第640話
「水中だって? 見えてるつもりなんだが……もっと深くか」
船の縁から湖面を覗き込んで『右眼』を凝らす。
しかし湖底までの間に、何かしらの危険なものが存在する様子はない。
せいぜい感じ取れるのは、常識的な範疇の大きさの魚影の塊くらいであり、目的地の小島に向かって急激に切り立った湖底にも異常はなく――
「――ユリシーズ、急速離脱だ! トラヴィス、ガーネット、チャンドラー! 迎撃準備! アレクシアは一番強烈な呪装弾を準備してくれ!」
「どうした、白狼の! サーペントでも出やがったか!?」
ガーネット達が即座に武器を取って周囲を警戒する。
ユリシーズの反応もなかなかに早く、これまで渋っていた最大加速で一気にこの場を離脱しようとする。
だが、安全圏への離脱には後一歩足りない。
小山のように隆起していく湖面。
俺達を乗せた船もその隆起の端に巻き込まれ、ユリシーズの操船技術で辛うじて転覆を免れながら、急斜面と化した水面を滑り降りていく。
「うおわっ!? おい、白狼の! 何なんだこりゃ!」
「俺達はずっと奴の前にいたんだ!あれは島じゃない! 俺達が目指すべきだったのは別の小島だったんだ! 道理で影すら見えないはずだ!」
目的地だったはずの――否、目的地と誤認していた小島が、湖面の隆起に伴って高々と打ち上げられていく。
それは島などではなく、巨大な怪物の頭頂部。
鎧じみた岩石に覆われた、見上げるほどの巨体。
全身のそこかしこに鋭利な鰭を持つ半水棲の巨人が、上半身を湖面から突き出して、顎と鰓を広げて咆哮する。
この船が掌に軽々と乗りかねないほどの巨躯を見上げ、俺達は一人残らず驚愕に言葉を失っていた。
「な……半魚人で、巨人……!? 白狼の! こいつも野生の魔物なのか!?」
巨大な水棲生物の出現によって湖面が激しく波打ち、町を飲み込んで余りある大波が、俺達の船に次から次に襲いかかる。
ガーネットは片手で剣を握り、もう一方の手で船の縁を掴んで踏みとどまり、船尾付近からその巨体を睨み上げた。
「そんなわけがあるか! あんな代物、どこのダンジョンでも規格外だ!」
魔王軍が指定した『特定の岸辺から最も近い島』だと思っていたのは、いつからか湖の中に身を隠していた巨大な怪物の頭部だった。
本当に目指すべき場所はそこから更に奥、今は大波が弾ける向こう側にうっすらと見える島だったのだ。
原因不明の謎の水流は、恐らくあのデカブツが湖の水を吸い込んで呼吸をしていた影響だろう。
口で水を吸って鰓から吐き出すという一連のサイクルが、極めて不自然な水の流れを生み出していたに違いない。
「ひょっとしたら、あいつの正体は……!」
直感的に導き出した仮説の裏付けを得るために、俺は『右眼』に渾身の魔力を込めた。
――ぴしり、と右目の周辺に亀裂が走る感覚がする。
痛みとはまた違う。
日光に焼かれた皮膚が剥がれ落ちるように、子供の頃に幼い歯が抜け落ちたときのように、当たり前の現象が起きているのだという感覚がある。
これまでに幾度となく発生しては踏み止まった現象だが、決して望ましい変化ではないのだろう。
しかしこの異常の恩恵か、更に『右眼』の感覚が冴え渡っていくのを感じる。
怪物の正体が視える。湖に隠れた下半身の秘密が視える。
ならば『右眼』を閉じるべきではない。
少なくともこの窮地を脱するまでは。
「……やっぱりそうか! あれはスコルと同じ、メダリオンの魔獣――ダゴン!」
半巨人半魚人の巨大魔獣が水掻きの生えた腕を振るい、俺達の船を叩き潰さんとする。
ユリシーズがすかさず船をターンさせて直撃は免れるが、今の一撃を回避されることはダゴンの想定の範囲内だ。
「気をつけろ! 奴の下半身は巨大なサーペントの塊だ!」
「そう言われても、まったく想像できないんですがねぇ!」
即座にユリシーズが加速と急転換を繰り返す。
一瞬遅れて、水中から幾つもの巨大サーペントが牙を向いて飛び出し、少し前まで船のあった場所に次々突っ込んでくる。
その一体一体が尋常な魔物の範疇を逸脱した巨大さで、しかも全ての根本がダゴンの下半身に接続されており、その反対側からは何本もの長い尾が絡み合うようにうねっている。
あるいはこの湖で目撃されたサーペントのいくらかは、ダゴンが本体から伸ばした触腕のような首だったのかもしれない。
そんな考察は一旦頭から追い出し、俺は『右眼』を凝らしながら、曲芸じみた航行を続ける船から振り落とされないように踏ん張り続けた。
「団長! 一旦仕切り直ましょうや! このまま戦ったって埒が明かないでしょ!」
「全くだ! ユリシーズ! 全速力で振り切ってくれ!」
俺はユリシーズの提案を受け、すぐさまダゴンの攻撃範囲から離脱するように指示を出した。
唐突な遭遇から戦いにもつれ込むのは相手の思う壺だ。
現状、奇襲に成功されてしまった時点で、戦況は魔獣有利で俺達の不利――まずはこの不均衡をリセットしなければ。
しかしこの判断が誤りであったことを、俺達はすぐに理解させられてしまう。
「待て、ルーク! 魔獣が追ってこないぞ!」
トラヴィスの大声が耳に入り、俺は船の進行方向に送っていた視線をダゴンに振り向けた。
ダゴンは逃走を図る俺達をそのままにし、下半身のサーペントの首を伸ばそうとすることもなく、巨体に見合った緩慢な動作で体の向きを変えていく。
その先にあるのは――レイラ達が待機している地上拠点だ。
「ユリシーズ! 離脱停止! 奴の前に回り込め!」
「はぁ!? 死ぬ気ですか!」
「死ぬ気でやれ! さもないと岸辺の連中が殺される!」
「……くそっ! そういうことかよ!」
罵倒を零しながら舵を切るユリシーズ。
船体がほとんど横倒しになるほどの急激な旋回と、その状態からの急加速――船にこんな動きが可能なのかと疑わしくなるほどの極限機動で、魔力推進の小型艇が魔獣ダゴンの前へと回り込む。
ダゴンがそれを視界に入れた瞬間、古代の神像のように無機質なその顔が、まるで愉快そうに歪んだように見えたのは、果たして俺の錯覚に過ぎなかったのだろうか。




