第595話 変わりゆくものを振り返って 後編
明らかにからかうような態度のガーネットに、恐ろしく断りにくい名目で誘いをかけられてしまい、誘われるがままに山道を歩いていく。
山の奥へと続くその道は、丁寧に整備されたこれまでの道とは対照的に、野外らしい荒々しさが残っている。
しかし道なき道というほどでもなく、小型の荷車の轍に沿って雑草の生えない部分が伸び広がっていたり、人の生活の痕跡は色濃く残されている。
「ここに来るのって、結構久しぶりだよな。こっちで商売始めてすぐに来たのは覚えてるけど、それ以来じゃねぇか?」
荷馬車の轍を辿ってしばらく歩いていると、周囲を覆っていた木々が急に数を減らし、見晴らしのいい開けた場所に出た。
そこは山中に輝く湖であった。
澄み渡った湖面には雲ひとつない青空と緑豊かな山々が反射し、ただ眺めているだけでも息を呑むほどの光景が広がっている。
「前に来たときは、桟橋の修理の依頼を受けたんだっけか」
「春の若葉亭で使ってる魚のいくらかも、この湖で捕れた奴らしいぜ。漁師の荷車が毎朝通ってるから、あんな風に轍のところだけ草が生えてなかったんだろうな」
ガーネットはだいぶ前に俺達が【修復】した桟橋の上を歩き、その先端に腰を下ろした。
俺もその隣に座り、陽光できらめく水面に向けて足を投げ出した。
爪先を伸ばせば水面まで届きそうな気がするが、一方のガーネットは割と余裕を持って脚をぶらぶらさせている。
「そういや、さっきユリシーズの奴、地上の湖で釣りするときに『船』を出してるって言ってたよな。それってひょっとして、この湖のことだったりするのかね」
「かもしれないな。他に湖があるって話は聞かないし、あったとしてもここが一番の近場だろうしな」
他に釣りができそうな場所といえば、グリーンホロウ付近を流れる幾つかの川なのだろうが、さすがにそれらは船が浮かべられるほどの大きさではない。
何なら町の子供が端から端まで歩いて渡れるような川である。
「オレは釣りってあんまりやったことねぇんだけど、釣りが趣味の騎士って結構いるんだぜ」
「へぇ、そうなのか」
「大陸が統一されて以降の流行らしいんだけどな。昔は騎士や貴族の娯楽といえば狩猟だったんだが、騎士団に公務を担わせるようになってからは、狩猟に向かない土地に派遣されることも珍しくなくなって……」
「……それで、代わりに釣りを始めたと。面白いもんだな」
俺とガーネットが交わしている会話は、大した意味もない文字通りの雑談だ。
知ったところで意味はなく、語ったところで得るものはない。
けれど、むしろそれがいいのだ。
理由のある情報交換などではなく、お互いの存在を感じながら時間を潰す……ただこれだけのことが何よりも心地よかった。
「そういやさっき、お前の中身が変わってねぇって言っただろ? だけどさ、オレの方はだいぶ変わっちまってる気がするんだよな」
「ああ、それは何となく分かる。最初に会った頃のお前って相当なクソガキだったからな」
「ちげーっての。そっちじゃなくってだなぁ」
ガーネットは気まずげに表情を歪めながら、拳一つ分だけこちらに身を寄せた。
そして露骨に視線を泳がせながら、水面の上でしきりに脚をばたつかせ、ぼそぼそと小声で呟き始める。
「昔はとにかく母上の復讐をすることばかり考えて、それさえ果たせりゃ後は野となれ山となれって感じだったんだけどな。今は、何つーか……早いこと決着をつけて、その後のことを……お前と考えたりしたいって……」
「おや、ルーク殿にガーネットではありませんか!」
「うおわああああっ!?」
唐突に背後から呼びかけられたせいで、ガーネットが慌てふためいて湖に転落しかけてしまう。
俺はとっさにガーネットの体を抱きとめて、桟橋の岸側の縁に立つ声の主に向き直った。
「ああ、びっくりした。何だサクラか。こんなところでどうしたんだ?」
ガーネットの軽い体を持ち上げて座り直させてから、桟橋の縁から立ち上がってサクラの方に向かう。
これくらい離れていたなら、ガーネットの呟きは全く聞こえていなかったはずだ。
むしろ、俺達が会話を交わしていたかどうかも分からなかったに違いない。
だからこういうときは慌てず騒がず、急に大声で呼びかけられたせいで驚いたのだ、という体で振る舞えば何の違和感も与えないだろう。
「剣術の鍛錬でもさせていただこうと思いまして。ここは昼を過ぎればあまり人が来ませんから、思う存分に剣を振るうことができるんです」
「確かに『釣りをするなら朝か夕方の涼しい時間帯がいい』って聞くな。魚も真っ昼間には暑くて動きたくないんだったか」
「お詳しいですね。それで、ルーク殿は何かお仕事でも?」
「いや、ただの散歩だよ。久しぶりに丸一日ずっと休みにできたから、普段は行かない場所を歩き回ってみようと思ってさ」
桟橋の先端に置いていかれたガーネットは、俺がサクラと話している間に呼吸を落ち着かせることができたようで、何食わぬ顔で自分も会話に混ざろうとしてきた。
「自主訓練か。オレも付き合ってやろうか?」
「さっきチャンドラー達と遊んだだろ。次は【修復】の前にとびきり染みる薬でもぶっかけるぞ」
「冗談だっての。悪いな、サクラ。さっき騎士団本部の方で派手にやってきたばかりなんで、相手はできそうにねぇや」
「それは羨ましい。実力者との手合わせほど有意義な鍛錬はありませんからね」
サクラは口元に手をやってくすりと笑い、そして改めて俺の方に向き直った。
「ルーク殿。急ぎの用事ではないのですけれど、また後日、ゆっくりお話する機会をいただけないでしょうか」
「構わないけど……どうかしたのか?」
「神降ろしについて、他ならぬルーク殿とお話がしたいのです」
そう言って浮かべた微笑みの裏には、これ以上なく真摯で真剣な思いが込められていた。
「……分かった。仕事の後でもよければ、いつでもうちに来てくれ」




