第642話
そしてトラヴィスは巨大なサーペントの首の上を疾走し、瞬く間にダゴン本体の腰回りに飛びついた。
ダゴンへの接近が困難でも、奴の下半身が無数のサーペントの首で構成されている以上、首を足場にして辿ればあの通りだ。
「よっしゃ! オレ達も――うおわっ!」
次の瞬間、猛烈な水飛沫を帯びた暴風が渦を巻き、まるで竜巻のようにダゴンの周囲を飲み込んでいく。
もはや目を開けて立っていることすら困難だ。
船に取り付いていた半魚人すらも無差別に被害を受け、何体かが吹き飛ばされて落水する。
「団長! これ以上は無理だ! 一旦距離を取る!」
ユリシーズが舵を切って嵐から離脱する。
しかしダゴンは俺達を追うことも岸辺へ接近することもなく、湖水を巻き上げた超局所的な嵐の内側に留まり続けていた。
「どうなってやがんだ、ありゃ」
「多分、トラヴィスを吹き飛ばそうとしているんだ。あの巨体じゃ器用に狙えないだろうからな」
もちろんトラヴィスがあの程度で音を上げるはずはない。
だが俺達の方から援護できなくなったのもまた事実だ。
次に打つべき一手に思考を傾けていると、ヒルドが焦りを浮かべて駆け寄ってきた。
「団長! 大変です! アンブローズ卿がいません!」
「何だって!?」
突然の報告に心から驚く暇もなく、船の周囲の湖面に無数の半魚人の頭が浮かび上がってくる。
どうやらダゴン自身はトラヴィスへの対処に専念し、俺達は眷属に任せることにしたらしい。
次から次に発生する想定外の数々に歯噛みしつつ、とにかく包囲網を突破すべくガーネット達に迎撃の指示を飛ばすのだった。
――ルーク達が嵐の如き暴風を避けて離脱したその頃、トラヴィスはごつごつとしたダゴンの体表にしがみつき、目指すべき一点を睨み上げていた。
ルークが『右眼』で確認した弱点の位置は、切り立った岩山の断崖さながらのダゴンの胸部、その奥底だ。
あの分厚い肉を突き破るには相当な威力が必要となるだろう。
トラヴィスは細かい計算を放棄し、フルパワーでの打撃を想定して、ミスリルのガントレットを纏った右拳を握り締めた。
そして移動を再開する前に、視線を動かすことなく背後に声を投げかける。
「同行を頼んだ覚えはないんだが。ルークの差し金か?」
「これは失礼。研究者として、せっかくの大物だから間近で見てみたいと思ってね。足を引っ張るつもりはないから大目に見てくれ」
擬似的な暴風雨を物ともせずそこに佇んでいたのは、ローブとフードで全身を隠した奇怪な風体の騎士、アンブローズ卿であった。
彼の本業が研究者的な魔法使いであることはトラヴィスも把握している。
本来なら素顔も素性も隠した輩は信用できるものではなかったが、他ならぬルークが部下として信を置いているのであれば、それ自体がアンブローズを友軍と認める理由にはなる。
「何かあっても助けられんぞ。魔獣の撃破が最優先だ」
「結構。しかし奴は君を狙っているようだから、しばらくは同行させてもらうとするよ。ほら、さっそくお出ましだ」
アンブローズがそう発言した直後、トラヴィスはダゴンの体表に起きた異変を察知した。
岩肌じみた表皮を内側から突き破るようにして、魚と蛙と人間を足し合わせたような半魚人が何十体も出現し、垂直に近い胴体を四肢で這い回りながらトラヴィスに殺到する。
何とも生理的嫌悪感を煽る光景である。
まるで沸騰した湯の表面が泡立つかのように半魚人が湧いては、突き破られた表皮がすぐさま再生し、そのすぐ傍が再び弾けて眷属を出現させる。
「左腕一本で崖登りと雑魚掃除か。こいつは骨が折れそうだ」
「おや、右腕は使えないのかい?」
「魔力のチャージ中だ。貯めれば貯めるほどに威力が跳ね上がる代物だが、一発撃てば空になる。最大威力をど真ん中にぶち込んでやるつもりだ」
スキル名【魔力撃】――効果はアンブローズに説明したものでほぼ全てである。
端的に言えば魔力を込めた量に応じて威力が上がる打撃に過ぎない。
