかな。機巧技師は、自分が作った機巧を使う人の命を背負う仕事。それが当たり前の認識になってるんだ」
会話の中で挙げられたケースは故障が人命を左右する事例だが、性能の不足が人命に関わる場合も当然にある。
例えば災害時の緊急避難のための機巧があるとして。
それが不十分な想定で作られていて、脱出に間に合わせることができず死者を出してしまったとしたら、設計者である機巧技師に大きな責任があると言えるだろう。
アレクシアはあえて言葉に出すまでもなく、常にそういった想定を念頭に置いて開発に携わっていた。
「それに、冒険者として活動してたのも大きいかな。やっぱり現場を知ってるかどうかは大きくてさ。ルーク君のお世話になったから今の私がいると言っても……うん、やっぱり過言じゃないね」
「あの……アレクシアさん。お話は変わるんですけど……」
不意にレイラは言いにくそうに言葉を濁し、そして意を決したように口を開いた。
「ル、ルーク店長のこと、男性として悪しからず思っていたのでは!?」
「いや、全然?」
即答であった。
唖然とするレイラに、アレクシアはさっきまでの慈愛に満ちた微笑みとは違う、からかい気分に満ち溢れた笑みを向けた。
「やっぱり自分が恋愛で盛り上がってると、他人のことまで気になっちゃうもんなんだねぇ。だけど残念。さっきの質問、ルーク君に聞いても即答だよ?」
「そう……なん、ですか?」
「一個人としては尊敬もしてるし感謝もしてる。だけど色恋沙汰気分になったことは、お互いに一度もなかったな。同じ部屋で寝泊まりしてた時期もあったけど、びっくりするくらい全然。ま、こういう関係もあるってことで」
「……いわゆる大人の関係、みたいな……」
レイラからアレクシアに向けられる眼差しに、また一色、あらたな尊敬の色が加わったようだ。
アレクシアは苦笑を浮かべ、再びペンを手に取って、図面への書き込みを再開したのだった。




