第609話 今はまだ足りないもの
「がっ……ぐうっ……!」
歪む視界を白く濁った氷が塞ぎ、次の瞬間には粉々に砕け散る。
大小様々な氷の破片を撒き散らしながら、凄まじい速度の『何か』が数歩分だけ横を通り過ぎ、後方の壁に激突して轟音と衝撃を撒き散らす。
着弾の粉塵がもうもうと舞い上がる中、俺はその場に膝を突いて、腹の中身を吐き出しそうなくらいに激しく咳き込んだ。
「げほっ! がはっ!」
何とか立ち上がろうとするも、激痛が全身を駆け巡って脚に力が入らない。
右眼窩の奥が脈打つように痛む。
しかし痛むのは右目だけではなく、人工物に代替された右腕を除く全身が絶えず苦痛を訴えていた。
「及第点だ」
ノルズリが悠然と傍らに立つ。
氷の魔将はまだ立ち上がれずにいる俺を見下ろしながら、自分の右目の下を軽く指で叩いた。
それを見て俺は言わんとすることを察し、左手で右目の下を拭ってみたところ、案の定べっとりと赤い血が指にこびりついた。
眼窩の痛みの原因はこれだったか。
どうやら『叡智の右眼』などという強烈な魔力の塊を抱え込んだ右眼窩が、過負荷に耐えきれず傷を負ってしまったらしい。
「ほんの一瞬ではあったが、氷の壁は確かにできていた。ヴェストリの射撃を防ぎ止めるには至らずとも、軌道を僅かに逸らして直撃を避ける程度の役目は果たせていたぞ」
ガーネットに見つかって騒がれないように、ひとまず【修復】で傷を癒やして流血を【分解】する。
「しかし、魔獣ハティの力をそのまま使って壁を作るかと思っていたが、随分と手の込んだやり方をしたようだな。陛下にお伝えすれば大層お喜びになるだろう」
「……アルファズルも同じことができて、奴の足元くらいにはたどり着けたから……だろ?」
「自惚れるな。せいぜい足元を視界に収めた程度だ」
「見てきたように言うよな……俺の勘違いじゃなかったら、お前はアルファズルが死んだ後の生まれなんじゃないのか? まぁ……思った通りにいかなかったのは事実だけどさ」
どうにか立ち上がりながら、いつの間にか体から弾き出されて床に転がっていたハティのメダリオンを、痛みのない義手の右腕で拾い上げる。
ちょうどそのとき、付近で呆然としていた黄金牙の騎士達と、強化された体で全力疾走したガーネットが同時に駆け寄ってきた。
「ルーク卿! ご無事ですか!」
「ルークッ! 大丈夫か! 怪我は!? つーかノルズリ! テメェって奴は!」
文字通り牙を剥いて怒鳴るガーネットを宥めながら、右手に握ったメダリオンへ視線を落とす。
「なぁ、ノルズリ。第四階層でお前と戦ったとき、俺はこのメダリオンの氷を使ってどんなことをしたんだ?」
「……? 記憶にないのか」
「意識朦朧で無我夢中。記憶に自信がないから確認しておきたいんだ」
「ふん……これも対アガート・ラム用の戦力増強のためと思っておこう」
ノルズリは顔を歪めながら、俺が望んだ通りの内容を答えてくれた。
「あのとき貴様は氷細工で右腕を補い、帯びていた剣と他の装備品に用いられていたミスリルの部品を穂先とし、氷の槍を創造して私に投擲した」
「剣から氷の槍か……やっぱり俺の見立ては間違ってなかったな」
単なる対象物の【修復】ではなく、この場にない槍をありあわせの材料で再現する――これが実現可能であるという俺の判断は間違っていなかった。
「……ガーネットがハティの因子を限定覚醒させたときは、あくまで魔獣の力の一端として氷の壁を作ってみせた。俺はそれとは違う手段で……氷はあくまで材料だと考えて、スキルの応用で防御手段を作れないかと思ったんだが……結果はこの通りだ。一瞬しか保たないようじゃ実用には程遠いな」
もしもそれが上手くいけば、戦闘面でも万能に近いことができるのではと期待していたのだが、なかなかどうして都合良くはいかないらしい。
ガーネットは魔獣の強大な力を帯びたまま、普段以上に心配そうな顔で俺を見上げている。
そんなガーネットを安心させるように微笑みかけ、再びノルズリの方へ視線を向ける。
「今回もあのときも、貴様の外見に明らかな変化が見られた。左眼球は狼の如き灰色に染まり、頭髪は濃淡の斑な灰白色に。そして【右眼】は……いや、これについてはメダリオンと無関係だな」
「中途半端だけど限定覚醒はできていたわけか。だったらいよいよ残念だな」
もしかしたらガーネットと同じ姿で並び立てていたのかもしれない。
そんな未練を思考の隅に押し流しながら、失敗の原因を冷静に分析する。
「理屈の上では充分に可能だったと思う。上手くいかなかったのは、材質の強度の問題……要するに、俺の体が耐えられなかったからだ」
アレクシア達の試作品が強度面で満足できない性能だったように。
ヴェストリの戦闘服が【修復】にアガート・ラムの人形を必要としたように。
要求性能を満たし、意図した通りの機能と性能を実現するには、充分な強度を持つ素材を用いなければならない。
その点において、俺という人間の肉体は基準に達していなかったわけだ。
第四階層におけるノルズリとの戦いでも、今回のヴェストリとの模擬戦闘でも、俺は一瞬だけ強大な力を発揮しただけで力尽きてしまったのだから。
「耐えられないって……オレと同じように魔獣の力は宿せないってことか?」
「俺はお前みたいに、スキルの効果で見た目以上に強靭なわけでもないからな」
「さっきの話だと、現物もないのにイメージだけで【修復】しようとしたんだろ。そのせいじゃねぇのかよ」
「もちろん、それが負担を加速させたのは間違いないと思う。だけどこの調子じゃ、シンプルに【融合】させただけでも長くは耐えられそうにない。楽観的に見積もってもせいぜい数分ってところだ」
現に、さっきは壁を生成し始める前から、それなりの苦痛が全身を駆け巡っていた。
本格的に耐え難くなったのはスキルを発動させてからだったが、仮にスキルを使わず半端な限定覚醒だけで留めていたとしても、決して長持ちはしなかったに違いない。
これは【修復】スキルや『叡智の右眼』特有の欠点などではなく、純然たる肉体の耐久性の問題だったのだから。
俺の分析を聞いたノルズリが、下らないことを言うなとばかりに鼻を鳴らす。
「単純な話だ。アルファズルの力を今まで以上に引き出せるようになれば、貴様が想定したようなことも容易に可能となるだろう。肉体強度が足りずとも、精緻な技術をもってすればいいだけのことだ」
「アルファズルに体を明け渡すつもりはないって言っただろ」
「ならばこれで満足して諦めるか?」
挑発的なノルズリの言葉に、精一杯の不敵な笑みを返す。
「まさか。諦めるつもりは毛頭ないね。これまでも、足りない分は工夫で補ってきたんだからな。それに……新しいアイディアも浮かんできてるんだ」