練度の向上に応じてチャージ上限が引き上げられ、同じだけの魔力を溜めた場合の威力も向上するが、それ以外に特異で複雑な効果はない単純明快な攻撃スキル。
実のところさほど珍しいスキルではなく、道具を使う職人が軒並み【修復】スキルを得ているように、肉弾戦を前提として戦う者の何割かは所有している平凡な代物だ。
「なるほど、それは是非とも見てみたい。ありきたりなスキルを極めた男がどこまでやれるのか……僕達は間近で目の当たりにしてきたわけだからね」
アンブローズがダゴンの岩張った表皮を蹴って跳躍し、そして巻き上がる突風に呑まれてトラヴィスの頭上に舞い上がる。
不注意にも飛ばされてしまった失態――などであるはずがない。
ダゴンの発生させた防風を逆に利用して、有利な位置を取ったのだ。
「だから邪魔者は僕が片付けよう」
ローブに覆われたアンブローズの体が、人体の物理的な構造を無視して歪み捻じ曲がる。
そしてローブの前面が開け放たれたかと思うと、内部から何体もの合成獣が飛び出してきた。
四肢と蛇と山羊。馬と鷲と蟷螂。六脚の虎と蝙蝠の翼と大鹿の角。
妖精じみた玉虫色の翅を持つ蜥蜴の群れが宙を舞い、様々な肉食獣の頭を持つ多頭の蛇が半魚人を食い荒らす。
――これを好機と見たトラヴィスは、怯むことなく左手と両脚で崖面を、ダゴンの体表を素早く駆け上がっていく。
アンブローズはさも当然のようにその隣に着地して、ローブの隙間から伸ばした虫の脚のような器官を補助に使い、トラヴィスの速度に合わせて追従する。
「あんな代物を出せるという話は聞いていなかったな」
「言っていなかったからね。僕みたいに請われて騎士になったような魔法使いは、研究を秘匿する権利を交換条件にするものさ」
「なるほど、つまり今回は特別な大盤振る舞いというわけか」
「その拳の一撃で魔獣を仕留めるという大言壮語、邪魔をされることなく鑑賞したいに決まっているだろう?」
眷属の半魚人が合成獣に蹂躙される隙に、トラヴィスは一気に腹部を駆け上がっていく。
しかし胸部まであと僅かとなったところで――ダゴンの巨大な掌がトラヴィスのいた場所に叩き込まれ、地平の果てまで響かんばかりの轟音を立てた。
アンブローズはその余波で吹き飛ばされたものの、空中でドラゴンにも似た翼を広げて踏み止まる。
そして水掻きを生やした巨大な掌が避けられた跡に――トラヴィスの姿はなかった。
「ははは! そんなにも楽しみか! ならば全力で見せつけてやるしかないな!」
トラヴィスはダゴンの巨大な手の縁に仁王立ちになり、何の脅威も感じていない表情で大笑いをしていた。
あのような大振りの一撃が直撃するはずなどない。
軽々と回避したうえで手の方に乗り移り、その手が胴体から離れていくのを利用して、胸部の中央と同じ高さにまで労せずに到達したのだ。
右拳には凄まじいまでの魔力が集い、ミスリルのガントレットが眩く光り輝いている。
「行くぞ! メダリオンの魔獣!」
トラヴィスが巨大な手を足場にして跳躍し、一直線に胸部の中央へと肉薄する。
そして空中で拳を振りかざし、最大チャージの【魔力撃】を岩盤じみたダゴンの胸部に叩き込んだ。
轟音、閃光、衝撃波――遙か下方の湖面が風圧で陥没し、局所的な暴風雨が弾けるように霧散する。
川岸の木々すら揺らぐほどの衝撃を浴びたダゴンの胸部からは、向こう側の緑豊かな風景が覗いていていた。
トラヴィスが放った渾身の一撃は、巨大極まる魔獣の肉体を文字通りに貫き、大穴を穿ち抜いてみせたのだ。
――塵のように崩壊して消えていくダゴンの後方で、無残にも折れ曲がったメダリオンが弧を描いて落ちていく。
このままでは湖の底に沈むよりなかったそれを、アンブローズが空中で掴み取る。
「お見事。まったく、まさか本当にただの一撃で仕留めるとはね。これは次の論文を書き直す必要がありそうだ。嬉しい悲鳴……になるのかな、一応は」
魔獣の残骸と諸共に湖面へ落下したトラヴィスを見下ろしながら、アンブローズはフードの下で短く溜息を吐いて首を横に振ったのだった。




