第650話
「ガーネット! メダリオンはそいつの頭の中だ! 逃がすな!」
俺の声とほぼ同時に、ガーネットが全速力で駆け出して、逃走を図って湖面に落ちていくマザーヒュドラの本体に追いすがる。
しかし『右眼』が伝える情報は、ガーネットが追いつくよりも先に、本体のサーペントが水中へ逃走するであろうという推測を告げていた。
だから俺は、声を発した瞬間に新たな一手を実行に移していた。
氷の矢弾の生成に併せてメダリオンを合成――そう、スコルとハティに次ぐ3つ目のメダリオン、魔獣ダゴンの核を取り込んだ矢弾を作り出し、大型弩級に装填する。
「受け止めろ、ガーネット!」
アレクシアも即座に俺の意を汲み、湖畔に照準を合わせてトリガーを引く。
水飛沫を上げて湖中に消えるサーペント。
遅れて湖畔を疾走するガーネットが、後方から追いついた矢弾を掴み取ると、投射の瞬間に込めておいた力が解放されてガーネットに流れ込む。
それはダゴンのメダリオンから生み出される魔獣因子。
スコル由来の魔獣因子であった耳と尾が弾け飛ぶように消え失せて、溜め込んでいた熱量が爆発じみた熱風と化して撒き散らされる。
先に一体化していたスコルのメダリオンも、まるで後から押しかけてきた因子に追いやられるかのように、メダル型の実体を取り戻してガーネットの背中から弾き出された。
しかしガーネットは一歩たりとも足を止めず、体の変化が完了するのも待たず湖に飛び込んだ。
――周囲一帯に唐突な静寂が訪れる。
核たる本体から切り離されたマザーヒュドラの残骸は塵と化して消滅し、巨体が暴れ回ったことで崩れた地形だけが後に残されている。
後はもうガーネットに任せるしかないと分かってはいるものの、だからといってここで待ち続けるなんてことは到底できず、俺は自然と湖畔に足を向けていた。
アレクシアは大型弩級を担ぎ、何も言わずに俺の後ろをついて来る。
よほど遠くか、それとも深くで戦っているのだろうか。
湖畔から湖面に『右眼』を凝らしてみても、ガーネットが広い湖のどこで戦っているのかは分からない。
勝てるはずだという確信はある。
ガーネットが俺の読み通りに水中戦能力を手に入れられたのなら、本体のサーペント程度の魔獣には遅れを取らないはずだ。
マザーヒュドラがあの巨体を再構成した可能性は、湖の鎮まりようを見ればまずないと言えるだろう。
あんな代物が水中で暴れ回ったなら、湖面にもそれと分かる影響が生じるはずだ。
けれど不安は拭いきれない。
万が一の悪い想像がどうしても脳裏を過ぎってしまう。
俺はガーネットが意図せず残していったスコルのメダリオンを拾い上げ、視線を落としながら力を込めて握り締めた。
「ガーネット君がどこから上がってくるか分かりませんから、手分けして別の場所で待ちましょうか」
「……それじゃあ、俺は時計回りに見て回るから、お前は反対向きに回ってくれ」
「了解です。何かあったらこれですぐに合図してください。閃光弾を打ち上げる魔道具ですので」
ひとまずアレクシアの提案を受け、ガーネットが陸地に戻ってくるのを、それぞれ違う場所で待つことにする。
アレクシアもガーネットが無事に帰還する前提で話しているのは、あいつから見ても楽観視するに足る状況だったからなのか、それとも俺の不安を悟って配慮しただけなのか。
どちらにせよ問い質せるものではないので、ひとまず意識の外に押し出しておいて、ガーネットの帰還の予兆を見逃すまいと目を凝らしながら、魔物との遭遇を気にかけつつ歩を進める。
やがて波打ち際が岩場に変わってきた辺りで、発動させっぱなしの『右眼』が岩の陰にガーネットの魔力の気配を感知する。
ちょっとした崖のようになっている大きな岩の下、ちょうど大気と湖面の境界辺り――打ち上げられた死体が流れ着くであろう場所だ。
「ガーネット!」
ごつごつとした岩に構わず大岩に駆け寄り、その上から湖面を見下ろそうとしたところ、冷たい水の塊が思いっきり跳ね上げられて顔面に直撃した。
「うわっぷ……!?」
想定外の奇襲に機先を制され、大岩の縁に膝を突いて水気を拭う。
目に入ってしまった水に難儀していると、下の湖面からガーネットの声がして、金属質の何かがピンと高く弾き上げられた。
「慌てんなよ。ほら、土産だ」
思わず受け取ったそれは、まさしく魔獣のメダリオンであった。
マザーヒュドラ。
いかなる手段によってか魔獣ダゴンと一体化していた、ヒュドラの究極体と呼ぶべき魔獣の核。
ガーネットが無事に水中戦を制したことを証明する、勝利の証である。
「……アレクシアはいるか?」
「いや、島の反対側を見に行ってもらってる。何か用事でもあるのか?」
「だったらいいんだ。融合解除するまで呼ばなくていいからな。ぜってー呼ぶなよ」
何故かガーネットは、アレクシアがこの場に立ち会うかどうかを気にしている。
どうしてだろうかと理由を考え、まさか醜い半魚人の眷属を持つダゴンの因子を取り込んだことで、第三者には見せたくない容姿に変わってしまったのではないかと思い至る。
それならすぐにでも解除しなければ――そう考えて大岩を降りようとする。
「待ってろ、今すぐ解除して……」
しかし視界に入ったガーネットの姿は、全くそんなことなどない普通の状態を保っていた。
見えたのは胸のあたりから上だけだったが、人外的な要素は全く見受けられない。
発動に失敗したのか、それとも勝手に解除されてしまったのでは、なんて考えが一瞬だけ脳裏をよぎるほどだった。
けれど、そちらもまた間違いだったということを、ガーネットはこれ以上なく明確に示してきた。
「こんな風になるってこと、最初に視えなかったのか?」
ガーネットがムスッとした顔をすると同時に、大きな魚の尾部が水飛沫を上げて水面に現れ、岩の上の俺に水の塊を浴びせかけてくる。
最初の混乱が収まり、冷静に『右眼』の視界に意識を傾けられるようになったことで、俺はようやくガーネットの現状を理解した。
変化があったのは下半身だ。
腰から下が滑らかな鱗に覆われた魚のそれに変貌していたのだ。
「……悪い、これは完全に想定外だ。半魚人の因子がスパッと上下に分かれたんだな……」
「上半身の方も変わってるぞ。何せ水ん中で息ができたからな。首の横とかに鰓でもぱっくり開いてんじゃねぇか?」
ガーネットは不満げにバシャバシャと尻尾を暴れさせてから、湖面に浮いていた布切れらしきものを尾先に引っ掛けて、思いっきり勢いを付けて俺の頭に投げつけてきた。
水を吸ったそれは異様に重く、尻尾の勢いも上乗せされてそこそこのダメージが入ってしまった。
「まずはこいつから修復せ。これじゃ上がるに上がれねぇ」
……それは間違いなく、ガーネットが履いていたズボンであった。
しかも脚の内側が見事に破れていて、着衣としての意味をなさなくなっている。
「つーか、おかしいだろ! スコルとかは服も耐熱になるくせに、なんでこいつは破れるんだよ! 巻き込んで尾っぽにすりゃいいだろうが! ひょっとしてオメーの趣味かコラ!」
「いやそれは濡れ衣……わぷっ」
ガーネットが半魚人の下半身を暴れさせるたびに飛沫が舞う。
結局ガーネットが機嫌を直すのは、きちんと着衣を【修復】してダゴンのメダリオンを取り出した後になったのであった。




